第350号
発行日:1991年12月16日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
日亨上人が宗門を興隆するために開始された教学講習会を
日開は宗内支配のために不都合と見て登座直後に中止した
〈法難シリーズ・第39回〉
阿部法運は登座直後、「訓諭」を発した。日開は、この「訓諭」の中で今後の宗政を司る基本方針として、「教学の振興」と「宗祖第六百五十遠忌奉修」を二大眼目とした。以下に、その「訓諭」全文を紹介する。
「 訓 第 拾 五 號
宗 内 一 般
野衲本月二日本宗管長ノ職ニ就キ、同八日、日亨上人ヨリ血脉相承ヲ受ケ、總本山第六十代ノ法燈ヲ嗣グ。
顧フニ教學ノ振興ハ勿論、宗祖󠄁第六百五十遠忌奉修ニ關スル諸般ノ報恩事業等實ニ焦眉ノ急務ニ屬ス。
只管宗内道俗ノ至信ニ住シ、和衷協力以テ宗風ヲ顯揚シ報恩ノ微衷ヲ、成滿センコトヲ庶幾フ。
希クバ一宗ノ緇素此大願ヲ、成就スルニ赤誠ヲ抽デラレンコトヲ。
右 訓 諭 ス
昭和三年六月十七日
日蓮正宗管長 阿 部 日 開」
(『大日蓮』昭和三年七月号)
ところが、日開がこの「訓諭」の中で示した「教学の振興」はウソだった。日開にとって興味のあることといえば、宗内支配しかなかったのだ。教学を振興し、明日の宗門を希望あるものにしようなどといった気持ちは、もとよりさらさらなかった。
日開の前の法主である日亨上人は、教学の振興こそ宗門興隆の要と考えられていた。そのため、昭和二年の夏には、画期的な試みとして教学の講習会を催された。この日亨上人の施政に、向上心のある若手は両手を挙げて喜んだようだ。
講習会は昭和二年七月十八日から八月七日までの三週間にわたり、聴講者の資格は、「公私立中学校四学年以上各官私立大学豫科以下在学中ノ本宗僧侶」(昭和二年六月六日付「院達」)となっていた。十数名が正規の聴講者で、それ以外にも多数の聴講をする者がいた。
日亨上人は華氏九十度(摂氏約三十一度)の炎暑をものともせず、みずから講義をされた。ほかに講師は小笠原慈聞、福重照平などであった。
なかなかの盛況であったようだが、日開やそれに連なる総監の水谷秀道(のちの第六十一世日隆上人)などは、この教学振興の動きを、はなはだ面白くないものとして見ていたようだ。
総監の水谷秀道は、開会式にも閉会式にも顔を出さず、日亨上人が総監の役割まで代行され、聴講生は総監に対して不快感を持った。昭和二年の夏の時点で、日開派は、日亨上人に「信伏随従」せず、無視の動きをしていたのだ。
この教学講習会は、昭和二年の夏を前期、昭和三年の夏を後期と定められていた。日亨上人は、前期と後期を修了した者は、無試験にて准講師(教師)とすることを、講習会において明言された。教学研鑚に意欲的な人材を登用しようとの試みである。
だが、日亨上人の人材登用の方法が革新的であったために、講習会は新たに登座した日開によって潰されるのである。日開の登座直後、日蓮正宗宗務院は「宗内一般」に向けて「院達」を出した。
「 院 第壹壹五〇號
宗 内 一 般
昨昭和二年度ヨリ開始セル本宗講習會ノ儀本年度ハ宗務上ノ都合ニ依リ無期延期ト相成候條此段相達候也
昭和三年七月六日
日蓮正宗々務院」
(『大日蓮』昭和三年八月号)
講習会は無期延期となったのだ。
それでは、突如の講習会延期は、どのような理由からおこなわれたのであろうか。そのことについて、日達上人は聴講生の一人として義憤をもって『大日蓮』(昭和三年九月号)に文を書かれている。その一部を紹介する。
「此の度の後期講習會無期延期に對して宗務當局はただ宗務の都合と云ひて他に理由を明言せざるため與論は二方面の解釋を下して居る。一は前後兩期を修業したものは無試験にて准講師に叙すと云ふ前管長猊下の明言に依り本年度の後期講習會を開く時は十數人の正規准講師が出來て、此等の人々の大部分は昨年の急造教師の反對者であり而も近く宗會議員總選擧があるから新宗務當局に取て正規准講師は好ましからず爲めに延期せりと。二はもつと痛烈の説であつて宗務當局の意中の人に講習會の講師として相當の人を見い出せない結果なりと。以上の二説は單に想像にすぎずして宗務當局の考がかかる卑劣なることから來たのではなからうと吾人は信じて居るが其れを指摘する理由を知るを得ざるは遺憾と思ふのである」(『大日蓮』昭和三年九月号「講習會延期に對する所感」より)
どうやら日開派は、後期の講習会を開けば、反日開派の者が数多く選挙権を得てしまうので、それを阻止するために突如として講習会を無期延期にしたようだ。日亨上人の理想も、宗内の派閥抗争の前に、あえなく挫折したのであった。
日達上人と同様の指摘は、他の聴講生もしている。
「堀上人は或學生に對して今年の夏期講習會なるものは萬難を排してこれを施行すると嚴命あらせられたりとの事にもかゝはらず現在の如き状態にては愈以てそのあやしさを感ぜずには居られないのである。かゝる無期延期なる文字の中にはいまはしい宗内黨略の關係より生じたる處の教師補任の數字よりして當局者等は自己の地位の不安を一掃しうるとの意が含れてゐる事これ又明かである」(『大日蓮』昭和三年九月号 大垣雄道「講習會無期延期を想う」より一部抜粋)
「幸にして昨年の夏堀上人其他憂宗の士によりて講習會が開催せられた、吾々は恰かも旱天の慈雨として勇躍し之れに臨み浴した。
然るに其の悦びも束の間今年は單なる宗務の都合によりといふ名目の下に中止となつた或人は講習會の中止せられたことは、講習完結と同時に必然的に新教師の輩出することを慮り來るべき宗會に對する豫定の畫策なりといふ、吾人はかゝる言を信じたくない、宗門教育はかゝる邪心家の専横に依つて汚さるべきものではない、宗學の研鑽は飽迄神聖でなければならぬ、然し乍ら宗門の事業としても将又未完結の講習を繼續するといふ意味からしても當然なすべき講習を為さゞるに就ては吾人も其の理由が那邊に存するか其の了解に苦しまざるを得ない、若し不幸にして或人の言が眞であるとするならば、法類とか單なる感情を主として宗門ていうことを眼中に置かない小人、其等の政争の具に供せらる青年こそいゝつらの皮だとかう考へたくなる」(『大日蓮』昭和三年九月号 馬渡廣泰「噫敢てする憂宗の言」より一部抜粋)
日開らの策謀に対して、宗内の若手僧侶は批判的な姿勢をあからさまにしたのだった。だが、日開らは無視を決め込んだ。
それにしても、このような当局批判を正規の機関誌に掲載しても処分しない当時の宗務院は、いまの宗務院よりましなようだ。あるいは、当時の法主の地位は今日ほど神秘化され強権を有していなかったと理解すべきか。
いずれにしても、日開は先師・日亨上人の約束を、宗内支配のために反故にしたのだった。先師に対する敵対である。この点、日開、日顕には共通したものがある。
講習会の後期は無期延期とされたまま、永久に開かれることはなかった。日開の無慚無愧なやり方が、ここにもあらわれている。日開にとっては、宗門の興隆よりも、みずからの宗内支配をより強固にすることのほうが大事だったのだ。