報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十七章 禿人とくにん遁走とんそう

地涌オリジナル風ロゴ

第644号

発行日:1993年4月25日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

恥知らずで嘘つきの日顕は自分の嘘に『地涌』まで利用する
広布坊建設反対署名を最初知ったのは『地涌』を読んでだと

日顕はやはりウソつきである。自分の都合によって、あるときは『地涌』を読んでいるといい、あるときは『地涌』を読んでいないという。

四月二十四日、千葉市・真光寺において日顕の“親教”がおこなわれた。この日、千葉県下には強風波浪注意報が出ていた。“親教”に参加する法華講員は、強風が舞い上げる砂ぼこりで目も開けていられないような状況の中で、駐車場や寺周辺の農道に待機させられていた。

当初、この“親教”には千葉県下より千百十名の参加が予定されていたが、実際に集まったのは七百名前後に過ぎなかった。

日顕の千葉“親教”は、この参加者の少なさからもわかるように、実に低調なものであった。日顕も不快であったのだろう。予定より一時間二十分も早い午後五時四十分には、真光寺を去った。

千葉“親教”が失敗と総括されるのは、参加者の少なさだけではない。その前段階で、一大不祥事がすでに生じていたのだった。

“親教”の会場となった真光寺の法華講二百余世帯の半数近くの百世帯が、日顕が広布坊を建設することに反対し、かつ金集めを目的にした“親教”に対し不快感を表明して、事前に署名をおこなっていた。その署名簿は“親教”を前にして日顕に郵送され、代表数名が常泉寺に写しを届けた。

その署名の趣意書の中には、「この問題(筆者註 広布坊建設計画)について我々信徒に対する明快なご指南がない限り、四月二十四日の御親修に対しましても快くお迎えするわけには参りません」との文言が書かれていた。

“法主”日顕にとって、屈辱的なことではあるが、ここまで書かれては、広布坊のことを避けては通れない。それだけに“親教”当日、日顕が広布坊についてどのような話をするのかが注目された。

まず日顕は、広布坊の設計図が流出し、本紙『地涌』にスクープされたことについて、法要を終えての休憩のとき、末寺住職や講頭がいる席で、「広布坊を建てることは決めていなかった。こういう建物を建てたいんだと建設会社(筆者註 清水建設)に話をしたら、向こうが勝手に図面を書いて、学会のほうに流したんだろう」(趣意)と述べた。

さらに日顕は、“親教”を終えた後、本堂の参加者を前にして、要旨、次のように話した。

「広布坊建設反対の署名簿が私のもとに来たことは、私はまったく知らなかった。『地涌』に載ったので知った。

広布坊は広宣流布の大願のために造るのだから、皆さんはなにも心配しないでください。広布坊建設を趣旨として、お金を集めるようなことはしません。こういうことは、宗門のほうでよく話し合って決めていきますから、心配しないでください」

日顕はウソばかり言っている。“親教”に集まった末寺住職や法華講員が、事情を知らないのをいいことに、平然とウソをついている。

事実経過を述べるならば、本年(平成五年)三月五日には総二坊南側の広布坊建設予定地に「中高層建築物建築に係る計画のお知らせ」という立看板が出された。

これは法律に基づき、建築予定地に、工事の「建築主」「設計者」「工事施行者」「敷地の位置」「建築物の概要」「着工予定年月日」「完成予定年月日」「標識設置年月日」などを表示したものである。

この法的に義務づけられた看板は、どこの建築現場にも立てられており、誰しも一度や二度は見たことがあるだろう。

この表示がされた三月五日にはすでに、建築主・大石寺と工事施行者・清水建設とのあいだには、基本的な合意がなされ、建物の概要もほぼ決まっていたのである。それがなされないで、この立看板が出されることなどあり得ない。常識的に考えて、建物の構造、仕様が決まらないで、着工と完成の年月日が明示され工期が定められることなどありはしない。

さて、広布坊の設計図であるが、その一部を本紙『地涌』が報じたのは、三月十八日付であった。立看板が出された三月五日の十三日後である。

この広布坊の設計図の入手経路について、設計図を報じた本紙『地涌』第619号(三月十八日付)は、「本紙『地涌』編集部に、日顕が三十数億円を投じて建てる広布坊の設計図が届けられた。日顕にごく近い者からである。提供者は、『六万人総登山といっても、今の総一坊、総二坊で施設は充分だ。御前様はなにを考えているのか』と嘆いていた」と報じている。

