第777号
発行日:1994年6月22日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
「血」によって裏切られた日顕の母・スマの出家の動機は
出家社会に「血」によって結合した「家」を作ることだった
〈「出家」考〉
のちに日顕の母となる彦坂スマは、明治三十年十二月、小石川区(現・文京区)柳町で生まれた。スマの父は石川貴知、母は彦坂ぶん。ぶんは石川貴知の妾であった。ぶんは石川との間に一男一女をもうけたが、石川は弟のみを認知し、姉のスマを認知することはなかった。
スマの母、ぶんは慶応元年八月、愛知県豊橋に生まれ、石川の妾になる前、二度、結婚に失敗し離婚している。ぶんは二度目の結婚に破れたのち、東京に出て、白山花街(現・文京区)の八軒矢場で働き始めた。
この射的場で働く女性は、客に酒を出し、ときには客をとるなど私娼を兼ねる者もいた。ぶんは、この白山花街で生活するうちに静岡県出身の石川と知り合い、妾宅に囲われる。
時は移り、スマの娘時代。ぶんとスマは、小石川区柳町に住み、大塚三業地(現・東京都豊島区)の料理屋で女中をしていた。
この時代、スマは母・ぶんとともに、大石日応が西片町(現・東京都文京区)に開設した「法道会」(法道院の前身)に縁し、日蓮正宗に入信する。スマ(出家して妙修を名乗る)は、入信に至るまでの模様を次のように回顧している。
「“幼い頃から、私はちょっと変っていたようです”という妙修さんは、小学校時代から儒教道徳の中で教育され、父親からは四書等も仕込まれた。しかし、お寺へ行くのが大好きで、神や仏の存在は学校へ上る以前から考えていた。二十一の歳まで、芝居や映画は一度もみない生活──それでいて天理教に、キリスト教にと随分通ってみたのである。とにかく何か求めていた事は激しく、しかし遂に満たされず、路傍説教までしたキリスト教も捨てて、田中智学(国柱会)の門を叩いた事もあった」(昭和三十三年四月十一日付『聖教新聞』)
スマの回顧を元に書かれたこの記事からも、スマが若くして宗教に大変な興味を持っていたことがわかる。自分の出自、花街での女中仕事などを通し、スマは人生に懐疑の思いを抱いていたのだろうか。
いずれにしても、同時代の娘よりはるかに大人びていたことだろう。なお、回顧の中でスマが、「小学校時代から儒教道徳の中で教育され、父親からは四書等も仕込まれた」(同)と語っていることは、注目に値する。
真実のところは、妾腹の子で認知もされず、娘時代は女中をしながら暮らす生活であった。この虚飾の回顧談は、スマが六十一歳のときだから、この歳になっても、スマは出自に対するコンプレックスが拭い去られていなかったということになる。娘時代、スマは心にどれほどの重荷を担ったことだろうか。
敏感な年頃にあった娘時代のスマは、社会に対しどのような感情を持って宗教を求めたのだろう。スマの心に、社会に対し、“恨”“厭”の感情があったことは、誰しもが察するところだろう。
そのようなスマが、日蓮正宗の信仰に縁したことにより、常泉寺において下働きをすることになる。日顕は、この時代の母・スマについて、「私の母親も、開師のおそばにおりましたので、常泉寺のまあ台所の方で働いておった訳で」(『大日蓮』昭和五十四年九月号)と語っている。
このことによっても、スマが常泉寺住職をしていた阿部法運(のちの日開)と結婚することを約して常泉寺に入ったのではなく、下働きをしているうち肉体関係ができたことが知れる。
下働きの女性・スマが、住職・法運の子を産んだのは、大正十一年十二月のことで、このとき、スマ二十五歳、法運四十九歳だった。法運にしてみれば、まだうら若いスマは、弟に寝盗られた、かつての十六歳の新妻を連想させるものがあったのかもしれない。
だが、法運はスマだけで満たされることはなく、複数の女性と淫蕩な関係を続けていたようで、そのことは宗内の評判となった。
また、常泉寺内には、スマ以外にも関係していた女性もいたようで、昭和二年、管長選挙に立候補したときには、対抗する有元廣賀派から、「阿部師はテンゼンとして常泉寺に住し、妻子奴僕の愛惑に囚はれてゐる」(昭和三年三月十三日付「聲明書」)と批判された。
