報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十七章 禿人とくにん遁走とんそう

地涌オリジナル風ロゴ

第638号

発行日:1993年4月12日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日露戦争開戦時に日応上人は「御本尊一万幅」を売り出し
「戰勝大祈禱會」で真筆御本尊を一般公開し戦費を集めた

俗に“戦争屋”と言われる人々がいる。武器などを売って荒稼ぎをする死の商人たちである。ところが、宗教界にも“戦争屋”がいる。やはり、戦争を渡りに船と荒稼ぎする輩である。

総本山第五十六世・大石日応上人も、あるいは戦争屋と言えるかもしれない。

日応上人は日露戦争にあたり、「御本尊一萬幅」を「特志者」に授与していた。「特志者」とは、一往は特別の供養をした檀信徒のことである。その「特志者」に御本尊を授与していたと言えば聞こえはいいが、一万体を一挙に授与するとなればおだやかではない。換言すれば、戦争勃発をよいことに、御本尊を売っていたに過ぎないのである。

当時、「東京市深川区東元町十八番地」に法道会本部は所在していた。法道会は、現在、豊島区に所在する法道院の前身にあたる。法道会本部が機関誌として発行していた『法乃道』の編集兼発行人は、早瀬慈雄。現在の日蓮正宗重役で法道院主管・早瀬日慈の父である。

この『法乃道』(明治三十七年四月発行 第拾貮編)に、「皇威宣揚征露戰勝大祈禱會」についての記事が掲載されている。その記事の一部を抜粋紹介しよう。

「尚ほ法道會に於ては兩日參拜者の淨財を總べて軍資金の内へ獻納しまた戰勝守護の御本尊一萬幅を特志者に授與せられたり」(『法乃道』明治三十七年四月発行 第拾貮編)

日露戦争の必勝を期して「大祈禱會」をおこない、そのとき集まった浄財すなわち御供養は、すべて軍資金として「獻納」したというのである。御供養は御本尊様へ捧げられたもので、たとえ出家であれ、それを広宣流布のため以外に使用することはできない。

あろうことか、その御供養を軍へ戦費として供してくれと差し出したというのだから、その狂乱ぶりは到底、日蓮大聖人の末流と認めがたいものがある。そもそもの日蓮正宗(当時は日蓮宗富士派)は、ここまで狂っていたのである。

ここで「兩日」となっているのは、日露戦争開戦(明治三十七年二月十日)間もない三月十二日、十三日の「兩日」である。この両日、深川区の法道会本部で「皇威宣揚征露戦勝大祈禱會」が執行された。そして、このとき「祈禱會」に参加し供養した者に、「戰勝守護の御本尊」が与えられたのである。

このときの「祈禱會」の様子についても、『法乃道』(同)は記述している。

「今其景况を記さんに十二日は曇天なりしも兼ねて廣告並に建札等の手配行届きしを以て自他の參拜者陸續と詰掛けぬ而して須彌壇は最も質素に而かも嚴正に荘嚴せられ期定の時刻に至り法主日應上人は僧衆を隨へて法席に就かせられ宗祖󠄁大聖人眞筆大御本尊を開扉し讀經唱題等如法の式典を行はせられ尋で教會擔任教師早瀬慈雄は演壇に立祈禱會執行の旨意を演べそれより有元氏土屋慈觀氏並に法主日應上人の演説ありたり」(同)

と、まあこのような具合であった。

「祈禱會」では、質素であるが厳正に荘厳された「須彌壇」が設けられたことがわかる。その「須彌壇」に安置されたのは、「宗祖󠄁大聖人眞筆大御本尊」であった。

「法主日應上人」が僧何名かを随えて読経唱題し、参拝者に「宗祖󠄁大聖人眞筆大御本尊」を御開扉したのだ。

その後、教会担任教師・早瀬慈雄と有元氏、土屋慈観氏、そして大石日応上人が説法をしたというのが、十二日の「祈禱會」のあらあらの様子である。

だが、ここで最も注目しなければならないのは、紹介した引用文の前の部分である。そこには、「兼ねて廣告並に建札等の手配行届きしを以て自他の參拜者陸續と詰掛けぬ」(同)となっている。いったいどこに「廣告」「建札」を出したのであろうか。