ここに記したように、設計図はまぎれもなく日顕に近い者から入手したもので、記述するにあたりいささかの脚色もしていないことをお断りしておく。無論、この三月十八日の時点で、広布坊建設はすでに本決まりとなっているのである。

それは先述したように、建築主の大石寺と工事施行者の清水建設のあいだで、建築についての話が煮詰まっていないのに、建築予定地に法的に義務づけられた表示が出されることなどないという常識的判断からもわかる。

三月五日に立看板を出していながら、三月十八日付本紙『地涌』が設計図をスッパ抜いた時点で、「広布坊を建てることは決めていなかった」(前出“親教”での日顕の話)などということは、あり得ないのである。

この事実経過と日顕の発言を建築業に携わる人に話したなら、百人が百人とも日顕の話はウソであると言うだろう。

日顕は、広布坊建設を独断で秘密裡に進めたことにより、宗内の多くの者から反発を受けている。設計図まででき上がり、建設会社と基本的合意までしているのに、宗派の公式機関に諮ることすらしなかった。

この日顕の独裁に対し、宗内からは不満の声が上がっている。その反発、不満を、日顕はウソをもってかわそうとしているのである。自分への信頼をとりつけておくために、「広布坊を建てることは決めていなかった。こういう建物を建てたいんだと建設会社(筆者註 清水建設)に話をしたら、向こうが勝手に図面を書いて、学会のほうに流したんだろう」(前出“親教”での日顕の話)と、清水建設を悪者にしているのである。

また日顕が、真光寺法華講がおこなった広布坊建設反対の署名簿が、自分のところへ来たことを知らなかったと言い訳しているのもおかしなことである。

“親教”を目前にして、“親教”会場となる真光寺法華講の半数近くが広布坊建設に反対し、日顕の来寺に不快の気持ちを表し署名までしている。そのことが日顕の耳に入らないようでは、宗門中枢は完全にその機能を失っているということになる。

事実はまったくの逆。この署名簿が大石寺に郵送され着いた時点で、日顕を含めた宗門中枢は大騒ぎとなった。そのことを隠し、署名簿を無視した非を謝りたくないばかりに、『地涌』で初めて署名簿の件を知ったと言い逃れをしているのである。

日顕が本紙『地涌』について、「広布坊建設反対の署名簿が私のもとに来たことは、私はまったく知らなかった。『地涌』に載ったので知った」などと話し、『地涌』を都合のよい言い訳に使うのでは『地涌』編集部も苦笑せざるを得ない。

日頃、日顕は『地涌』を「怪文書」と中傷しているが、実のところ『地涌』を読むことにより真実を知っているのである。

去る四月二十一日の宗務支院長会議においては、日顕は『地涌』を読んでいないから、『地涌』に設計図が出ていることすらも知らなかったととぼけていた。

「私だって、『地涌』なんてもの、近ごろ見てもいないから、知らなかったんだが。そんなもの(筆者註 広布坊の設計図)出ているって私は聞いていないけどね。あの、どっから、あいつらが、もう卑劣にね、探してくるかわからないからね」

この日顕の発言をみて『地涌』編集部では、「日顕が『地涌』を『怪文書』と言いながらも、少なくともかつては『地涌』を読んでいたことを認めた」と笑ったものである。

だがこの千葉“親教”での日顕の発言によれば、なんと日顕は、署名簿について報じた四月二十二日付の『地涌』第641号も読んでいたのである。要するに日顕は、一貫して『地涌』の“愛読者”なのだ。そして都合次第で“読んでいる”“読んでいない”を使いわけている。

ともあれ日顕は、あらゆる面において大ウソつきである。なかんずく問題なのは、宗内全般に対し広布坊について事実経過をごまかしていることである。宗務支院長クラスでも、広布坊について日顕が独断で事を進めていることに、怪訝な気持ちを持っている。

