第639号
発行日:1993年4月14日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
小笠原は大御本尊の写真を「二円」で「お守り」として売り
日開は御本尊を差別化し「尊号」をオマケにつけ商品とした
先号で明治三十七年の日露戦争開戦にあたり、総本山五十六世・大石日応上人によって「戦争守護の御本尊一萬幅」が売り捌かれたことを述べた。このことが記された日蓮宗富士派法道会機関誌『法乃道』(明治三十七年四月発行 第拾貮編)を読めば、日露戦争の戦勝を祈願する「祈禱会」に参加し供養をなした者に、自宗、他宗の別なく御本尊を与えていたことがうかがえる。
神社に参れば神札が売られているように、邪宗寺院で厄除けの札が布施の代価として与えられるように、日蓮正宗(日露戦争当時は日蓮宗富士派)においても信者、非信者の別なく、御本尊が神札や厄除けの札のごとく売られていたのである。
日蓮宗身延派などでは、現在も“御本尊”が売僧稼業の貴重な商売道具とされているが、かつての日蓮宗富士派においても同様なことがおこなわれ、売僧らの生計を下支えしていたのである。
御本尊下附が崇高な大法弘通、民衆救済の純然たる宗教行為としてなされ始めたのは、創価学会の出現あったればこそである。それまでは、日蓮宗富士派も日蓮宗身延派同様、御本尊に対する不敬行為を平然とおこなっていたのである。
『聖教新聞』(平成三年十二月八日付)は、「さあ、民衆仏法の時代へ──辻参議会議長に聞く〈14〉」という連載記事を掲載している。
この記事中に、太平洋戦争時、戒壇の大御本尊様の写真を「お守り」として日蓮正宗の僧が「二円」で売っていた話が出ている。衝撃的な内容のため、少々、長くなるが、関連箇所をすべて以下に紹介する。
「辻 〈前略〉そうそう、愛別の法宣寺といえば、こんな話もあった。この件は北海道の野村さん(野村光雄北海道副総合長)が詳しいから、ご本人から直接話してもらおう。
──どういう問題だったんでしょうか。
野村 実は戦時中、愛別村から戦地に行った法華講員に、お守りとして、名刺ぐらいの大きさの御本尊の写真を渡していたことがあるんです。これは、八木住職と深いつながりのあった小笠原慈聞が、持ってきたもので、信心も教えず、勤行も教えず、御札みたいに当時二円の御供養でみんなに配っていたんです。
──そんなことがあったんですか。小笠原といえば、戦時中に軍部と結託し、神本仏迹論を唱えた人物ですね。
野村 そうです。昭和二十九年ごろ、戸田先生が北海道に来られたとき、そのことを報告したんです。私も戦前は法華講だったもんですから、その写真の御本尊をもっていたんです。それをご覧になった戸田先生は、メガネをはずし、顔を写真にすり付けるようにして、じっと見られて『これはどこから出てきたんだ。本当にもったいないことだ』と言われたことを今でも鮮明に覚えています。そのご様子に私は、これは戒壇の大御本尊の写しではないかと思ったんです。
──えっ、一閻浮提総与の大御本尊様を写真に撮って、ですか。
辻 そう。戸田先生も余りのことにどれほど悲しまれたことか。宗門の御本尊に対する考え方は“信心”ではない。もっと話したいけれど、今回は、このぐらいにしておこう」
この話は、日蓮正宗の僧が御本尊を長年、売り物にしてきたことがまぎれもない事実であることを教えてくれる。
話は変わって、総本山第六十世日開(日顕の父)も御本尊を金集めの道具に使っていた。
ここに昭和四年九月に「総本山第六十世日開」の名で出された「宗祖大聖人六百五拾御遠忌 御報恩記念事業資金募縁序」という文書がある。宗祖日蓮大聖人六百五十遠忌を翌々年に控え、浄財勧募を宗内に訴えたものである。
