第814号
発行日:1995年1月10日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
過去に日顕の「血脈」相承を先頭に立って否定した山﨑が
「日蓮正宗は血脈を保たれ今日に至っております」と書いた
〈山﨑正友密書編(2)〉
手紙の冒頭、狂乱する法主・日顕に対し歯の浮くような言葉を羅列した山﨑正友は、日顕のご機嫌がほどほどにほぐれたのを見計らい、軍師然として状況分析をし始める。
「今日、日蓮正宗と創価学会は絶縁し、全面的な対立状態となっていますし、戦線も拡大しています。私ごときが岡目八目で考えることなど、余り意味もないことかもしれません。しかし、好むと好まざるとにかゝわらず、私も、日蓮正宗と創価学会の問題に、相当初期のころから、相当深くかゝわってまいりました。正宗の厂史も創価学会の本質も、可能なかぎり学び、かつ体験しました。それ故に、現在が、日蓮正宗の厂史上、極めて重大な時期であるということを痛感するものでございます。ともすれば、眼前の、創価学会とのドロドロとした争いに関心を奪れがちですが、ことの本質は、そうした相対的な次元のことではなく、明治以後おろそかにされていた近代化への対応、戦後の社会制度の変化への対応、そして、社会的にとるに足らぬミクロの存在から、社会に影響を及ぼし得る存在になったことに対する適切な自覚と対応が、今こそせまられていると思うのでございます。
例えば、囗立戒壇論でございます。三大秘法抄で説かれる戒壇論は、“三秘総在の御本尊ましますところ事の戒壇なり”と説かれる場合とは異る次元の論議でございます。それが、明治以後、囗家主義の風潮の中で、“囗立”ということが云われるようになり、厂代御法主上人も公に述べられております。小さな一教団が、天皇主権の囗家制度の中でそう主張することは、さしたる社会問題ともならないし、現実に具体的なスケジュールをともなわない間は、キリスト教の“神の囗”と同じく、形示上のユートピア論、つまり純粋なる宗教教義の世界の問題として自由であったことでしょう。しかし、社会制度が根本的に変り、しかも、現実に社会に或程度の影響を及ぼす存在になった後に、あえて現在の民主主義体制、信教の自由を否定する囗家体制を理想とするユートピアをかゝげて活動をするということは、改めて考えてみなくてはならぬことでしょう。教義上、あえて現体制の変革を主張することになるユートピア論を固持ししかもその教団の勢力が社会にとってあなどれぬものとなれば、その教団が、社会から攻撃を受け、疎外されることは当然であります。それによって蒙むる打撃を考え、覚悟した上で、なお、それで進むというなら、それでよし、教義上、仏法が制度にとらわれるものではないとするならば、もっと柔軟な路線が考えられるでしょう。いずれにせよ、“今が広宣流布である”とか、“正本堂が御遺命の戒壇である”ということは、もはやナンセンスであり、その建立は、未来にかゝることになるでしょう。たとえて云うなら、劇場内の一観衆としてヤジをとばしていたのが、いつの間にか役者として舞台に上っていた、というのが日蓮正宗の立場であり、そのことに充分気がつかなくてうろたえているうちに、創価学会の天下取り構想に乗せられてしまって暴走しはじめた、というのが、いつわらざる姿だったのではないでしょうか。故日達上人の御発言を厂史的にたどってみますと、その軌跡がはっきり見えると思うのでございます。
今、戦後まもなくの頃の原点にかえって、改めて、教義上の再検討を行い、はっきりした指針を出すべきではないでしょうか」
山﨑は、日蓮正宗が信徒団体である創価学会の弘法によって未曾有の大発展をなしたという歴史を前提に、「社会的にとるに足らぬミクロの存在」であった日蓮正宗が、「社会に影響を及ぼし得る存在になった」ことに、変革しなければならない根本原因があることを強調する。