四月二十一日の宗務支院長会議における、南近畿布教区宗務支院長である佐藤広明の発言は、婉曲な言い方ながら、日顕の秘密主義に対し不満を述べたものとみることができる。

この佐藤の発言と、それに対する日顕の答えは、今後、もめるにもめるであろう広布坊について考えるための貴重な資料となるだろうから、相当、長くなるが、両者の広布坊に関しての発言を、以下に紹介しておく。

 

〈佐藤〉

それから、もう一つ、ちょっと、恐れ多い猊下の御指南のことについて、ちょっとおうかがいしたいんですが。

先ほどの、あのー、来年度の六万名大結集のことについて広布坊を造るという御指南でございましたけれども、あのー、噂というか、そういうものが造られるということは聞いていましたけれども、まー、あのー、猊下におかれましても、まだ正式には仰せになられなかったわけですから、まっ、私たちも知らない、まだ噂の域をもちろん出なかったわけです。

ですけども、いつだか忘れましたけれども、あのー、怪文書『地涌』に設計図らしきものが出てたような気がするんです。それで、当然、私らもそういうものがある、そういうことがあるということも知りませんし、正式なお話も御指南も出ておりませんから、別に気にするものでもないし、そういう頭でございますから、気にもしないんですけれども。

おー、あの設計図らしきものが、まっ、完全に設計図ができておられないということですけれども、あのー、この『地涌』に出ていた設計図らしきものが、一応はお考えになっておられたその設計図のもと、大本とでも言いましょうか、そういうものであるのか。

もしもそういうものであるならば、あの、いろいろな、そういう、まー、その設計図、漏れなければ向こうに出ないというふうに思いますし、まー、そういう大事なことが、まあ、宗務院からとか内事部からのいろいろな文書によって私たちが知るということは、これは当然ございますけれども。

なんか、まー、他のほうからそういうことの情報を知って、いかにも、そのー、おもしろおかしく誹謗するようなことと相俟って、非常に、そういう『地涌』とかいろいろなものに出たときに、なんか非常に悲しい思いをする気がするんです。

それで、だいぶ前にもお願いしましたんですけれども、怪文書に対していちいち宗門の見解というものを発表することもないとは思いますけれども、やはり、あのー、坊さんが大勢、集まっている場合、やはり心強いものを、僧侶として、また御信者さんがその寺に関して大勢の参詣者がいれば、大変だという観点から、安心感というものもありますけれども、やはり田舎の信徒数の少ないような所で坊主をしておられる人もおられるわけですから、そういう所にあって、結局、まっ、怪文書ではありますけれども、なにかそのときに出たものに対して、そういうことについては宗門として一切、注文しておらないから、まー、気にするなとか、そんなものは捨てておけということでも結構ですから、なにかそのような指示があれば、非常に、このー、田舎の寺院っていいましょうか、そういう寺院においても安心して、宗門の方針に従って御奉公ができると思うのであります。

そういうことについて、一つ、そういうものが漏れるということも、すなわち残念なことであると思いますし、また漏らす方が、どなたかいるということでもございませんけれども、なにか重要なことが非常に……。
〈日顕〉

はい、じゃー、返事するよ。

まず第一にね、これ、なぜ漏れたかというのね、漏れたというよりも大体の建物の構造を、あのー、話し合ったことは、これは本当、内部的な話で、これは事実。そんときは、まだ設計図もできていない。だから、それがそのー、はっきり言って、あれは、あのー、なんだっけ、えーっと、そう清水建設。いろんなことに、清水建設で開創七百年のときやってもらったからね。引き続いて清水建設でやってもらおうということで、一応なった。

それで、だいたいこのー、大きさはこの程度のもので、二階造りで、下はいろいろな、まー、コマっていうよりもある程度の洗面所、便所、風呂やさまざまな部屋や広間とかできて。でっ、その二階がですね、全部、千畳敷の大広間になると、そういう、まー、二階建ての建物の骨格でやることぐらいはね、話して、だいたい話したわけで。

とっ、向こうが実はね、あのー、清水で、あのー、それをするにあたって一つひとつの細かい点で点検をして、点検っていうか、あの、こう、案を作ってね。それでそのー、それらの総合がその予算になってくるわけです。まだ予算書も、このー、私んとこ、まだいまだに出てきてない。予算になってくるんだ、予算がきちんと決まんないと、いくらでできるというものが、見積もり等が決まらないと、あのー、契約できないからね。

