第646号
発行日:1993年4月28日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
仏壇よりベッドを選んだ破仏法者・山﨑正友が仮出獄した
カツラをつけず紙箱一つを抱え老いた姿は人生の敗残者だ
四月二十七日午前九時五分、山﨑正友(五十六歳)が栃木県の黒羽刑務所を仮出獄した。
山﨑は、創価学会恐喝の罪で、昭和六十年三月二十六日、東京地裁で懲役三年の判決を受け、それを不服として控訴したが、昭和六十三年十二月二十日、東京高裁で同じく懲役三年の判決を受けた。山﨑はまたも上告したが、平成三年一月二十二日までに最高裁で上告棄却となり、懲役三年が決定したものだ。
山﨑は平成三年二月二十五日、東京拘置所(葛飾区)に収監され、その後、黒羽刑務所でおよそ二年二カ月にわたり懲役に服していた。逮捕されていた約六カ月を換算すると、刑期を六カ月程度残しての仮出獄である。
山﨑正友は、創価学会の顧問弁護士でありながら、昭和五十一年頃より富士桜自然墓地公園建設事業などで建設業者と癒着し、四億五千万円を超えるアブク銭をつかんだ。山﨑は、そのアブク銭で銀座、赤坂を遊び歩き、月七百万円もの大金を遊興に費やし、女性関係も乱脈を極めた。
この山﨑が、自己の事業欲から、昭和五十一年三月十八日に設立したのが㈱シーホースである。
㈱シーホースは当初、音楽関係の事業をする会社として設立されたが、経営がおもわしくなく、設立半年後の昭和五十一年九月、山﨑の発案で冷凍食品を扱う会社として再出発した。
山﨑は、創価学会の顧問弁護士でありながら、創価学会を欺き不当に得た悪銭を、この㈱シーホースの冷凍食品事業につぎ込んだ。ところが“悪銭身につかず”とはよく言ったもので、昭和五十五年四月に四十五億円を超える負債をかかえ、㈱シーホースは倒産する。
山﨑は、倒産直前に悪あがきをし、十億円を超える売り手形を乱発した。この売り手形は、額面の十分の一程度で売買され、その一部は広域暴力団にも渡った。
山﨑は、暴力団を含めた債権者に追われることに恐怖し、主に宗門問題をネタに創価学会を恐喝した。山﨑の、実に虚を織り交ぜ、虚に虚を重ねる卑劣な“暴露戦術”が宗門問題を再燃させることを懸念した創価学会最高幹部の一部の判断により、創価学会は昭和五十五年四月から五月にかけて、山﨑に三億円を支払った。
その後、山﨑は創価学会よりさらに五億円を恐喝しようとしたが、創価学会が警視庁に訴えたため、未遂に終わった。
山﨑正友は、この恐喝事件にあたり『週刊文春』『週刊現代』など一部マスコミを利用、内藤国夫や段勲などの反創価学会ライターを操った。
この山﨑が逮捕されたのは、昭和五十六年一月二十四日のことである。この逮捕の瞬間は、『朝日新聞』(昭和五十六年一月二十五日付)に詳しいので、その一部を紹介する。
「小柄な山﨑正友を突然、三人の男が取り囲んだ。『警視庁の者です。緊急にお話をうかがいたいことがあるので、同行願います』。一瞬キョトンと男たちを見上げたあと、山﨑の顔はみる間にあかく染まった。二十四日午後二時四十二分。東京・四谷の山﨑の自宅前、『新宿通り』の歩道上。この八ケ月にわたって社会をにぎわせた創価学会攻撃キャンペーンの『主役』が一転して刑事事件の『主役』に転じる“その一瞬”は、まことにあっけなかった。『本当に警視庁の人なんでしょうね』。手はブルブルふるえ、声もかすれがち。待機していた小型乗用車の後部席に押し込められるように乗ると、そのまま警視庁に連行された。
この任意同行から一時間余り前の午後一時半、記者は自宅に山﨑を訪ね、彼の心境を聞いた。山﨑は雄弁に、強気に、間髪を入れずにしゃべりまくった。
『警視庁は私を逮捕できなくて弱っているようだね。あたりまえじゃないか』
『警視庁は逮捕したくても、こんな証拠じゃ地検が了解しない。証拠不十分で不起訴間違いない』
『警視庁捜査四課は、調べが荒いからねえ。チョウチョやトンボじゃあるまいし、そう簡単につかまってたまるか』
そして、昨年七月から、一時は匿名で、後には実名で連載を続けている週刊文春の来週号の原稿を持って、記者ともども部屋を出た。八階からエレベーターで一階へ。三人の捜査員が山﨑を取り囲んだのは、その直後だった」(昭和五十六年一月二十五日付『朝日新聞』より一部抜粋)
この逮捕の瞬間を臨場感ある筆致で記した『朝日新聞』の記事が、当時“正義の仮面”をつけ一部マスコミに登場した山﨑の実像をよく示している。山﨑は口舌の徒にして臆病者なのである。
山﨑は創価学会の幹部であり、かつ顧問弁護士でありながら、創価学会の信頼を裏切り、金欲、肉欲にただれた自己の生活を充たすために、悪徳の限りを尽くした。
かてて加えて己の悪事を隠すために仏法を口にし、創価学会の前途を憂う正義の内部告発者を装い、創価学会破壊を策したのである。
だが、山﨑の行動をよくよく見れば、山﨑は欲におぼれ退転した卑しむべき破仏法者にすぎないことが容易に理解できる。
山﨑もまた、創価学会攻撃をなしていた昭和五十五年当時にあって、「俺は“現代の提婆達多”だ」と、自嘲とも開き直りともとれる言葉を身近な者にもらしている。
逮捕された当時、山﨑正友は新宿区四谷二丁目八番地の新一ビルに住んでいた。この四谷に移り住む前、山﨑は千代田区三番町の超高級マンションに住んでいた。㈱シーホースが倒産したため、千代田区のこの超高級マンションを引き払い、件の四谷のマンションに、昭和五十五年四月末に移った。
ところが、この引っ越しに際し、昭和五十四年五月十三日の日蓮正宗大講頭就任に際して買った最高級の仏壇を、借金のカタとして手離している。
だが山﨑は、それまで使っていた貴族顔負けの豪華なダブルベッドだけは、新しい四谷のマンションに運び込んだ。肉欲におぼれた生活をしていた山﨑にとって、御本尊様を御安置申し上げる仏壇よりも、豪華なダブルベッドのほうが大事だったのである。
今後も、山﨑が池田大作名誉会長を傷つけ創価学会破壊を目的として、もっともらしい“道理”をマスコミなどで口にすることがあるかもしれない。
だが、山﨑が経済的逼迫にあって、仏壇よりダブルベッドを選んだ男であることを忘れてはならない。
山﨑には信仰心のかけらもない。山﨑が“信仰”を口にするとき、山﨑の心には謀略が宿っている。その本質を見据え、山﨑の意図を鋭く見抜き、策略を信仰の力でもって砕くべきである。
山﨑の仮出獄を、黒羽刑務所の出口で正信会の僧二名が迎えた。このとき山﨑は、入獄するまで愛用していたカツラをつけていなかった。“主殺し”である斎藤道三風の頭をした山﨑は、私物の入っていると思われるダンボール一箱を両手で抱え歩いていた。
この二年有余でめっきり老いた山﨑に、人生を棒にふった犯罪者の哀れが漂っていた。山﨑らは新幹線で東京に向かい、世田谷区成城にある正信会の善福寺(住職を名乗り原田知道が占拠)に入った。
十七章 禿人遁走 終