スマは、法運の女癖の悪さに耐えながらも、常泉寺での複雑にして不安定であったと思われる生活を過ごしたのである。
ところが、このスマにも当時、艶聞が噂された。法運の弟子である高野法玄(のちの高野日深)との関係である。このため、日顕は高野の子だとの噂が、いまだに宗内にある。
このスマの人となりは、「妙修さんは、よくタバコを吸っていたよ。当時、女性でタバコを吸うのは珍しく、粋筋の女くらいのものだった。本行寺時代も、よくくわえタバコ姿で坊主たちを集めてはマージャンをしていたものだった」(『法主の大醜聞』より)ということでも知れる。
また『大日蓮』(大正十年新年号)には、
「 七百年を記念に吾等の覺悟 彦坂須磨子
宗祖󠄁大聖人我大日本帝國に御降誕遊ばされてより已來、星霜茲に七百年、本来は將に其の年に相當致すのであります、處で私共が僅かの經驗の上から此の過去七百年の歳月を追想して見ますると實に永い期間の樣に思はれますが、然も此の永い期間の歴史を振り返へて觀察して見ますると其の大半が宗門の爭闘史に終つて居るかの樣に思はれてならないのであります。然も其爭闘の歴史が聖訓に基く破邪顯正の爲めの爭闘なれば私共は敬服も爲し感謝も致さねばならぬのでありますが、私共の目には何んとなく只徒らに内輪の小競合ひの樣に思はれてならないのであります。〈後略〉」
と、実に醒めた記述をしている。
今日この頃、日顕宗の輩は“富士の清流七百年”などと言っているが、日顕の母・スマは二十四歳であったのに、もっと冷静に宗史を見ていたのである。歴史を見る目を持ち、三業地というまったく違う角度から世の中を見たスマは、並の娘ではなかったろう。
その娘が、自分の倍も歳のいった「僧」の子を宿す。そこには、恐ろしいまでの打算があったのかもしれない。
昭和三年、阿部法運は“法主”となり、日開を名乗る。日開は“法主”として本山で生活し、スマは、母・ぶん、信夫(のちの日顕)ともども東京・向島で生活する。
同じく昭和三年に、日顕が五歳で得道。その頃、本山に登ってきた日顕は、まるで乞食同然の姿であったことが宗門内に伝えられている。こののち、スマは日顕、ぶん、ともども塔中の石之坊に住む。
さらに時は下り、昭和十年。この年は彦坂スマが出家し妙修尼となる年だが、本論である妙修尼の出家の動機を考える上で重要な出来事がいくつか起きている。
まず、この年三月、スマの最愛の子・日顕が上野小学校を卒業し、常在寺の所化として上京、市立本郷中学校に通いはじめた。
同年六月十一日には、日開が“法主”の座を退き、“隠尊”となった。日開が、“法主”の座にあったのは、昭和三年から七年間。同年十一月二十六日には、日開の隠居所として、昭和八年に焼失した蓮葉庵が再建された。以降、スマは日開とともに蓮葉庵に起居する。
スマの出家は、スマの身辺があわただしく変化したこの昭和十年の五月二十一日だった。スマの出家の目的は、社会から隔離された出家の世界に家庭を持つことであった。これは、実に皮肉なことである。
出家とは「血」に基づく人間の業を断ち、身軽法重にして生涯を法のために過ごすことである。本来なら、出家の世界に家庭を築くなどという発想自体が、実に倒錯したものである。ところが、女犯が当たり前となり、法滅の様相顕著な日蓮正宗にあっては、そのことが許容されたのである。
スマは、長い間の宗内における生活を通し、出家と在家の間には越えがたいミゾがあることを実感したのだろう。夫たる日開はもとより、可愛い日顕までもが所化として末寺に赴任し、僧社会というまったくの別世界に身を置いて生きていこうとする。
出家の者たちが在家の者を見下し、差別していることを知悉しているスマは、自分が出家することにより、家族、なかんずく子供に近づこうとしたと思われる。
スマの出家前、宗内の僧はスマが“法主”夫人であるにもかかわらず、「彦坂さん」と呼んでいたという。出家後、スマは「妙修さん」と呼ばれるようになり、わが子・日顕も同様に呼んだ。呼称一つとっても、出家することにより子との距離をせばめることができたのである。
