第384号
発行日:1992年2月14日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
相承を受けた法主がどうしてニセ本尊を書写し続けたのか
そこに本尊書写について本源的に問い直す重要な鍵がある
〈導師本尊シリーズ・第7回〉
これまで御本尊の書写といえば、「金口嫡々の血脈相承」を受けた法主が、血脈を相承したことによって達し得た特別の境界でなされるものだと思われていた。法主には日蓮大聖人、日興上人と寸分たがわぬ生命が流れ、その発現としての御本尊書写があると主張する者もいた。
ところがどうだ、その「金口嫡々唯授一人血脈相承」の法主が代々にわたり、ニセ曼荼羅である導師本尊を書写してきたのだ。
本紙『地涌』が、導師本尊に「閻魔法皇」「五道冥官」など、日蓮大聖人の御図顕された御本尊にない、得体の知れないものが書き込まれていることを指摘しても、拝んでいる側の信徒は、「そんな字があったかな」といった程度である。
それも当然である。信徒は、動転した葬儀の場で短い時間しか導師本尊を見る機会がないのだから、「閻魔法皇」「五道冥官」などの文字に気づかないのは無理のないことだ。
しかし、書写する法主の立場となれば、どういうことになるのか。
かつて総本山第六十世の阿部日開は、「仏滅度後二千二百三十余年」と御本尊の讃文を書くべきところを、「仏滅度後二千二百二十余年」と書き、「ただ漫然之を認ため何とも恐懼に堪えぬ」として謝罪したことがあった。
だが、導師本尊の「閻魔法皇」「五道冥官」となれば、「漫然」と書写したということにはならない。ハッキリと意識して書いたものだ。
法主に許された行為は、あくまで本尊の「書写」である。「書き写す」ことが許されているのであって、勝手に御本尊を作り出してよいというものではない。にもかかわらず、代々の法主は、日蓮大聖人御図顕の御本尊とはまったく異質なニセ曼荼羅を顕してきたのである。
冒頭にも触れたように、法主は「金口嫡々唯授一人血脈相承」に基づき、特別な境界で御本尊を書写するものとされてきた。ところが、その特別の境界にあるはずの法主がニセ曼荼羅を書写してなんの違和感も抱かなかった。
ということは、法主には特別の境界などないということになる。論理的な当然の帰結として、こう結論づけざるを得ないのである。
総本山第五十九世日亨上人は、登座前と登座後も、自分に特別の変化はないと次のように明記されている。
「但し法階が進んで通稱が變更したから從つて人物も人格も向上したかどうか私には一向分明りません」(『大日蓮』昭和十五年四月号 「聖訓一百題」より一部抜粋)
日亨上人が登座された後に、このように明言されているのだから、法主になったからといって急に特別の精神世界に入れるものではない。まして、不可思議な生命の境界に遊戯できるなどといったことはまったくない。
人柄のよい人間は法主になっても、おそらく人柄がよいであろうし、威張りたい卑しい性根の者は、法主になればいっそう威張るだろう。
野心を持った者が法主になれば、それまで猫をかぶっていても豹変してしまうケースもあるだろう。相当に自己に厳しくしなければ、憍慢の故に己の信仰を壊すことにすらなるだろう。
法主となることは、それがそのまま特別の人間になることを意味しない。「金口嫡々唯授一人血脈相承」といっても、生命的不可思議な境界がそれによって付与されるわけではないのだ。
それでは、「金口嫡々唯授一人血脈相承」というオドロオドロしい表現は、なにを意味するのだろうか。血脈相承とは、僧伽すなわち和合僧団のトップとしての権能が引き継がれることと認識すべきではないだろうか。
一宗を統理する「貫首」としての権限が譲渡されることをもって、宗教的装飾をこらして「金口嫡々唯授一人血脈相承」がなされたと称してきたと理解すべきだ。
そうでなければ、「金口嫡々唯授一人血脈相承」を受けた法主が、「十王信仰」や「地獄信仰」という邪義を象徴する「閻魔法皇」「五道冥官」などという名を、真顔で書写し続けるといった馬鹿げた事実を説明できはしない。