その一例として「国立戒壇論」を述べているのだが、これはいささかウンチクを示し、たんなる事件屋ではないことを認識させる効果を狙うと同時に、前年(平成四年八月)の全国教師講習会において、日顕が「国立戒壇論」「民衆立戒壇論」という両論を否定して掲げた「国主立戒壇論」に阿諛追従しようとするものである。このとき、日顕が「国主立戒壇論」を述べたことに対する宗内の空気は極めて冷たかった。それは、日顕が両論を否定している形はとっているが、実際のところ、「民衆立戒壇論」を否定し、顕正会(元妙信講)の「国立戒壇論」に近い論であったがためであった。
それだけに宗内の者は、日顕が顕正会を宗門に復帰させる地ならしをしているのではないかという疑いの目を向けたのである。おそらく山﨑は、それらの宗内の空気を出獄後、聞いたのだろう。日顕の論に助け舟を出してやり、日顕の心に入り込もうとしているのである。なお、山﨑が「戒壇論」について論を展開できるのは、昭和四十年代後半、創価学会顧問弁護士として妙信講(当時)と論争した経験があるからだ。
山﨑が密書の中で述べている「国立戒壇論」否定の論は、その当時、知り得たことの受け売りである。山﨑には教学的および思想的な知識はほとんどなく、形而上的な思索をする能力はあまり認められない。
皮肉な言い方をすれば、創価学会を“破門”して、「社会的にとるに足らぬミクロの存在」に戻ってしまった現在の日蓮正宗においては、山﨑の論によれば「国立戒壇論」であろうとなかろうと、どうでもよいということになるが、どうだろうか。
「御法主上人猊下の今回の御決断は、日蓮正宗の、戦後五十年にわたる厂史の総括ともいえることでございます。戦後の“信教の自由”社会において、“布教”を最優先に考え、最強の在家組織を育成し、勢力拡大につとめたのが、日蓮正宗の戦後史でありました。それは必しも宗門の主導によるものでなく、創価学会に引っぱられたものであったにせよ、結果は先に述べたとおりです。その結果生じた“教団の質の変化”“下克上”によって、自家中毒症状をおこしてしまったのです」
山﨑は、日顕が先師・日達上人ならびに池田名誉会長を否定したいとの衝動にかられていることを見抜き、それに対して調子を合わせているのである。日達上人は亡くなる直前の昭和五十四年六月頃、正信会についても、
「どうも正信覚醒運動の方向性はおかしい。彼らはかならず本山に矢を向けてくる。あのメンバーの中に入っているのなら、いまのうちに抜けておけ」
と、小川只道(現理境坊住職)に話していたという。山﨑に操られている正信会を警戒し、同時に山﨑の弁に乗せられた、みずからの晩年を後悔してのことと思われる。
日顕が、長年にわたり功績のあった創価学会を一方的に“破門”にした今回の事件は、日顕が増長したことにその根本原因がある。
もし仮に、そのことに目をつむり、社会学的に両者対立の原因を求めるならば、「社会的にとるに足らぬミクロの存在」であった日蓮正宗が、世界的存在となった創価学会についていくことができないがゆえに起きた軋轢が、本質的な問題であったという認識となるだろう。
この民主平等の時代に、いつまでも僧の権威を振りかざし、慈悲の心なく威張る僧の存在自体が、時代錯誤のゆえに民衆の側から存在意義を問われたとも言える。
宗教法人としての法的運営もデタラメ、御供養の扱いもズサン、会計処理も不備そのものといった上野村の一山寺が、信徒の力が偉大なゆえに社会的地位が向上したのに、本質を過ち、信徒の上にあぐらをかき続けたというのが、偽らざる過去の姿である。
それでも創価学会側は堪忍し、日蓮正宗の出家に尽くした。だが、それでも満足しない日顕は、池田名誉会長を無きものとし、創価学会を乗っ取り、全創価学会員を隷属させようとしたのであった。
“現代の提婆達多”を自称する山﨑正友が、それらの事実経過を一切、捨て去る文を綿々と書き連ね、狂乱した“法主”のもとに密書を差し出していることが、いかにも片腹痛い。狂った老人は事実から目をそらした聞こえのよい言葉のみを好むことを、山﨑は見通しているのである。
