第383号
発行日:1992年2月13日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
日蓮大聖人の御書を何百年も装ってきた「十王讃歎鈔」は
偽経『仏説 地蔵菩薩発心因縁十王経』を種本に作られた
〈導師本尊シリーズ・第6回〉
これまで、宗祖日蓮大聖人の御書とされてきた「十王讃歎鈔」は、実は、偽書であった。この偽書は、大石寺が発行者となっている『昭和新定 日蓮大聖人御書』の第一巻に収録され、「十王讃歎鈔」は一往、日蓮大聖人の御書として扱われてきた(本紙第375号参照)。
偽書である「十王讃歎鈔」は、『仏説 地蔵菩薩発心因縁十王経』(以下『地蔵十王経』と略す)を種本にして作られた。この『地蔵十王経』は鎌倉初期に日本において作られたことが、今日では学問的に証明されている。
この『地蔵十王経』、当時のふれこみでは中国の高僧である蔵川という人の作とされていた。ところが、それは真っ赤な偽り。日本で偽作されたものだった。
この偽経は、鎌倉、南北朝、室町時代を経て江戸時代へと続く武家社会において、追善の宗教的根拠とされた。武家社会に横行した殺生や人倫にもとる行為に対し、後ろめたさを感じた人々が、追善をしなければとの強迫観念にとらわれたのだろう。
日本に十仏事(初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百箇日、一周忌、三回忌)が定着するにつれ、この偽経『地蔵十王経』が重宝され、各宗派別に、この『地蔵十王経』を種本として、さらに新たな偽書が作られたのだった。
『地蔵十王経』を種本としたものとしては、
すなわち、偽経『地蔵十王経』は鎌倉初期に偽作され、それ以降の日本宗教界に強烈な影響を与えた。今日、伝えられる「十王信仰」「地獄信仰」は、その源をこの偽経に発するとまで言えるのである。
偽経が日本の思想、風俗を作り出したのだ。恐るべきことである。この偽経の真実の作者は、いまだに不明である。『地蔵十王経』では、追善の必要を執拗に説いている。次にその代表的箇所を紹介する。
「
七七箇日を待つて
設し親禁ぜられて獄に入らば子として靜かに家に居る哉。何に況んや
「縁のある人の男女亡人を救はんと欲せば、今日追善に
故人が遺した財をもって追善供養せよと記している。
この『地蔵十王経』と、日蓮大聖人の御書を擬した「十王讃歎鈔」は、文の構成、文章ともに酷似している。また「十王讃歎鈔」には、「されば十王経には二七日は亡人
「十王讃歎鈔」は『地蔵十王経』同様、初七日、二七日(十四日)、三七日(二十一日)、四七日(二十八日)、五七日(三十五日)、六七日(四十二日)、七七日(四十九日)、百箇日、一周忌、三回忌ごとに、十人の王が入れ替わり立ち替わり、死者が生存中に犯した罪を裁くとする。
このとき、死者がそれぞれの王に辱められ責められるのを助けるのは、残された夫や妻や子をはじめとする親類縁者の追善供養しかないと説くのである。
以下、
まずは初七日において、秦廣王より死者は次のように申し渡される。
「時に大王汝今まではゞかるところもなく道理だてを申つるに、などてや今返事をば申さぬとせめ給へば、
【通解】そのとき、大王が、お前はいままで遠慮もなく理屈を言っていたのに、なぜいまは返事をしないのかと責められたところ、大王の言葉が肝に銘じて、泣くよりほかにはない。そのとき、自分の心を恨み、千回、百回と悔いても、後悔先に立たずである。だから、後世を心に懸けることが肝要なのである。いたずらに多くの月日を送っていて、そのうえに罪業を犯し、また三途(三悪道)の故郷に帰って、重ねて苦しみを受けることは、さらに誰を恨んだらよいのか。
これが、その後に続く、死者に対する地獄の責め苦の伏線となる。
