第776号
発行日:1994年6月21日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
日開の出家の動機は弟に新妻を寝盗られた“恨”に起因する
この男が民衆を支配する僧社会で差別の階段を登っていく
〈「出家」考〉
ところで、日蓮正宗の「僧」たちの出家の動機はどうであろうか。それを検証するために、日顕一族をみてみたい。
日顕の父とされる日開(阿部運蔵)は、明治六年八月二十三日、福島に生まれ、明治二十一年十月に十五歳で十六歳の女性と結婚したが、新妻は弟と関係することとなる。
運蔵はいたたまれなくなり、生まれ育った故郷をあとにする。運蔵は母方の祖母の阿部トリが広布寺(現・福島市)の留守を守っていたことを縁に、明治二十二年七月一日に大石日応を師僧として出家する。結婚から出家まで、わずか八カ月余である。
運蔵の出家の契機は、弟に新妻を寝盗られたことである。そのために故郷を捨て、家督すらも弟に渡すこととなった。
十五歳の運蔵は、耐えがたい苦汁を身内、村社会から舐めさせられた。運蔵は、そのため剃髪し僧となったのだが、運蔵の場合、家を出るという行為があったあとに髪を剃ったもので、厳密に言うならば本来の出家とは大きく意味を異にする。
すなわち、運蔵は仏門を志した故に出家したのではなく、家出をした結果として行き着いたところが寺であったのだ。この「出家」と「家出」の差異は重大である。
運蔵が寺に入った動機は何かといえば失意であり、その失意には世俗社会への恨みが潜む。新妻を寝盗った弟を許容する身内、盗られた男を笑う故郷の人々、それらの世間総体に対する恨みが運蔵の出家の動機となったと思われる。
『平家物語』に収められた祇王と仏御前という二人の白拍子の出家の動機と引き較べてみるならば、祇王の出家に似たものがある。
失意と腹立ちから家を出、成り行き上、剃髪し坊主となった運蔵の心を支配していたのは、世間に対する恨みである。この運蔵に、衆生済度の大願を抱くことを求めるほうが無理だろう。
運蔵が世間に恨みを抱き、生活の手段として関わった宗門の当時の状況は、大変にお粗末なものであった。
明治三十七年の内務省の調査による教勢は、末寺八十七カ寺、教師七十五人である。住職となる教師の数が少ないため、無住の寺もあり、兼務住職がそれを管理していた。
いずれにしても、荒廃衰微のさまは現在からは想像もできないほどであり、住職が住んでいる寺でも、屋根は苔むし、庇は崩れ落ちているものもあり、無住の寺にあっては、まったくの荒れ寺であった。
だが、このような泡沫的な宗派であっても、江戸時代に幕府の御用機関として機能したことに由来する封建的な秩序立てはあった。寺は総本山・大本山・役寺・末寺などに区別され、本寺は末寺を司った。
江戸時代にあって、寺社奉行が本寺や觸頭(寺社奉行の命を末寺に伝える寺)を、本寺や觸頭が末寺を司るにあたり、有効だったのは住職の任免権を、おおむね、それぞれの上部が有したことである。
また、幕府、諸藩は寺領として朱印地、黒印地を寺格の高い寺には与えていた。つまり、幕府や諸藩は、僧の地位と富に決定的な影響力をもっていたのだ。
そのうえ、幕府は僧階(僧綱)についても権限を有していた。僧階は、各宗派の本寺の推挙により朝廷において補任された。
この推挙、補任において各宗派が朝廷に直接、願い出ることは禁じられ、必ず寺社奉行を通すことが定められていた。ということは、寺社奉行が実質的な権限を行使したのである。
このように、僧階はもともと官位に準ずるものであったが、明治五年以降、宗派の自治権が認められることにより、宗派内で決定されることとなった。高位の僧階になければ、高い寺格の寺の住職にはなれない。
僧階の決定権が宗派に委ねられるや、住職任命権とともに、本寺が末寺を統制する上で大変に重宝なものとなった。僧階を登ることは、権力と富と栄誉を手に入れることにつながる。
宗派が自治権を得た近代において、僧階は江戸時代にもまして重い意味を持つこととなった。僧階は多段階に分かれ、その階段を人生を懸けて一段ずつ登らせるなかで、本寺は末寺住職を手なずけ、支配するのである。
運蔵が出家した明治二十二年ごろ、宗門(当時は日蓮宗興門派)の僧階は、本山貫首、大学頭、その下を三階に分け、上階として首座、首座列、老僧、老僧列、中階として中老、中老列、下階として少徒、少徒列、沙弥の三階九級にわかれていた。