妙修の日顕に対する溺愛ぶりはつとに有名で、後年、日顕が平安寺住職をしていた頃ですら、同居していた妙修が、「毎朝、信雄を起こし、勤行や唱題を真面目に行うように心を配る」(『法主の大醜聞』より)ということであった。このような息子への思い入れが、妙修を出家の道に駆り立てたと思われる。
それでは、妙修はなぜみずから出家社会にまで入り、夫や子供という血族との距離をつめようとしたのだろうか。
その心理の底には、私生児としての薄幸な生い立ちが色濃く影を投げかけていたと思われる。妙修は「血」が繋がっていたにもかかわらず妾腹に生まれ、父・石川貴知が認知してくれなかったために、若いときにイヤというほど辛い思いをした。
だから、妙修は「血」の繋がりだけでは安心できなかった。夫あるいは実の子であれ、法的制度的に認められなければ、他人同様の扱いを受けかねない。妙修は、かつて父から受けた扱いを、夫や子から受けることをもっとも恐れたのである。
かつまた、実母、彦坂ぶんのあわれな姿も、妙修の心に焼きついていただろう。愛する人の子を二人も産みながら、娘とともに三業地で女中をしていた母──その母の姿が想い起こされるにつけ、自分の入籍されていない現在の立場が、決して安心できるものではないことを思い知ったのである。
その不安を払拭するためにも、出家と在家との隔たりだけは、どうしても越えなければならなかった。同時にスマにとって出家をすることは、かつて精神的、経済的に自分と母を圧迫した世俗社会から逃避することでもあり、その上部に位置することでもあった。
出家の願望の裏に、世間に対する“恨”“厭”があることは、いまさら強調するまでもないだろう。
妙修の世間に対する“恨”“厭”の感情は、世間の上部に存在する閉鎖的な出家社会の中に、「血」に裏づけられた「家」を作ろうとしたのである。この妙修の感情は、のちに日顕を核とする秘密主義、一族主義として結実する。
このように、世間に対して、“恨”“厭”の感情を有し、人間不信の強いスマが、出家社会の中にどのように「家」を作っていったのだろうか。
出家後、三年経った昭和十三年二月十日、妙修は“隠尊”日開の籍に入る。日蓮正宗最後の尼は、元“法主”と名実ともに夫婦となり、これによって坊主の妻帯、尼の結婚が日蓮正宗内においてタブーではなくなった。
今日、邪宗にあっても尼は男性と交わることが禁じられているのに、日開夫婦は日本宗教界に特記されるべき破戒をおこなったことになる。
この尼の結婚という“奇習”を日蓮正宗の中に持ち込んだ妙修のエネルギーは、繰り返すようだが世俗社会に対する“恨”“厭”そして人間不信であったろう。
だが、この日開と妙修の行為が、仏法に違背することは、御金言に明らかである。
日蓮大聖人曰く。
「但今の御身は念仏等の権教を捨てて正法に帰し給う故に誠に持戒の中の清浄の聖人なり、尤も比丘と成っては権宗の人すら尚然る可し況や正法の行人をや」(祈禱経送状)
【通解】ただいまのあなたの身は、念仏等の権教を捨てて正法に帰依されたゆえに、まことに持戒のなかの清浄な聖人である。もっとも、比丘となったからには権宗の人でさえそうあるべきである。ましてや正法の修行者はなおさらである。
日開、妙修という「僧」「尼」の結婚は、法滅の時を象徴するものであった。
しかし、父という「血」に裏切られた妙修は、入籍だけでは安心しなかった。自分の出自と同じ負い目を、血の通う我が子・日顕に背負わせることにより、自分の殻に日顕を閉じ込めようとする。
妙修が入籍された昭和十三年、妙修のところに親戚の子供二人が引き取られてくる。二人は、姉の名を野坂政子(十二歳)、弟の名を昭夫(九歳)といった。
政子は、妙修に引き取られた五年後に妙修の意思で日顕に嫁ぐのだが、この結婚については、妙修ならではの心理が働いていた。それを理解するために、政子の生い立ちを知る必要がある。
政子は、株の売買を生業とする野坂益雄と芸者をしていた伊藤あいの長女として、昭和二年三月、赤坂区田町(現・港区)に生まれた。