二七日、初江王
「さても罪人、妻子の追善今や今やと待ツ
【通解】ところで、罪人が妻子の追善をいまかいまかと待つところに、追善をするどころか、かえってその子供が親の残した財宝を争って、さまざまな罪業をつくるので、罪人はいよいよ苦しみを受ける。哀れなことに、娑婆にいたときは妻子のために罪業をつくって、いまこのような憂き目を見ているのに、少しの苦しみを軽くするほどの善根さえも送らないことに対して恨みは限りがない。貯えておいた財宝の一つさえもいまの(苦を救う)役には立ちはしないと、このうえない悲しさに泣き叫ぶさまこそ哀れである。大王は、これをご覧になって、お前の子供は不孝者である。いまは私の力も及ばないと言って、地獄に堕とされるのである。また、追善をおこない、五逆罪と正法誹謗の者も救い助けることのできる妙法を唱えて回向すれば成仏するのである。そうすれば大王も歓喜され、罪人も喜ぶことは限りないのである。
三七日 宗帝王
「去リながら娑婆に子供もあまた候間、其中ニ若も孝子有て
【通解】しかしながら、娑婆に子供もたくさんいるので、そのなかに、もしも親孝行な子がいれば、かならず善根を送ってくれることだろう。ひたすら、大王の御慈悲によってしばらくお待ちくださいと嘆いて言ったので、大王は顔では怒っていても内心は慈悲が深いため、お前の罪業がすべて明らかなので、地獄に堕とすべきであるけれども、しばらく待っていようと言われた。そこで、罪人の喜ぶことは限りない。このように待っているあいだに孝子が善根を積むと、亡者は罪人であっても地獄に堕ちることを免れるのである。だから、大王も追善を随喜されて、お前には似ないよい子であるとほめられ、讃歎するのである。
四七日 五官王
「さて
【通解】そして、しばらく息をつづかせてから、大王は、お前よ、よく聞け。娑婆にいる妻子が心から弔ったならば、前の王のところで善処に転じて生まれたはずなのに、お前が死んだ後は我が身のことを考え、世を過ごす苦労ばかりをしていて、お前のことなど忘れて弔うこともない。そのために、ここまで迷ってきたのである。仏説に、残しておいた妻子は後世の怨である、とあるのはこのためである。いま、この苦しみに代わることができるかどうか。ところが、恨むべき我が身を恨まずに、冥官(閻魔大王などのこと)を恨むことは愚かの極みである。
五七日 閻魔王
「構へて構へて亡魂の菩提をとぶらひ給ふべし。又化ノ功己ニ
【通解】くれぐれも、亡き魂の菩提を弔いなさい。また、化の功徳は己(自分自身)に帰るという道理なので、亡者を弔うのも我が身のためである。結局、亡者の浮沈は追善の有無によるのである。こうした道理を考えて、自分自身も信心を起こし、肉親にも回向するべきである。なかでも、閻魔大王の御前において大苦を受けるので、三十五日忌の追善が肝心である。そのときに善根おこなうと、ことごとく(
六七日 變成王
「孝子の善根
【通解】孝子による追善がたちまちに顕れると、閻魔大王はこれをご覧になって、この罪人には娑婆において追善があるぞ、すぐに許してやれと獄卒どもに命じられて、即座に捕縄を解いて、善処に生まれるよう定められる。そのときの罪人の喜びようはたとえようもない。あまりのうれしさに、このことを子供に知らせてやりたいと、また涙を浮かべていた。あるいはまた、その子供が悪事を犯すときは、その親はますます苦しみを増して、地獄へ追いやるのである。それゆえに、よくよく亡者を弔うべきなのである。
七七日 泰山王
「若
【通解】もしも、死後の追善がねんごろであれば、悪処に生まれる果報が転じて、善処に生まれることができる。このために、四十九日忌の弔いをねんごろにおこなうべきである。
百箇日 平等王
「今頼む方とては娑婆の追善計也。相構へて相構て追善を營み、亡者の重苦を助くべし」