その契約の段階で清水の下請けにそれぞれおろすわけだ。その下請けで、こういうふうなだいたい大きさのものについて、お前のとこは、たとえば外装のとこ、お前のところは窓ガラス、お前のとこはどこってね、これについて計算しろっていうことなんだね。その中に学会員がいるわけです。この下請けのほうの一部で、下のほうに。それがどういうわけか、つまり、こー、その全体の大きさのものを一応は簡単に示すから、でっ、それを、こう、得た理由と、思う。これ、あのー、さっそく清水がね、お山に、あのー、お詫びに来ました。うーん。

だけど、私だって、『地涌』なんてもの、近ごろ見てもいないから、知らなかったんだが。そんなもの出てるって私は聞いてないけどね。あの、どっから、あいつらが、もう卑劣にね、あのー、探してくるかわからないからね。いうようなことなんだよね。

だから、まだいまだに、それはまだホントに初期の、あのー、模索の段階で、ぐらいのとこでアレが漏れたと。それでこうー、あー、出ているということだね。

これもまー、考えてみれば、まー、あのー、これから考えたのはね、これはまー、ひとつ内事部ともこのあいだ、何度か相談したんだけど、こういう大きな物を造るときは前もってもう、ばあーっと、なんて言うんだろう、総本山通達でだね、あのー、もうみんなに知らせたほうがいいかなー。うん、先にね。

でも、まー、今までの例はね。あのー……。

それからもう一つは、さっき言ったとおり、みんなへのある程度の御供養を願うという意味があるなら、これはもう、初めっからもうなにしてね、委員会を作って、どういうもの造ったらいいとか、討議してもらうと思うけどね。

これは全部、最初っから、お山でやることになったら、一銭も誰にも、あのー、お願いもしないし、もうそれじゃー、お山でやるという形にもなるけどもね。

したがって、あのー、まー、ある程度の方角がちょっとできてからだというふうに思っていたわけなんだ。

この辺がこれから真剣に考えなきゃならないなという感じはあるんだ。はっきり言ってね。

そういう意味の、まっ、はん、はん、うー、なんて言うか、反省、エヘッ、内事部としてね、考えてはいます。

しかしまあー、もうひとつ言えば、まっ、出ちゃった以上、結果にもなるが、『地涌』とかそういう怪文書についてだね、それについて悲しい思いを君は、まー、なさったそうだが(笑い)、しかし、なんだねー、まー、基本的にそんなもんはね、どうせまた学会みたいな狂った考え方でね、お山や宗門を謗ずるためにだけれども、こんなものは、私は本当であれウソであれ、もう、もう、なんの根拠もないんだと、とらわれる必要ないんです。ということで、自分も思い、ほかの信者にもおっしゃっていけばね、いくような、そういう姿勢で、まー、あの、やってもらいたいと、これは思いますね。

日顕のウソは、設計図がスッパ抜かれた三月十八日の段階で、「それはまだホントに初期の、あのー、模索の段階で、ぐらいのとこでアレが漏れた」と言っていることに尽きる。

三月五日に、建築予定地に「着工予定年月日 平成五年五月一日」と表示していながら、三月十八日の時点で「模索の段階」などということはあり得ない。

さらに日顕は『地涌』について強がりを言っているが、『地涌』に一番、振り回されているのは日顕にほかならない。

広布坊の設計図、反対署名簿、これら『地涌』の報じたことについて、千葉に“親教”にまで来て釈明している。

その釈明も誠実なものではなく、『地涌』の報じた真実を、聞く人々が事情を知らないのをよいことに、ウソで蔽い隠そうとしている。“法主”が僧俗をウソで丸め込もうとしているのである。

日顕はそのウソをつくのに、「怪文書」呼ばわりしている『地涌』を、あるときは読んでいないと言い、あるときは読んだと言って、ウソの補強に使っている。日顕はウソつきであるだけでなく、恥知らずでもあるのだ。

このたびの日蓮正宗僧俗全体を巻き込んだ大混乱は、ひとえにこの日顕の信仰者にあるまじき不徳から起きたものである。

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