「私は、日達上人は、どうしても創価学会を切れなかったと思います。自らの功を自ら否定することになったからです。日達上人は、現御法主上人のきびしさ、決断力に期待されそれを“根性”と称されたのです。池田大作以下創価学会首脳は、その“根性”を見誤ったのでしょう」
山﨑は日達上人に対しては、同上人を絶対としておもねった。出獄後においても日達上人に信伏随従しているかのごとく装い、それを表看板にしてみずからの正当性を山﨑は喧伝している。たとえば、山﨑著『平成獄中見聞録』には、
「ここまで突っぱって来たのは、亡くなられた日達上人の遺志を果たすため、ただそれだけが理由だった。私は思い込んだら、こうと決めたらテコでも動かぬ男だし、向う見ずである。人はどういう見方をしようと、信仰の根本を貫くことに人生をかけた、と自負し、秘かに誇りに思っている」
という一文がある。山﨑はみずからのありもしない信仰心を演出するために日達上人の権威を借り、その裏では日顕に対し、日達上人を日顕より下におく評価をして取り入ろうとしているのである。
状況によってどうにでも人の評価を変える山﨑のご都合主義が、ここにも表れている。山﨑にとって、もっとも賢く、もっとも尊いのは自分だけなのである。人知れぬ底意をもっているがゆえに、傲慢さを隠し日顕に追従できるのである。
それにしても、創価学会を“破門”したという一点において日顕に「根性」があるとし、その「根性」を日達上人が期待していたとは、どういうことだろうか。山﨑の弁によれば、日達上人には「根性」がないということになるのだが、正確には、この場合の「根性」は“狂暴性”と表現すべきではあるまいか。
「それにしても、今、問い直されるべきは、在家集団の是非、ないし、その在るべき姿であり、又、僧侶として、信者の教化育成への取り組み方であります。宗門全体としても、布教と教化育成のための、広報、出版、教育を考えなくてはならぬときです。正しい教義の解釈のもと、化儀と布教活動を、もう一度考えなおすべき時ではないでしょうか。
“戦う姿勢”についても考えなおす必要がございます。法を壊す者に対し、勇敢かつ勇猛な戦いをいどまなくては、仏弟子とは云えないでしょう。そのための制度を充実させるとともに一人 の理論武装も必要でしょう。
今、大きな波のうねりの中にあって、まさに改革のチヤンスですし、それに失敗すれば前途はきびしいものと思えてなりません」
山﨑に「理論武装」などという言葉を使う資格があるのだろうか。その場しのぎの言辞を吐き、人を騙すことには長けていても、系統立てた理論は持ちえていない。後言が前言を否定し、前言が後言の過ちを際立たせる。
山﨑の弁説には、いつも矛盾がつきまとっているのである。次に続く文もその好例である。
「ふりかえって、日蓮正宗の厂史とは、即、厂代御法主上人の御亊績の記録であります。宗、開、両祖󠄁様はもとより、多くの徳の大きい上人方によって、日蓮正宗は危機を乗り切り、血脈を保たれて今日に至っております。
今は、身延離山以後、最も重要な時であると、私は、息をつめる思いで見守らせていたゞいております」
山﨑は先ほどまで日顕が先師方のなしえないでいたことに終止符を打ち、「英断」をもって創価学会を破門してきたことをほめたたえていたのに、一転して日蓮正宗の「血脈」に表現される一貫性をほめたたえている。そして、日顕をもまた大徳の「上人方」に連なる者として位置づけているのである。
山﨑は巧言令色に腐心して文を書いているから、このような矛盾した文を平気で書くことになるのである。山﨑は物事に幻想も抱かなければ、ロマンも描かない。富と色にしか価値を見出さない成り金趣味の猟色家が、「血脈」などという言葉を口にするとき、心の内ではうすら笑いを浮かべていることを知るべきである。ともあれ、山﨑には“史観”がない。
山﨑は、この文で「日蓮正宗は危機を乗り切り、血脈を保たれて今日に至っております」と明記しているが、山﨑が日顕に「血脈」が相承されていないと囃したことに乗せられ、“破門”になった正信会の輩は、この文をどういった気持ちで読むのだろうか。
日顕に宛てた山﨑の書簡