第816号
発行日:1995年1月11日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
日顕宛の密書に山﨑は、文芸春秋は「すべて私の友人」で
「光文社は、編集者に金をやれば何でも書く」と記している
〈山﨑正友密書編(3)〉
山﨑正友は先の文書において、日顕が先師方の僧俗和合の路線に終止符を打ち、創価学会を“破門”したことについて「根性」があると称賛している。そのうえで山﨑は現状の分析を次のようにおこなう。
「総論はさておき、最近感じたことにつき数点、申述べさせていたゞきます。
一、これまでの戦いを振りかえって、
私の視点から見たところでは、宗門側にとって、まず の展開であろうかと思います。
出て行った僧侶達は、はっきり云っていずれ僧侶をやめてもらった方が良いような人物ばかりです。(もう少し、出て行ってもらった方が良いのが残っていますが)実害のない現象は余り気にすることはないし、この際、手足(ママ)まといになったり、こっそり敵に内通されるよりは、出て行ってくれた方が今後、やりやすいはずです」
日達上人の時代にあって、山﨑は日達上人を誑かし、正信会を煽って僧俗和合を破壊した。日顕登座後においても日顕の相承自体を否定し、正信会を煽動するだけ煽動し、宗内を混乱させた。
山﨑が正信会を過激に煽ったが故に正信会は戦略なき暴走をおこない、ついには約百八十名が擯斥処分となった。この正信会の輩と、今回、宗内を後にした日蓮正宗改革同盟や憂宗護法同盟などとは本質的に立場を異とする。
しかしながら、日顕の単細胞から見れば、いずれも反日顕で変わりはない。ということは、山﨑が正信会についても、同じ筆致でものを書くことが近い将来にあることを、この文は示唆していると言える。
つまり、正信会復帰工作のとき、山﨑の説得に恭順の意を示さなかった者には、山﨑から同じような悪罵が浴びせられるということである。
ところで、「もう少し、出て行ってもらった方が良いのが残っていますが」と言い放つ山﨑の文を、“法主”たる日顕が唯々諾々として読んでいる姿を想像すると、虫唾が走る思いにかられる人は宗内には多いのではあるまいか。
「たゞし、会員の切りくずしは、はっきり云って失敗でしょう。先手必勝の戦いの分野で当初、宗務院がブレーキをかけたのが失敗の第一です。作戦とか、戦術というのは、戦争がはじまるまでのもので、いざ始ったら、戦意とスピードがものを云います。まして、昭和五六年のときのこともあって、会員、信者が宗門に対してどこまで信を置いてよいのかと見守っている時期に、宗門が煮え切らなかったことは致命的でした。このまゝだと、多くの会員は、学会の中で次第に腐ってゆくでしょう。可愛想なことです。もちろん、学会が勢力を増すということも考えられません」
日顕らが、当初見込んでいた創価学会員の切り崩しができなかったのは、とりもなおさず日顕の責任である。
「禅寺墓問題」(平成三年十月発覚)、「芸者写真問題」(平成四年十一月発覚)、「日顕シアトル買春事件」(平成四年六月発覚)など、日顕の不始末によって創価学会員は宗門に対する幻想をフッ飛ばしてしまった。
宗門が思いどおりに創価学会員の切り崩しができなかったのは、創価学会側の卓抜した指導性があったればこそであるが、なににもましてそれに手を貸したのは日顕の不行跡であった。
宗門の存立は、どれほどの創価学会員を切り崩すことができるかどうかにすべてがかかっている。檀徒の獲得はすなわち生命線を確保することにつながり、このことに失敗して、日顕のおこなった「C作戦」が部分的にも肯定されることなどありはしない。
それにもかかわらず、山﨑は作戦の根幹における日顕の失敗を見逃し、あろうことか、その一切の責任を宗務院になすりつけているのだ。
この山﨑の分析(ただし冷静な山﨑が、日顕が宗門側の攻勢の足を誰よりも引っぱったことを認識していないはずがない)に手前勝手な考え方しかできない日顕が共鳴したことは容易に想像できる。
