報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十七章 禿人とくにん遁走とんそう

地涌オリジナル風ロゴ

第624号

発行日:1993年3月23日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

自前で千畳敷の広布坊を建てるかのように言ってた日顕が
「信心があるなら供養を持ってくるはず……」と言い始めた

日顕は最近、千畳敷の広布坊建設に関する御供養を口にし始めた。

「広布坊を建てるお金は充分あるが、信心があれば御供養を持ってくるだろうから、それを受けないわけにはいかないな」

なんとも持ってまわった言い方である。つまるところ、「信心があるなら、御供養を出せ」ということである。日顕が御供養を要求して持ってまわった言い方をあちこちでするので、周辺の者は辟易している。

この千畳敷の広布坊について、日顕が最初に公言したのは、平成四年十一月二十八日、京都・平安寺の“親教”に際しおこなわれた教区懇談会の席上でのことだった。それから衆議に諮られることもなく、一足飛びに建設が進められている。

たしかに日顕は平安寺で、「決してお金がないわけじゃないんだ」と話したが、これは現在、日顕が話している御供養を要請する言葉の前半部分にすぎなかったのだ。この言葉の後に、本来は、「信心があれば御供養を持ってくるだろうから、それを受けないわけにはいかないな」という言葉が続いたのである。日顕は昨年十一月の平安寺の“親教”では、本音の部分を隠していたのだ。

さて“御法主上人猊下”のこの言葉に、末寺はいま頭を抱えている。“御法主上人猊下”が、広布坊建設の御供養を望まれているのなら、信伏随従の証として御供養をはずまなければならないからである。

広布坊建設予算が三十数億円ということなら、法華講六万人総登山ということで考えれば、一人五万円強の御供養が割り当てとなる。

だが、これはあくまで頭数で割った数字に過ぎない。末寺の法華講支部幹部となれば、相応な負担を強いられることになる。

末寺住職にしても頭の痛いことである。法華講支部を結成しろと、本山より矢のような催促があったため、実際のところ法華講員の数を水増しして、法華講支部を結成した。家庭に婦人の法華講活動家が一人いれば、父、母、夫、子供を人数に入れ、どうにか法華講支部結成に持ち込んだのである。

あるいは、虚勢を張って法華講員の数を多く報告しているところもある。総登山のときなど、登山してもいない人の御開扉の御供養を末寺住職が支払い、体面を保ってきた例も数多くある。

各末寺の法華講の実状はまことにお寒い限りである。そのような状況であるにもかかわらず、広布坊建設にあたり、「信心があるなら、御供養を出せ」と言われても、末寺住職は簡単に首肯するわけにはいかない。

まして、末寺の中には極端に貧困なところもあり、ある程度の金を所持している寺でも先行きには不安を感じている。このようなときに、手持ちの金を吸い上げられたのではたまったものではない、と多くの末寺住職は考えているのである。

そもそも千畳敷の広布坊など不必要なものである。日顕にしてみれば、先師日達上人の代に造った常来坊を見えなくする、目隠しの役割をさせるために必要な坊であるかもしれないが、一般の僧俗にとっては、どうにも必要性を認めることのできない坊なのだ。

日顕は総門を背に立ち、建て替えた総坊、新築した広布坊、三門前の整備した一帯を見渡し、自分が成した業績に自己陶酔したいのだろうが、はた迷惑なことである。日顕のこの感覚からすれば、将来、大講堂を壊し、「C作戦」断行当初、口にしていたように、正本堂から戒壇の大御本尊様を奉安殿に遷座することも充分あり得る。

ともあれ、どうしてこの時期に、三十数億円もかけて、日顕の見栄のためだけに広布坊を建設しなければならないのかと、宗内に不満が渦巻くのも無理からぬことである。

日顕が、大石寺に貯め込んだ巨額の資金から三十数億円を拠出することでさえ、窮状にあえぐ宗内の者は面白くないのに、「信心があれば御供養を持ってくるだろうから……」と持ってまわった言い方で御供養を要求されたのでは、宗内の者はますます面白くない。

宗内には、「桜も切り、総坊も建て替え、これで広布坊を建てれば、先師の御事跡を偲ぶ面影すらも、あのあたりにはなくなってしまう。だが、当代がどれほど素晴らしいというのか。布教も忘れ創価学会の御供養の余禄で建物を建てているだけではないか」との声も陰では出ている。だが、いまだにそれらの声は、大きなうねりとなって表には出てきていない。

創価学会に服従を強いるため、「法主への信伏随従が当宗の本義」などと邪義を振りまわしたツケがまわってきて、日顕に抗って建設的な意見すら言えなくなっているのだ。このため自縄自縛となり、広布坊建設という壮大な浪費のために、日顕宗僧俗は自己の意思に反し、汗水をたらさなければならないことになったのである。

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