【通解】いま頼りにするのは娑婆の追善ばかりである。くれぐれも追善をおこない、亡者の重い苦しみを助けるべきである。
「かゝる厚恩を蒙れば身の徒らに月日を送りて居て、三途の重苦に沈みたる親の菩提を弔はざらんは淺間敷事也。
【通解】このような厚い恩を受ければ、我が身がいたずらに月日を送っていて、三途(三悪道)の重い苦しみに沈んでいる親の菩提を弔わないということは、あさましいことである。どうして諸天が憎まないことがあるだろうか。そのうえ、多くは子供を思うために(罪を犯して)地獄の重い苦しみを受けることがある。くれぐれも、弔っても弔うべきなのは両親の後生であり、菩提である。
一周忌 都弔王
「汝は我身を思はぬ不當の者なれども妻子孝養の善人也。此一周忌の營みに依て第三年の王へ
【通解】お前は、我が身を思わない不法な者であるけれども、妻子は孝養する善人である。この一周忌の追善によって、第三年の王のもとへおくられた。
三回忌 五道輪轉王
「若又追善をなし、菩提を
【通解】もしまた追善をおこない、菩提をよくよく祈れば成仏させる。あるいはまた、人界・天界などにつかわされるのである。
なんとも悪質な脅しばかりの繰り返しである。人の不幸を飯の種にしようとする
この卑しい文が、宗祖日蓮大聖人の御聖訓とされてきたのだ。それだけではない。信徒を欺く悪比丘の小道具として何百年ものあいだ、珍重されてきたのだ。追善とは、とりもなおさず僧を呼んでの法要のことで、もちろん、それには供養(布施)がつきものである。
この「十王讃歎鈔」が、天下の偽書『地蔵十王経』を種本にして作られたことを示すために、酷似した何箇所かを以下に紹介する。
「之ニ依テ此山を死出の山とは云フなり。足のふみどころも覺えねば、嶮しき坂に杖を求ムれども與ふる人もなく、路の石に履を願へどもはかする人もなし」(「十王讃歎鈔」)
「閻魔王國の堺は死天門の南門なり。亡人の重過あるは兩そう を破り、膚を割き、骨を折り、髄を漏す。死して天に死を重ぬ。故に死天と言ふ。此れより亡人向つて死山に入り、險坂に杖を尋ね、路石に
「今前後に鬼どもの怖しさ、目もあてがたしと見ゆ。又岸の上に大なる木あり、此は
「官前に大樹有り。衣領樹と名く。影に二鬼を住す。一を
「又大城の四面に
「大城の四面に周圍して
「次に別院あり、光明院と名く。此院内に九面の鏡あり、八方に各一の鏡を懸ケたり、中臺の鏡を
「次ぎに二院有り。一を光明王院と名け、二を善名稱院と名く。光明王院、中殿の裏に於て、大鏡臺有つて光明王鏡を懸く。淨頗梨鏡と名く」(『地蔵十王経』)
「獄卒を召てこれなる罪人は倶生神の札を疑ひ兎角云フ計なし。
「閻魔法王此の王鏡に向つて自心の事、三世の諸法、情、非情の事を
これ以外にも、たくさん似た箇所がある。日蓮大聖人の作とされてきた「十王讃歎鈔」は、まぎれもなく偽経『地蔵十王経』を種本に作られたものだ。このような代物が、長年、日蓮大聖人の御書と思われてきたことが不思議でならない。
日蓮正宗において、今日まで「即身成仏之印文」とされてきた導師本尊に書き込まれている「五道冥官」。この「冥官」という言葉は、偽書「十王讃歎鈔」にしか出てこない。いうなれば導師本尊の根拠は、この「十王讃歎鈔」にしか求めることができないのだ。
その「十王讃歎鈔」が、いまや偽書であることが歴然とした。しかも、人の不幸と悲しみにつけ入り、人の抱く死への恐怖に依って、信徒を僧侶に隷属させ、追善供養を強要しようとしているのだ。
まことに「十王讃歎鈔」は、稀代の悪書である。そして、導師本尊とこの偽書「十王讃歎鈔」は、まったく相通ずるものがある。導師本尊と「十王讃歎鈔」の基底に横たわっているものは、出家の堕落、傲慢、
恐るべきは邪師の邪智である。信徒は確固たる信仰観を持たなければ、悪侶に何百年にもわたって