日開はこの文書で宗内に六百五十遠忌の記念事業として、
「興學布教傳道 文書出版 五重之塔大修繕 客殿の改修山門其他諸堂宇の應急修理等の完成を期せんとす」
と表明し、次のように総本山の窮状を記している。
「現在總本山の諸堂宇中殊に山門五重之塔の如きは荒廢不朽甚だしく時に應急の修繕を加ふるも今や姑息の手入れも及ばず大修繕を要するに際し 一山の資材に據るは到底不可能の事に屬す 若し現状の儘に委せんか 下種三寶の大寶殿も再び修理の途なきに至らむ」
信者に供養を求めるというのに、まるで泣き落としである。哀れなるかな、売僧にとって総本山の荒廃すらも、金を集めるための恰好の材料となるのである。
ちなみに、ここで荒廃の極みにあるとされている五重塔は、葺いてあった銅瓦を明治時代に総本山に巣喰う悪侶らがトタンに替え、銅瓦を売って飲み代などの遊興費にしたため、屋根も軒も柱の一部さえも腐ったのである。この五重塔は、時代は下ること昭和二十八年、戸田城聖第二代会長率いる創価学会によりやっと修復されたのである。日開が六百五十遠忌にあたり鳴り物入りで五重塔の修理を呼びかけたが、それを可能にするだけの金は集まらなかったということになる。
売僧たる日開は、この六百五十遠忌記念事業を大義名分にしての金集めにおいて、御本尊をその道具に使っている。同文書には、「御遠忌記念事業費寄附金募集及賞與規定」が定められている。その第六条は、日蓮正宗が御本尊を金集めに使った打ち消し難い史実を物語っている。以下、その引用。
「第六條 寄附金完納者ニハ賞與大漫荼羅、號、賞状ノ三種ヲ以テ賞與ス
一、壹千圓以上完納者ニハ賞與大漫荼羅及永代號ヲ授與ス
二、五拾圓以上完納者ニハ大漫荼羅ヲ授與ス
三、弍拾圓以上完納者ニハ號ヲ賞與ス
四、弍拾圓以下完納者ニハ賞状ヲ授與ス」
「壹千圓」(現在の百五十万円相当)を供養すれば、「賞與大漫荼羅及永代号」を与えられる。「賞與大漫荼羅」は賞与大御本尊のこと。「永代号」は今でいう法名、戒名のことである。
今日の日蓮正宗の僧は、戒名をつけなければ成仏しないなどといっているが、かつては「壹千圓」も供養すれば、御本尊のおまけとして成仏を保証する「永代号」がもらえたのである。
「二」は「五拾圓」を供養した場合の褒賞を定めている。「五拾圓」(現在の七万五千円相当)を供養すると、「大漫荼羅」を授与するというのである。
先の「賞與大漫荼羅」とこの「大漫荼羅」とに、どのような差があるのかについては、当方、寡聞にして知らない。知る必要も感じない。
はっきりしていることは、日蓮正宗の“法主”たる日開が、宗祖日蓮大聖人が末法の民衆救済のために顕された御本尊を、金集めの演出として差別化して使ったということである。それも、宗祖日蓮大聖人の六百五十遠忌にである。日開という売僧にとっては、宗祖の死も御本尊も、金集めの口実に過ぎないのである。
さて、二年も前から金集めの大義名分に利用された六百五十遠忌であったが、いよいよ昭和六年の十月九日から十六日までの八日間、「宗祖日蓮大聖人第六百五拾遠忌」が日蓮正宗総本山大石寺でおこなわれることとなった。その六百五十遠忌参加者のために日蓮正宗大石寺が作った「大法會奉行案内」という文書がある。この文書は、一枚の紙の表裏に印刷されている。
表には、「參拝のすゝめ」として大石寺の縁起、「參拝案内」として「順路、交通」「宿泊」などが書かれている。傑作なのは、「當山附近の名所」が書かれていることである。「當山附近の名所」として次のようなものが挙げられている。
「▽下之坊 南十八丁