「マスコミ、言論戦については、外部のマスコミについては、おしなべて宗門側寄りですし、世間の認識も、行きすぎた創価学会が日蓮正宗より破門された、との見方で、学会の方が悪くなっています。しかし、当亊者同士の言論戦では、創価学会が優勢です。これは、宗門側に論客がいないこと、文書による宣伝戦、破壊工作のできる人がいないこと、そして、正信会との紛争から生ずる制約があって、効果的な理論の展開がしにくいこと、などが考えられます。世間の関心は何といっても一時的ですから、今後、一考を要します」
マスコミが「おしなべて宗門側寄り」とする山﨑の見方はまったくの誤りである。マスコミは「おしなべて宗教ぎらい」であり、なかんずく「坊主ぎらい」であるとはいえる。
なお、言論戦で創価学会が優勢なのは、創価学会に義も理もあるからにほかならない。
さて、ここでもっとも注目されるのは、山﨑が「破壊工作」という文言を記していることである。山﨑は過去に創価学会顧問弁護士であったころ、自己の判断でさまざまな謀略をおこなったが、山﨑の去った後、創価学会には謀略は存在しない。
そのことはすなわち、山﨑が謀略の生みの親であり、張本人であったことを示す。この密書で山﨑が日顕に「破壊工作」の必要性を説いていることは、そのことを裏づける。
「二、今後の問題点について、
(一)、マスコミ対策について、
ある方面で、朝日を強く推されたのに対し、私は、文芸春秋をお推めしました。新聞社のような大きな組織では、必ず二股をかけるのです。こちらに、熱心に近よってくる記者がいると、その上役は敵方に通じていて、情報はまるまる流れます。又、編集者や担当記者が変ると、手のひらをかえされることがよくあります。出版社系でも、そうしたところがあります。小学館などがそうです。これに対して、文芸春秋は、社長の田中建五、編集局長堤尭、そして、各雑誌の編集長ら、すべて私の友人で、全社が学会きらいです。向う十年間は、この姿勢は変らないでしょう。日本のマスコミをリードするのは、朝日と文春といわれています。今回の問題は、新聞社系ではフオローしにくい性質の事件でもあります。
講談社系(現代)は、出版物も極めて多彩で、学会とのかゝわりも複雑です。従って、文春のように単純な図式ではまいりません。一方、週刊新潮は、学会ぎらいでは人後に落ちませんが、少し意地の悪いところがあって扱いにくいところがあるのです。
なお、光文社は、編集者に金をやれば、何でも書いてくれます」
山﨑が『朝日新聞』を推せない理由はハッキリしている。かつて昭和五十五年の恐喝事件当時、山﨑の乱発した確認されているだけで総額十億八千万円強、二百二十三葉の約束手形に『朝日新聞』の記者らは呆れ果て、山﨑の犯罪性を見抜き、山﨑の情報操作に乗らなかった。
山﨑にとって『朝日新聞』は、なによりの苦手である。かつ、恐喝事件当時、“正義の士”を装っていた山﨑が逮捕されたとき、その化けの皮をはがされ、いかに哀れな姿をさらしたかを『朝日新聞』の記者はしっかりと見つめている。
そのときの状況は、次のような記事となって『朝日新聞』(昭和五十六年一月二十五日付)に掲載された。
「小柄な山﨑正友を突然、三人の男が取り囲んだ。『警視庁の者です。緊急にお話をうかがいたいことがあるので、同行願います』。一瞬キョトンと男たちを見上げたあと、山﨑の顔はみる間にあかく染った。二十四日午後二時四十二分。東京四谷の山﨑の自宅前、『新宿通り』の歩道上。この八ヶ月にわたって社会をにぎわせた創価学会攻撃キャンペーンの『主役』が一転して刑事事件の『主役』に転じる“その瞬間”は、まことにあっけなかった。『本当に警視庁の人なんでしょうね』。手はブルブルふるえ、声もかすれがち。待機していた小型乗用車の後部席に押し込められるように乗ると、そのまま警視庁に連行された」
これほどに山﨑の本質が見抜かれてしまっているのだから、山﨑が『朝日新聞』を宗門とタイアップするマスコミ媒体として推さなかったのは、充分に得心できることなのである。
山﨑は「小学館」に対しても否定的に書いている。「小学館」は『週刊ポスト』を発行している。『週刊ポスト』は昭和五十三年当時、正信会に連動して、創価学会組織の切り崩しの一翼を担った。