ちなみに、現在の日蓮正宗にあっては僧階は、上から大僧正、権大僧正、僧正、権僧正、大僧都、権大僧都、僧都、権僧都、大講師、講師、少講師、訓導、権訓導、一等学衆、二等学衆、三等学衆、沙弥の十七段階に分かれている。
さらに、その最下位の沙弥の中にも、わずかばかりの法臘の差により厳格な上下の別があるのは滑稽ですらある。
僧階は奈良時代以降の律令社会、封建社会を通して培われたが、江戸幕府も、またその差別構造を巧みに利用し、僧を操る有効な手段の一つとした。
だが、江戸幕府という後ろ楯がなくなっても、宗派内の統制に極めて有効であるので、この封建的残滓は、いまでも生き続けているのである。
江戸時代に、宗教が民衆統治の御用機関として栄えた歴史をかえりみることは、出家の在り方を問う上で不可欠な作業である。
権力の御用機関として宗教が機能するにあたり、当然のことながら上意下達の秩序が必要となり、その上部が下部を支配する構造を維持する上で差別的組織が必要であった。
幕府は、士農工商そして穢多・非人という差別的社会秩序をもって統治をおこなったが、寺は武士階級に直接、結びつき、農民以下の民衆を支配した。
江戸時代にあって、寺は思想警察であり、戸籍係であり、徴税の一部門を担い、かてて加えて葬式、法事を執行するものでもあった。
それでは、江戸時代に出家をする者は、どのような志を持つ者だったのだろうか。この時代、各宗派ともに幕府より自讃毀他を禁じられていた。つまり、みずからを讃え他宗を批判してはならないということであるから、実質的に一切の布教は禁じられていたということである。
このため、武士を含めて人々は、宗旨を変えることはおろか、同宗派内で檀那寺を変えることもままならなかった。
戦国時代に、一向宗などが国主を超える力を持ち、国家権力をもっても統制できなかったという歴史的経緯を踏まえ、江戸幕府は国家権力をしのぐほどに一宗派が勢力拡大をしないよう自讃毀他を禁じ、布教力にタガをはめたのであった。
この布教を禁じられた時代に出家した人々に、民衆救済の大情熱(慈悲)を求めることは、はなはだ困難である。
名家にあっては、家督争いを未然に防ぐため、次男、三男などを出家させ、先祖の菩提を祈らせることがあった。あるいは、口減らしのため出家させられた者、世俗社会から逃避するために便法として出家した者などがいた。
これらの出家は、世間に対し“恨”“厭”の感情を持ったであろう。また、この出家すらも“お上”の許可が必要とされたのである。
なお、断るまでもないが、江戸時代にあっては女犯は固く禁じられていたので、現在に見られるような世襲としての出家はなかった。
江戸時代、布教が禁じられ、民衆支配の御用機関として各宗派が存続したことは、日本の宗教がこの時代に変質し、民衆救済のエネルギーを失ったということである。
しかも、そのうえ、“恨”や“厭”を動機として出家する者が続いたことにより、僧尼は、農民、工人、商人、穢多・非人によって形成される、いわゆる民衆社会に対し、彼岸と此岸の距離感を心に抱いた。
出家した者たちは、民衆社会は出家社会より下に位置すると考えていた。宗派のトップから沙弥に至る出家社会の差別構造は、決して沙弥で終わるのではなく、その下に農、工、商、穢多・非人の世俗的差別社会を従えているのである。
この出家から在家に至る差別構造を保証したのは、江戸幕府という強大な国家権力であった。この国家統治の施策としての宗教政策と、出家たちの世俗社会に対する“恨”“厭”の感情が相まって、江戸時代における長期にわたる民衆統治が可能になったといえる。
出家たちは民衆社会に対し、“恨”“厭”の感情を持っていたが故に、苛烈に民衆の思想信条を監視しえたのであった。
この出家社会を上部に据え世俗社会を下部に置く差別構造は、江戸幕府の強権により裏づけられていたのであるから、本来なら幕府権力の瓦解によって終焉しなければならない。
ところが、現実には幕府権力が瓦解した明治の時代に入っても、各宗派は僧階によって差別を秩序立て、本寺は末寺を統括し、出家はさらに在家を葬式仏教に縛りつけ支配した。
封建思想が江戸時代を経ることによって、日本人の生活様式や思考に染み込んでしまい、それがまるで日本固有の文化のようになってしまった。それと同じように、出家を上、民衆を下に秩序立てる宗教をめぐる関係も残ったのである。