だが、父・益雄は政子が六歳前後のときに結核で他界。母・あいは二人の子供を連れ、ラーメン屋などをしたが失敗。あいは子供を実家に預け、兵庫県の多田銀山近くにある料理屋で仲居、芸者として働くことになる。ここであいは、再婚をする。このとき、あいは政子と昭夫の二人の子供を、親戚筋の妙修に預けるのである。
ここで、あいとその子供を引き取った妙修との縁戚関係について触れると、あいは石川貴知の正妻の孫、妙修は石川貴知の妾腹の子ということである。あいは、ぶんと同様、花街に身を置いていたので交流があったと思われる。
妙修は、妾腹の子供として生まれ、認知もされずに辛い思いをし、そのためコンプレックスを持っていたに違いない。しかし、ことの成り行きで、妙修は正妻の曾孫を預かることになった。
このことは、妾腹の血筋にあるが故に抱いてきたコンプレックスを拭い、少なからぬ満足感を妙修に与えたことだろう。
同様な屈折した満足感を、日開の故郷にある禅寺に墓を建てたときの日顕に見出すことができるのだが、ここでは話が少しそれるので記述を避ける。
子供である日顕に対する妙修の執着が並々ならぬものであったことは、自身の暗い出自に関わる正妻系の娘を日顕に与えたことである。この心理を理解することは、甚だ困難なことだが、妙修は人間不信の故に、その選択をしたと考えられる。
妙修は自分同様に、芸者の母を持ち社会の下層で苦労した「血」のつながった娘ならば、息子と一緒にしても安心と考えたのではあるまいか。そのような娘ならば戻る所もなく、自分の恩を感じて忠実な嫁となると考えたとも思える。
世俗社会に“恨”“厭”を感じ、出家社会に「血」の繋がった「家」を作ろうとした妙修にとって、政子は願ってもない嫁であったろう。
あるいは、妙修は政子を見るとき、自分の娘時代を二重写しにしていたかもしれない。この娘も、癒しがたいほど世俗社会に対し恨みを持っている──妙修は、自分と同じ思いを抱く政子を、出家社会に築こうとする「家」の一員に加えたのである。
この政子もまた日顕同様、妙修の思いを具現し、現在の日蓮正宗の中に「家」(日顕ファミリー)を形成することに腐心している。いま政子は、宗門にあって“裏猊下”と呼ばれ、絶対の権勢を誇っている。政子もまた妙修譲りの秘密主義、一族主義の体現者である。
ここまで、日顕の父とされる日開や母・妙修の出家の動機を探ってきた。彼らに共通するのは、世俗社会に対し“恨”“厭”の抜きがたい感情を持っているということである。
日開は、世間で受けた屈辱を晴らすために、日蓮正宗という差別社会の頂点に立とうとし、妙修は出家社会の中に秘密主義、一族主義でガードされた「家」を作るために出家したのである。
日開、妙修のいずれにも民衆救済の慈悲を見出すことは不可能である。その子・日顕は、父母の世俗社会に対する恨みを引き継ぎ、それ故に世間に生きる民衆を蔑視し、支配しようとする
親から譲り伝えられた人間不信のため、猜疑心が強く、事をおこなうときは秘密主義、甘い果実を貪る時は一族主義なのである。さらに、コンプレックスのために、少しでも馬鹿にされたり、ないがしろにされると激高する。まして、相手が目下と思っている在家となると、瞬間的に爆発してしまうのだ。
この日顕の性癖は、日開、妙修の“血脈”に由来する。威丈高に豹変するのは、世間へのコンプレックスの裏返しである。日顕が、狂乱“法主”となったのは無理からぬことと言える。
なお、日顕の出家の動機であるが、これに見るべきものはない。親の意思に従っただけのことである。それだけに、日開と妙修の世俗に対する“恨”の思いは、素直に日顕に受け継がれていったと思われる。
そのうえ、始末の悪いことに、日顕は“法主”の“子”として、妙な気位の高さを持っている。この気位の高さとは、出家から在家を貫く差別構造の頂点に自分が連座している者という意識である。この差別意識に裏打ちされた鼻持ちならぬ高慢さが、日顕の出家の道を歩み続けさせる動機を与えたとも言える。
日蓮大聖人曰く。
「比丘比丘尼の二人は出家なり共に増上慢と名く疵を蔵くし徳を揚ぐるを以て本とせり」(御義口伝)
【通解】比丘比丘尼の出家は、ともに増上慢という疵をかくし、表面的には徳ある姿を宣揚することを専らとしている。
日顕ら一族は高貴を装い、心に残る“恨”“厭”の疵を隠している。