今日において、「法主」と呼称をしている、いわゆる「貫首」に、教義の解釈権や御本尊書写の権限が集約されてきた。「貫首」に不可思議な生命的境界がないとわかったいま、これらの教義解釈権や御本尊書写の権限が「貫首」に一任されてきたことは、和合僧団の決まり事としてなされてきたのだということが理解できる。
御本尊書写についていえば、かつては末寺住職も書写していた。建前の理由としては、交通が不便で本山まで御本尊をいただきにあがれないといったことが言われているが、実際は大石寺のすぐそばの末寺でも本尊を書写している。本尊書写は、時代時代において和合僧団の決まり事の中でおこなわれてきたのである。
しかし、御本尊の書写と下附も、どれほど厳格なルールに基づいておこなわれたのか、疑問に思われる点が多い。
書写については、導師本尊というニセ曼荼羅を代々にわたり書写してきたことからみても、いずれかの時代にルールが乱れたことは歴然としている。
一方、下附はといえば、近年においてさえも、大石寺の塔中寺院の根檀家に対しては、“つけ届け”(根檀家では御供養をこのようによぶ習慣がある)がされれば、法主直筆の御本尊が下附されてきたのである。そのため、根檀家は代々の法主の御本尊を何体も、まるで軸物のように収納して所持している。
そして、法主の直筆による御本尊(常住御本尊)以外は、仮本尊だというのである。つまり、御形木御本尊や末寺住職の書写した御本尊は、仮本尊とされてきたのだ。
「此に於いて有師仮に守護及び常住の本尊をも・末寺の住持に之を書写して檀那弟子に授与する事を可なりとし給ふ・即本文の如し、但し有師已前已に此の事ありしやも知るべからず、然りといへども此は仮本尊にして形木同然の意なるべし」(「有師化儀抄註解」『富士宗学要集』第一巻)
【現代語訳】ここにおいて、日有上人は、仮に守護の本尊および常住の本尊さえも、末寺の住職が書写して、檀那や弟子に授与してもよいとされたことは、本文のとおりである。ただし、日有上人以前にそうした事があったかどうかはわからない。しかし、これは仮の本尊であって、形木の本尊と同じ意義であろう。
ということになれば、根檀家が何体も持ってお巻きしたまま収納している本尊が「本本尊」で、何十人も折伏して生涯を広宣流布に懸けた創価学会員の特別御形木御本尊、御形木御本尊は「仮本尊」ということになる。事実、今日までは、そのように立てわけられてきた。
自分が何十年も拝んできた御本尊様が仮本尊だったとは……。熱心に信仰してきた創価学会員にとって、このことはどうにも理解しがたいことであり、また受け入れがたいことではないだろうか。しかし、それは事実である。
常住御本尊をいただけるまでの信心に至っていない者が受持を許される本尊が、仮本尊である。多くの創価学会員の家に御安置されている御形木御本尊は、末寺の住職が書写した本尊同様、宗門では今日まで仮本尊として位置づけられてきたのだ。
自分の御本尊が仮本尊であるという事実をどうしても受け入れがたい人は、自宅に御安置申し上げている御本尊様の脇書を見ればよい。願主は空白となっているはずである。
何十年も真面目に信仰しても仮本尊しかいただけなかったということについて、憤懣やるかたないものを感ずる人は、それだけ僧侶が信徒を差別してきたのだと知るべきだろう。
とはいえ、受持している御本尊が仮本尊であっても、御本仏日蓮大聖人の慈悲は広大無辺にして実に公平であった。仮本尊の御安置とはいえ、しっかり信心した者は功徳にあふれ、本本尊を何体も持っていても根檀家たちは罰の生活をしている。
要は、清浄なる和合僧団の中で育まれた正しい信心こそ肝腎なのである。
御本仏日蓮大聖人の仰せに曰く。
「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり、所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を『是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣』と説かれて候、悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し」(生死一大事血脈抄)