出家は、明治五年の太政官令により妻帯が許されるや、寺に女を入れ子供を作った。それでいながら、江戸時代同様、葬式仏教に民衆を縛りつけて収奪しようとした。彼らは、行躰は在俗の者と変わらないのに、ただ寺に住み、頭を剃っているだけで民衆より仏に近く、宗教的優位に立っていることを主張したのである。
明治元年から九年ごろにかけ全国的に巻き起こった廃仏毀釈の動きは、たしかに神道が新国家によって擁護されたという時代的背景に起因する。
だが、さらに一歩立ち入って考えれば、幕府権力と癒着して民衆を長年にわたり支配し、民衆より収奪を繰り返してきた仏教に対し、民衆の側が拒絶の意思を表したともとれる。
その仏教に対する不信を助長したのが、文明開化にことよせて出家たちが肉食妻帯をおこない堕落したという現実であった。
廃仏毀釈により、日本全国の寺の半数が破壊されたとも言われる。徳川幕府の御用機関として生き永らえてきた仏教各派は、明治新政府の下で衰微することとなった。
阿部運蔵が出家した明治二十二年当時の宗門は、このような時代の中にあった。宗門に残っていたものは徳川幕府との癒着により造られた三門、あるいは常泉寺など旧権力者の寄進による古刹などに過ぎず、かつての、わずかばかりの栄華は見る影もなかった。
ただ、徳川時代に培われた出家と在家を貫く差別構造と、民衆を見下し僧が上位にあると考える差別意識は厳然と残っていた。おそらく、この差別意識は、傷つき出家した運蔵の心を癒したと思われる。
類い稀なほどの世間に対する恨みを持って出家した運蔵は、世間を見返し見下すために、僧社会の階段を異常なまでの意欲を持って登りつめていく。
運蔵は、明治二十二年に出家していながら、大正十二年の第五十七世日正死去にあたっては、早くも相承を狙うに至り、大正十四年には、時の“法主”日柱をクーデターにより猊座から引きずり降ろした。
結局、運蔵は昭和二年におこなわれた管長選挙で勝利をおさめ、翌三年に“法主”となるのだが、この選挙は、脅迫、買収の横行する未曾有の腐敗選挙であった。
世間を恨み、家を出て、その後、剃髪して坊主となった運蔵は、衣を着てから三十九年で僧社会を形成する差別構造の頂点に立つこととなった。
“法主”に成り上がった運蔵の眼には、みずからに忍び難い屈辱を与えた世間が、はるか下界の存在として映ったことだろう。
運蔵は、出家し法運を名乗っていたが、猊座についたことにより、日開を名乗る。御本仏日蓮大聖人の「日」文字一字を、みずからの名に取り入れるまでになったのだ。それにしては、出家の動機は比較することも、憚られるものであった。
“恨”を出家の動機として、江戸時代の遺物といえる封建的な差別社会に入った運蔵が、世間への“恨”をエネルギーに小さな宗派の頂点に立ったのである。
民衆済度を忘れ、ただ単に封建的差別社会に堕していた宗派は、世を嫉み食いつめた者が安住するに相応しいところでもあった。
僧形をなしているだけで人々は頭を下げ、世間で地位も名誉もある者が真顔で悩みを打ち明け、したり顔で話をすれば泣かんばかりに感謝をし、大枚を供養として置いていく。
世間によって傷つけられた心は、世間をあざ笑い見下すことによって癒される。そのうえ、民衆より僧が上という差別思想が虚栄心を満足させてくれる。
その快感に浸る日開が、昭和六年に「立正」と記した勅額が身延山久遠寺に降賜されることへ、みずから署名し賛成したことは、むしろ当然のことである。
末寺八十カ寺程度の泡沫宗派とはいえ、その一宗を代表し、末寺三千六百八十五カ寺を数える大宗派である日蓮宗の管長と肩を並べ、天皇に対し勅額請願をなしえたというだけで、万感迫るものがあったのだろう。
身延山久遠寺は、この年におこなわれた宗祖六百五十遠忌に勅使を迎え、万余を数える参詣者ともども盛大な諸行事を催した。このとき、大石寺はといえば参詣者八百名余(「日開上人遺弟一同」発行『日開上人全集』による)という、うらさびしさであった。それでも、日開は大満足であった。
新妻を寝盗られ出家した者が、いつしか“法主”となり、日蓮正宗の中で「名家」を作るまでになっていった。
日顕は、その「名家」を継ぐ者だが、その日顕に言及する前に、次号では日顕の母・彦坂スマの出家の動機に触れてみたい。そのことにより、この「名家」に流れる“恨”という“血脈”がいっそう明確になる。