▽妙蓮寺 仝十四丁
▽北山本門寺 東二十丁
▽西山本門寺 西南二里余
▽駒止の櫻 北二十丁
▽曾我神社 仝廿五丁
▽工藤經の墓 仝一里
▽音止の瀧 仝一里余
▽白糸の瀧 仝
▽人穴 仝三里
▽猪之頭瀑園 仝三里
▽富士頂上 東北六里半
▽天母山 東一里半」
「曾我神社」「工藤經の墓」は、「曾我物語」の素材となった曾我兄弟の仇討ちに由来するものであるが、神社まで案内して六百五十遠忌大法会への参加を募るほどに、日蓮正宗は落ちぶれていたのである。
「北山本門寺」にしても、この昭和六年当時は、日蓮正宗が袂を分かった本門宗に帰属していた。「西山本門寺」にしても同じである。いずれも教義を異にしている邪宗である。そのような邪宗の寺をも「名所」と案内するほどに、日蓮正宗の僧には正邪の弁えがなかったのである。
その「名所」案内の上欄に「參拝」として、「本門戒壇大御本」「大聖人御肉牙生骨」「大聖人造初御影」「大聖人御霊骨」が説明文と共に紹介されている。まるで京都あたりの観光寺の案内書と変わりはない。
裏には「日蓮正宗総本山大石寺全図」が描かれており、自動車、汽車の時刻表が出ている。この裏にも「當山霊寶の主なる物」が、次のように列記されている。
「□本門戒壇大本
宗祖󠄁大聖人弘安二年十月十二日御筆
□御肉牙御生骨
宗祖󠄁大聖人御生前の御肉齒
□大聖人造初御影
法孫日法上人謹作木像御丈二寸二分
□紫宸殿御本
弘安三年三月宗祖󠄁大聖人御筆
□本門寺重寶御本
弘安三年十一月 仝上
其他宗祖󠄁開山御筆御漫荼羅二十餘幅
宗祖󠄁御自筆御消息三十余通
開山上人御自筆御消息四十九通
□宗祖󠄁御所持太刀宗近作
一口
□開山行者太刀 宗近作
一口
□國寶太刀 吉用作
一口
□紫銅巻龍三具足(宗祖󠄁御所持雨祈三具足ト稱ス)
□其他古文書、古器物、古來傳持ノ美術品多數アリ」
戒壇の大御本尊様も「古文書」「古器物」「美術品」も、同じ「當山霊寶」として一括して扱われている。日開ら当時の日蓮正宗の僧が、どのような問題意識で大石寺で営みをしていたかが、如実に伝わってくる記述である。
日露戦争当時、第五十六世・日応上人は「御本尊一萬幅」を守り札のごとく売りさばき、第六十世日開は昭和六年の宗祖大聖人六百五十遠忌にあたり、御本尊を差別化し、金集めの道具とした。
この日開は、御本尊の誤写事件を起こしたが、日開の犯した御本尊誤写を追及した急先鋒は、その後、戒壇の大御本尊様の写真を“お守り”として「二円」で売る小笠原慈聞であった。売僧らが教義を盾に人を責めるとき、口にする大義名分は卑しき心を隠しているにすぎない。
それでは、この当時の日蓮正宗の僧と、現在の日蓮正宗の僧とどこが違うというのであろうか。まして「唯授一人血脈付法」ということになれば、日顕もまた同じということになる。
皮肉な表現はよそう。
創価学会の出現あればこそ、御本尊は商品ではなく尊崇の対象とされるに至ったのである。御本尊の大切さを教えたのは、代々の創価学会会長であった。日蓮大聖人の仏法を民衆救済の仏法として、現代に蘇らせたのはほかならぬ創価学会である。決して宗門ではない。
まして“富士の清流”などは幻想にすぎない。代々の創価学会会長が、日蓮正宗の法脈を支配していた邪師や蔓延っていた邪法、邪義に対し、莞爾として戦い抜いたことにより、徐々にではあるが、日蓮正宗は日蓮大聖人の末流たるべく浄化されてきたというのが真実である。
ところが日顕に至って、日蓮正宗に長年にわたり蔓延ってきた邪法、邪義がまたしても顕在化したのである。
その意味では日顕は狂ったのではなく、日顕は宗派伝統、父子一体の邪師として本性を顕したといえる。