【通解】このように、十界の当体が妙法蓮華経であるから、仏界の象徴である久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経即ち妙法蓮華経と我ら九界の衆生の三はまったく差別がないと信解して、妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。このことが日蓮の弟子檀那等の肝要である。法華経を持つとは、このことをいうのである。
所詮、臨終只今にありと覚悟して信心に励み、南無妙法蓮華経と唱える人を普賢菩薩勧発品には「是の人命終せば、千仏の手を授けて、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを得」と説かれている。喜ばしいことに、一仏二仏ではなく、また百仏二百仏ではなく千仏までも来迎し手を取ってくださるとは歓喜の涙、押さえがたいことである。
ここに仮本尊(末寺住職書写の本尊、御形木御本尊)、本本尊(法主書写の本尊)の差別を超えた仏力法力の実在がある。御本尊のありがたさがあるのだ。それは、すべて御本仏日蓮大聖人の慈悲広大の故である。
世界広布間近となった今日、信徒は、本本尊たる常住御本尊をいただける見込みがあるのだろうか。結論を先に言ってしまえば、世界広布が進展すればするほど、本本尊はいただきにくくなる。信徒における本本尊護持者の率は減ってしまうのである。
化儀の広宣流布においては、本尊流布こそ主眼である。宗開両祖の御遺命を拝して、本尊流布に挺身すべき時である。ところが、化儀の広宣流布が進むにしたがい、信徒における本本尊護持者の率は減ってしまうのである。
御本仏日蓮大聖人の仰せに曰く。
「ただをかせ給へ・梵天・帝釈等の御計として、日本国・一時に信ずる事あるべし、爾時我も本より信じたり信じたりと申す人こそおほくをはせずらんめとおぼえ候」(上野殿御返事)
【通解】ただ放って置きなさい。梵天や帝釈等のおはからいとして日本国の人々が一度に信ずることがあるだろう。そのとき、私も本から信じていた、という人が多くいるであろうと思われる。
実際にこのような事態になったらどうするのだろうか。日亨上人は、このことについて次のように記されている。
「然りといへども宗運漸次に開けて・異族に海外に妙法の唱へ盛なるに至らば・曼荼羅授与の事豈法主御一人の手に成ることを得んや、(中略)或は形木を以て之を補はんか」(「有師化儀抄註解」『富士宗学要集』第一巻)
【現代語訳】しかし、宗運がしだいに開けて、異民族や海外で妙法を唱えることが盛んになるときがきたなら、曼荼羅(御本尊)を授与することが、法主一人の手でできるであろうか。あるいは、形木本尊をもって補うことになるのだろうか。
世界広布の進展によっては、御本尊書写の在り方も問われるべきなのだ。実に残念なことだが、いまの宗門はいたずらに権威を振りかざす者ばかり多く、日亨上人のような開明的な僧侶はきわめて少ないようだ。
法主が一日三体の御本尊を書写したとして、一年間で約一千体。十年で一万体。それでも、信徒の一パーセントも本本尊を所持できないことになる。こう考えていくとき、世界広布の時にあたっては、御本尊書写の方法も改めて考えなければならないということになるのは自明の理である。
まして、法主が特別の境界にあって御本尊を書写しているのではなく、導師本尊の例でもわかるように、何代にもわたりニセ曼荼羅を間違ったまま写し続けているとなれば、書写の技法すらも考え直さなければならない。
御本尊書写は、もともと和合僧団の厳格なる規律に基づいておこなわれるべき性格のものである。
近代になって印刷技術が進み、交通通信網が整備されるにともない、御本尊書写(印刷を含む)の権限は和合僧団のトップである「貫首」に集中されてきた。それでも十年くらい前までは、東京の末寺である法道院(主管・早瀬日慈)において御形木御本尊は印刷されてきた。
御本尊に関わる権限が、「貫首」にほぼ完全に集中されたのは、意外にもごく近年のことなのだ。
しかし、残念なことには、御本尊書写に関わる権限が「貫首」によって完全掌握された段階において、今回の日顕狂乱事件が起きてしまった。そして、日顕は創価学会という和合僧団を破壊し、信徒を隷属させる目的で本尊を下附しないとウソぶいているのである。