ここで思い起こされるのは、日蓮大聖人御聖誕七百年に際し、カーチス式という複葉機に御本尊を奉掲し、空より布教のためのビラを撒いた事例である。大正十年二月十六日のことであった。

この史実からしても、大石日応上人が日露戦争の戦勝祈願をすることを知らせる「廣告」「建札」は、一般世間を対象になされたと見るべきだろう。それは「自他の參拜者陸續と詰掛けぬ」との表現からもうかがえる。これはいわゆる世間一般でいうところの“出開帳”がなされたと判断すべきだろう。

邪宗では“秘仏”を寺から出し、わざわざ都会や他地方に運び、自宗他宗の檀信徒にかかわらず拝ませ、布施を集めることをする。これを“出開帳”というが、日応上人も、日蓮大聖人御真筆の御本尊を信者であるなしにかかわらず拝ませ、自他宗の別なく金を集め、それを軍資金として軍に提供したというのである。

ここで「戰勝守護の御本尊一萬幅」は、誰に与えられたのかという疑問がわく。「特志者」ということであるから供養をした、原則的には檀信徒ということになるのだが、実際はどうであったろうか。

法道院法華講は、今でも二千名の実勢であるという。その事実を踏まえれば、「御本尊一萬幅」が檀信徒だけに与えられたとは思えない。

明治三十七年におこなわれた内務省の調査によれば、日蓮宗富士派の檀家数は一万六五五人、信徒数は一万四三六九人である。この檀信徒の数からすれば、自宗内に「御本尊一萬幅」を求める「特志者」を募ることは容易でない。

にもかかわらず、『法乃道』に「御本尊一萬幅」の記述があるのは、この号だけである。そうすると「特志者」という表現は、金を出す者すべてという意味ではあるまいか。日露戦争開戦にあたり反ロシア感情の沸騰する巷に、金と引き換えに一万幅の御本尊が消えていったようである。

『法乃道』(同)の記事は、

「因みに云ふ此戰勝守護の御本尊は尚廣ろく特志者に授與せらるゝに付希望の人々は法道會本部に申込まるべきなり」

と報じている。控え目にみて「特志者」が日蓮正宗の檀信徒であるとしても、金さえ出せば「戰勝守護の御本尊」を与えるという行為は許されるべきではない。

それも、開戦間もなく社会全般を蔽う異常な雰囲気の中で、大衆の不安心理に便乗しての“商法”となればなおさらである。まさに嘆息せざるを得ない事態である。

このことからもわかるように、創価学会出現以前の日蓮正宗は邪宗と変わらなかったのである。日蓮大聖人の正法正義を伝える教学用語は売僧の高慢心を飾るものにすぎず、教学は深奥なる法義を伝えるものではなく、ただ欲深い金集めを偽装するものでしかなかった。

末法の御本仏日蓮大聖人の仏法を、真に日蓮大聖人の仏法として現代に蘇らせたのは、創価学会であった。牧口常三郎創価学会初代会長の殉死、戸田城聖創価学会第二代会長の獄中での悟達なしでは、日蓮大聖人の仏法は実語とならなかったのである。その史実に刮目すると同時に、宗祖日蓮大聖人御図顕の御本尊を命に代えてお護りし、流布してきたのは、ほかならぬ創価学会であることにも注目すべきである。

事実を素直に見れば、創価学会が故なくして出現した団体でないことがおのずから理解できるのである。創価学会は仏意仏勅の故に、法華経涌出品において地涌の菩薩が地から忽然と涌いたがごとくに生じたのである。それは日蓮大聖人の大慈大悲の故であり、久遠の約束ごとあればこそである。

家族友人葬のパイオニア報恩社