この当時、『週刊ポスト』編集部の一員として働いていたのが、当時、正信会の中核的活動家であった高橋公純(現・日蓮正宗本応寺住職)を兄にもつ段勲である。しかし段は、その後、ほかの宗教団体に対する取材において金銭的疑惑をもたれ『週刊ポスト』編集部から追われた。
以降、『週刊ポスト』編集部は、段や山﨑の思惑どおりに創価学会に関する記事を書くことはなくなった。そのような歴史的背景があるから、密書において山﨑は「小学館」を退けているのである。
「講談社」についても山﨑は否定的に書いているが、これにも理由がある。「講談社」の発行する月刊『現代』は、昭和五十五年の創価学会恐喝事件においては、山﨑や内藤国夫に利用され、恐喝を幇助するかのような役割を担わされた。
つまり、月刊『現代』は、山﨑が内藤に話した虚偽の「内部告発」を真に受けて記事として掲載したのである。
それだけではない。この月刊『現代』の記事ゲラが、山﨑の創価学会恐喝の小道具として使われた。この苦い出来事があるため、「講談社」は山﨑をいまだに警戒しているのである。
したがって山﨑は、「講談社」を創価学会攻撃をするためのマスコミ媒体として利用することを断念せざるを得ないのである。
『週刊新潮』は、月刊『現代』同様、かつて山﨑が創価学会攻撃に使ったことがある。昭和五十三年七月二十七日号の『週刊新潮』は、「池田会長の『奢れる現場写真』三枚が流出した創価学会の反乱」と題する創価学会の批判記事を載せているが、この記事ネタを提供したのは山﨑である。
このとき山﨑は、創価学会中枢の「内部告発者」を装い、『週刊新潮』編集部の記者と電話で話をした。山﨑はハンカチを口にあて、音声を変えて記者に語りかけ、創価学会攻撃に効果的な記事を書かせようとしたのである。
ところが、『週刊新潮』は創価学会を攻撃するだけでなく、山﨑の意に反して日蓮正宗の日達上人をも切ってしまった。これにあわてた山﨑は、部下を使って出版社と取引をして、日達上人にかかわる文言を削り取らせたことがあった。
山﨑はこのような過去の経験から、最終的には対立する両者をともになで切りにするという『週刊新潮』の手法を不都合と考え、日顕に『週刊新潮』を推挙していないのである。
いずれにしても、この文でわかることは、山﨑正友と『文藝春秋』の関係が、ただならない関係にあるということである。ここでもう一度、その箇所を引用してみよう。
「文芸春秋は、社長の田中建五、編集局長堤尭、そして、各雑誌の編集長ら、すべて私の友人で、全社が学会きらいです。向う十年間は、この姿勢は変らないでしょう」
山﨑正友と「文藝春秋」首脳らが盟友関係にあることが、この一文で明確になる。
それにしても、「光文社」とはすなわち、『週刊宝石』や月刊『宝石』などを指すのだろうが、「編集者に金をやれば、何でも書いてくれます」とは、どういうことだろうか。
謀略家、ペテン師、恐喝犯などと評される山﨑から、ここまでの書き方をされる日本の言論界に失望せざるを得ない。
「さて、こうしたマスコミに対しても、ちゃんとしたつき合いが必要です。都合の良いときだけ良い顔をして、都合が悪いと知らん顔では、彼らも次第にはなれて行きます。正直いって、宗門のマスコミ対策は決して評判が良くありません。そうでなくても世間の関心は移りやすく、この問題も次第に扱いにくくなっている、と関係者は云っています。マスコミ関係者に評判が良かったのは、福田先生だけです」
この文で、現在、宗門を代表してマスコミと接している渉外部長の秋元広学、同主任の梅屋誠岳を、山﨑正友が暗に批判していることは誰の目にも明らかである。そうしておいて、自分がもっとも御しやすい「福田先生」すなわち本地寺住職・福田毅道をマスコミ対策の責任者として推挙しているのである。
かつて、日達上人時代に同上人の娘婿で海外部長であった大宣寺住職・菅野慈雲を自家薬籠中の者とし、山﨑は「海外部長通達」まで菅野になり代わって書いていた。その菅野同様に、福田毅道ならば自由に操れると思っているのだろう。
ともあれ、平然と役僧の勤務評定までする山﨑の文に、日顕と山﨑の信頼関係が並々ならぬものになっていることがうかがわれる。この密書の以前に、山﨑と日顕との間には、過去の対立を氷解させるだけの何度かにおよぶ意思の疎通がなされたのだろうと推測される。
日顕に宛てた山﨑の書簡