本来、御本尊は、御本仏日蓮大聖人が末法の民衆救済のために御図顕されたものである。「貫首」はその大慈大悲を受け継ぎ、民衆救済のために死身弘法の戦いをしなければならないのだ。
ところが、日顕に見られるように、己の権威・権力を守らんがために、日蓮大聖人の仏法を封建思想の殻に閉じ込め、和合僧団すらも私物化しようとしているのである。
日蓮大聖人の仏法は、民衆のためのものである。御本尊が民衆救済の目的で御図顕されたことは間違いのないことである。日蓮大聖人の仏法を信ずる者は、ことごとく仏の子であり、それらの者が集まるところは和合僧団である。
だが、身軽法重の行者として広宣流布の先陣を切らなければならない日蓮正宗中枢(日顕宗)は、日蓮大聖人の民衆救済の仏法を捨て、悪しき封建思想に凝り固まり、民衆支配に腐心している。「毒気深入 失本心故」とは、このことである。
そのために、日蓮正宗中枢は現在、和合僧団の埒外に位置している。御本尊書写の権能を集中的に握っていた者たちが正信を失い、和合僧団より脱落。しかも、僣聖増上慢の姿を現じている。
その結果として、仏子らが集える和合僧団は、本来ならば和合僧団として必然的に有している御本尊書写及び下附の権能を表面的には失うことになった。
御本尊書写及び下附の権能は、もともと広宣流布を押し進める和合僧団に備わったものである。したがって、その権能は回復されなければならない。和合僧団の厳格な規律に基づきおこなわれるべきである。その規律は仏意を受けた和合僧団において決定されるべきだ。
これまで正体すらも明らかでなかった僣聖増上慢が、いま現実のものとなったのは、時のしからしむるところである。師を中心に団結し、広宣流布の戦いを、新たなる次元に突入させるべき時にきている。日蓮大聖人の本義に、よりいっそう近づくことである。
以下に、〈導師本尊シリーズ〉を連載するにあたって、参考とした文献を紹介します。たくさんの文献がありますが、『宗門問題を考える』(小林正博著・第三文明社刊)は読みやすく、時宜を得ていますので一読をおすすめします。研究をされる方は、故・圭室諦成明治大学教授、松村寿巌立正大学教授の論文を、ぜひ読む必要があるでしょう。
『日蓮大聖人御書全集』 堀日亨編(創価学会)
『日本仏教史 近世』 圭室文雄著(吉川弘文館)
『日蓮正宗 富士年表』(富士学林)
『日本仏教学会年報』第四十三号、第四十六号(日本仏教学会西部事務所)
『富士宗学要集』 堀日亨編(創価学会)
『國譯一切経 大集部五』 矢吹慶輝訳(大東出版社)
『日本大蔵経 第六巻』 鈴木学術財団編(講談社)
『日蓮宗宗学全書』 立正大学日蓮教学研究所(日蓮宗宗学全書刊行会)
『真宗史料集成 第五巻』 千葉乗隆編(同朋舎)
『宗門問題を考える』 小林正博著(第三文明社)
『日蓮教学研究所紀要』創刊号、第三号、第四号(立正大学日蓮教学研究所)
『現代語訳 親鸞全集 第五集』 結城令聞監修(講談社)
『日蓮正宗 教師必携』(日蓮正宗宗務院)
『印度学仏教学研究』第三十八号(日本印度学仏教学会)
『真宗大系 第九巻』(真宗典籍刊行会)
『龍谷大学善本叢書三』 千葉乗隆編(同朋社)
『本尊論資料』(身延山専門学校出版部)
『道教の神々』 窪徳忠著(平河出版社)
『大崎学報』第一〇四号・第一二五号・第一二六号(立正大学仏教学会)
『日本宗教史研究2 布教者と民衆との対話』 日本宗教史研究会編(法蔵館)
『近世仏教の思想』 柏原祐泉、藤井学校注(岩波書店)
『日蓮教学の諸問題』 宮崎英修編集代表(平楽寺書店)
『日蓮宗葬儀の手引』 中尾堯監修(日蓮宗和党会)
『史窓』第二十二号 京都女子大学史学会(同朋社)
『昭和新定 日蓮大聖人御書』 細井日達監修(大石寺)
『日蓮大聖人御真蹟 御本尊集』 山中喜八編(立正安国会)
『日蓮正宗聖典』 堀米日淳代表編集(聖典刊行会)
『葬送墓制研究集成 第三巻 先祖供養』 竹田聴洲編(名著出版)
『葬式仏教』 圭室諦成著(大法輪閣)
『浄土宗大辞典』 塚本善隆代表編集(山喜房仏書林)
『富士日興上人詳伝』 堀日亨著(創価学会)
『日興上人身延離山史』 富士学林研究科(大石寺)
『仏教哲学大辞典』創価学会教学部編(聖教新聞社)
『江戸幕府の宗教統制』 圭室文雄著(評論社)
『興門教学の研究』 執行海秀著(海秀舎)