第353号
発行日:1991年12月19日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
阿部日開は御本尊を漫然と誤写したとして訂正文を書いた
日顕はそれを誤写でないとし父子揃って御本尊を冒涜する
〈法難シリーズ・第40回〉
総本山第六十世阿部日開(日顕の実父)は、昭和三年の登座直後、本尊を間違って書写した。「仏滅度後二千二百三十余年」と書くべき讃文を、「仏滅度後二千二百二十余年」と書写してしまった。
これが、いわゆる“御本尊誤写事件”だが、誤写された本尊は何体であったかは不明である。
日開の“御本尊誤写事件”は、当然、宗内で問題とされ、小笠原慈聞らが阿部日開を問い糾した。そして、当時の記録によれば、阿部日開は「タダ漫然之ヲ認タメ何トモ恐懼に堪ヘヌ」(「声明書」〈御本尊問題の顚末〉)と謝罪したのである。つまり「漫然」と書写して間違ったと謝ったのだ。
だが、宗内の反阿部派がこの問題を大きく取り上げて騒いだことで、阿部日開ら宗門中枢は態度を硬化させ、誤写した本尊を回収することもなく、無視を決め込みはじめた。
それに対して小笠原慈聞らは、昭和四年二月十八日の朝、阿部日開が「六ツ坪」での勤行を終えるのを待ち詰問する。その結果、阿部日開は過ちを認め、訂正文を書き、自署花押したのである。
「御本尊二千二百二十余年並に二千二百三十余年の両説は、二千二百三十余年が正しく、万一、二千二百二十余年の本尊ありとすれば後日訂正することとする。依って弟子旦那は二千二百三十余年の本尊を信ずべきものである。
以上
六十世 日開 花押」
総本山第六十世の法主たる者が、御本尊書写に関して、訂正文を書いたのだ。法主として、これ以上の屈辱はないだろう。
「御本尊七箇相承」には、次のように記してある。
「一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉ること御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」(『富士宗学要集』第一巻所収)
この相伝書によれば、まぎれもなく「仏滅度後二千二百三十余年」と認めることが正しい。そこには、議論の余地はない。
宗祖日蓮大聖人の御立場においては、年代によって「仏滅度後二千二百二十余年」「仏滅度後二千二百三十余年」とお認めになっている。しかし日興上人に連なる代々の法主においては、「仏滅度後二千二百三十余年」が正しい書写であることが、この相伝書より明らかとなるのである。
ただし、この相伝書自体に疑義をはさむのであれば、「二十余年」「三十余年」にこだわらなくてもよいことになる。昭和三年当時の阿部派の主張である「弁駁書」(昭和三年十二月二十九日付)は、
「此相承は宗祖より御開山への口決であったのが、此の如きの文になったのは、或は御開山滅後かも知れぬ、此等の古書の扱の事は先年より御隠尊上人が御校定中である。今師について聞くに七箇相承と云ふも七箇は本条の前々で尽きておるので、此条は条を逐へば九条目あたりになる。或古本には、明かに七箇条目から後は附録となってをる。此文の扱を迂濶にしては困る。余程慎重にせねばならぬとの仰である」
と記している。
「今師」すなわち阿部日開は、相承書である「御本尊七箇相承」に疑義をはさんでいるのだ。この主張に立てば、「二十余年」「三十余年」のいずれにおいて書写するのが正しいかということについては、即断を避けなければならないことになる。
いきおい教学的な判断に論は進むことになるのだが、それは本稿の主眼ではない。ここで確認しておきたいことは、阿部日開が御本尊を誤写したとして訂正文を書いた史実である。
ところが、日顕は登座してから父・日開の訂正文をも覆し、「仏滅度後二千二百二十余年」でも「仏滅度後二千二百三十余年」でもよいと発言している。少々、引用が長くなるが、それを紹介する。
「故に、この二千二百二十余年と三十余年は、時に約してお示しになっておられるのでありまして、そこに大聖人の御本仏としての御化導があり、また日興上人の唯我与我の御相承があるのであります。
ですから、日興上人が付嘱を承けられた弘安五年は、仏滅後から拝しても『寿量品』という上から拝しても二千二百三十余年であるべきです。けれども、その三十余年ということの中には、数字に執われるべきものではなく、二十余年と三十余年の両意が付嘱の上の、大聖人より日興上人への大曼荼羅御顕発の御境界の中に、すべてが丸く収まっておるのであります。
ただし、どうして大聖人が弘安元年・二年・三年において両方をお示しになっているかということについては、またこれは深意が拝せられるのでありますが、そのすべてを含んでの御付嘱なのです。だから基本的には、書写について三十余年の御指南があり、歴代先師の方々も概ねその如く、また私も登座以来、二千二百三十余年と御書写申し上げております。今後、未来においてもまた、それを基本とすべきことは当然であります。
しかし、御歴代の中には時々、二十余年と御書写になっておる方もあります。これは書写の基本ではないが、大聖人の大曼荼羅御境界を拝された日興上人の御意を拝しつつ、そこを元として、その中に含まれた特別の境地を拝されたものであります。
故に、二十余年と書写せられた少数の御本尊があり、また数人の御先師が時として、ごくわずかに二十余年と書写あそばされたことについて末輩が、相伝の何たるかも知らない者共が、“間違いだ”などと言うこと自体がおこがましいことである、と言っておるのであります。
あるいはまた、二十余年とも三十余年ともお書きにならず、『正像未弘の大曼荼羅也』という御本尊もあります。だから軽率に先師を批判することは十分に慎まなければならないと思います」(『大日蓮』昭和五十六年九月号)
昭和五十六年八月二十五日の全国教師講習会における日顕の説法だが、このように強弁している。しかも、その文意の中には、付嘱を受けているが故に日蓮大聖人の「境界」と等しいといった趣旨が読み取れる。
そこでは、仏宝と僧宝の立て分けすら曖昧になっている。今日、顕在化した、己を仏宝と等しいとする三宝破壊の萌芽を読み取ることができるのである。
日顕は、先に引用した説法の中で、「先師を批判することは十分に慎まなければならないと思います」と述べているのだが、わざわざ先師である阿部日開が非を認め自署花押した訂正を覆すことこそ、先師に対する冒涜ではあるまいか。
「相伝の何たるかも知らない者共が、“間違いだ”などと言うこと自体がおこがましい」
と、日顕は「二十余年」と書写した父・阿部日開をかばっている。その日顕の論でいけば、御本尊書写という重大事について誤ってもいないのに、誤ったとして訂正文を書いた阿部日開は、「相伝の何たるかも知らない者」ということにならないか。
いずれにしても、日顕の主張する史実を無視した法主無謬論が、まったくもって論理的に破綻していることは明らかである。
さらには、日顕本人が、「二十余年」は書写の基本ではないと断言しているのであるから、やはり基本からはずれた書写は間違いということにならないか。それとも、法主は付嘱を受けているのだから宗祖と同等である。したがって、自由な境界で書写すればよいと、得意の大慢心に基づく論を展開するのであろうか。
御本尊の書写についてすら定見のない日顕の迷妄が、ここでも明らかになっている。父・日開は御本尊誤写をして訂正文を書き、その子・日顕が五十年を経て父のおこなった“誤写”は誤りではなかったと、父・日開の訂正文を覆し強弁する。
日開、日顕が父子一体となり、宗祖日蓮大聖人が末法の衆生のために御図顕された御本尊を冒涜していることだけは間違いない。