第349号
発行日:1991年12月15日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
阿部法運が住職をする常泉寺の風紀は乱れに乱れていた
阿部は寺に勤める女性複数と関係し一人に日顕を産ませた
〈法難シリーズ・第38回〉
阿部法運は、宗史に一大汚点を残した管長選挙に勝ち、総本山第五十九世日亨上人より付嘱を受け、昭和三年六月二日、第六十世日開上人となった。
同年六月、牧口常三郎創価学会初代会長、戸田城聖創価学会第二代会長が入信されている。時を同じくして、「法滅の妖怪」である阿部日開が猊座に登り、一方で創価学会による広宣流布の胎動が始まったのである。
阿部日開は、猊座に登った直後、それまで認知していなかった我が子、信夫を認知した。信夫が生まれたのは大正十一年十二月十九日。認知したのは昭和三年六月二十七日で、信夫が満五歳のときだった。信夫は、得度して信雄を名乗り、のちに猊座に登り日顕となる。
阿部日開が信夫を産ませたのは、当時、常泉寺に勤めていた彦坂スマという女性だった。日顕は、昭和五十四年八月八日におこなわれた日達上人の第初七日忌御題目講にあたり、次のように当時を追憶している。
「猊下(筆者註 日達上人)の履歴を拝しますと、最初に得度の前にお寺に上がっておられたのが、東京の常泉寺で、それから二・三年して日正上人の徒弟として出家得度を遊ばされて、その後でまたもう一辺常泉寺へおいでになって、在勤されているように思われますが、その時に丁度私の母親も、開師のおそばにおりましたので、常泉寺のまあ台所の方で働いておった訳で(以下略)」(『大日蓮』昭和五十四年九月号)
日達上人が、所化で常泉寺に在勤したのは大正十一年のことである。日顕の追憶によれば、この大正十一年の時点で、彦坂スマは「常泉寺のまあ台所の方で働いておった」ということになる。
日顕が生まれたのは同年十二月だから、日開(当時四十九歳)は台所で働いていたうら若い女性(当時二十五歳)と男女の関係を持ったことになる。明らかに女犯であり、日開は破戒僧ということになる。
なお、彦坂スマの母、彦坂ぶんは正規の結婚は数カ月で、離婚後、独身のままでスマともう一人の男の子を産んでいる。男の子は、スマにとっては異父弟にあたる。異父弟は父に認知されているが、スマは誰からも認知されていない。
彦坂スマは、二十歳のときに日蓮正宗に帰依したようで、それまでに天理教、キリスト教、国柱会などの宗教遍歴がある。彦坂スマは、生まれた境遇によるのだろうか、十代後半より宗教に興味を持っていたようだ。
彦坂スマが常泉寺に勤めはじめたのは大正十年、二十四歳のときだった。このとき、阿部法運は四十八歳である。
反阿部派の有元派は、昭和三年三月十三日付で「声明書」を出しているが、その中に、阿部法運の行状に関して次のような記述をし、阿部の管長就任を反対している。
「勿論二三十年前の本宗ならば法義に暗い未熟者には、能化の位を授け優等寺院には住せしめて置けないのである。然に阿部師はテンゼンとして常泉寺に住し、妻子奴僕の愛惑に囚はれてゐるさへ不思議なるに、宗開両祖の御顔に泥を塗り、知らざる真似して管長法主たらんと劣悪なる運動したのである。之で何で宗旨教理の疑義を裁定することが出来ませうか、一宗僧俗の監督が届きませうか、我等は常泉寺々庭のビンランを見、阿部師の不学未熟に鑑みて、之は出来ぬ相談である。宗門の不祥事であると思ふのであります」
有元派の「声明書」は、まず阿部日開が「法義に暗い未熟者」であるとなじっている。そして、行躰の悪さも槍玉にあげている。その表現たるや激越である。
「妻子奴僕の愛惑に囚はれてゐる」。昭和三年三月の時点では、常泉寺にいる彦坂スマや信夫は、その夫婦親子関係の事実を追認され、宗内でも日開の妻子として実質的に認められる雰囲気にあったようだ。
しかし、ここでもっとも問題にされなければならないのは、「妻子」につづく「奴僕」の二字である。どう読んでも、日開が「妻子」のみならず、「奴僕」との「愛惑に囚はれてゐる」と、この「声明書」は記しているのだ。
日開は、子供を産ませた彦坂スマ以外に、常泉寺女性従業員の誰かと男女の関係にあったことになる。それが宗内で評判となり、相当、顰蹙を買っていたようだ。
有元派は、日開の愛欲に溺れた常泉寺での生活が「宗開両祖の御顔に泥を塗」る行為であると批判しているのである。そして、日開がみずからの行状の悪さを隠して管長法主になろうと運動をしていると、口をきわめて非を鳴らしている。
有元派は、「常泉寺々庭のビンラン」を問題にし、阿部が猊座に登ることは、「宗門の不祥事である」とまで断じているのだ。いったい阿部法運が住職をしていた常泉寺は、どのようなありさまだったのだろうか。
有元派は、文書によって公然と批判しているのだから、根拠のないことではなかっただろう。繰り返すようだが、この「声明書」から当時の状況を察すると、阿部法運は、常泉寺内において、複数の女性と関係を持っていた。その一人には子供(日顕)を産ませた。彦坂スマと、その間にできた子を、いつからともなく周囲も妻子と認めるまでになっていったようである。
日顕を産んだ彦坂スマは、昭和十年五月に得度し、尼となり「妙修」を名乗った。彦坂スマが阿部日開の籍に入るのは、昭和十三年二月十日のことである。
邪宗においても、尼はいまだに独身を不可欠の要件としている。妙修尼は日蓮正宗最後の尼だったが、婚姻をなした。それも、法主との婚姻である。
本当の意味での比丘、比丘尼は、その当時の日蓮正宗には、まったくといっていいほど存在しなかったが、まさに尼と法主の結婚は、日蓮正宗において独身僧、独身尼がいなくなってしまったことを象徴的に物語る事件だった。それ以降、日蓮正宗において、独身が僧の前提であるなどと考える者もいなくなった。
日興上人の御遺誡置文に曰く。
「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し」
日開と妙修は、法主あるいは最後の尼であるにもかかわらず、開祖の御遺誡置文を、二人して宗門公衆の面前であからさまに踏みにじってみせたということになる。
日開や妙修尼の悪業の影響だろうか、今日の日蓮正宗に巣くう悪比丘らには、日興上人の御遺誡置文を真摯に受けとめ、遵守していこうなどという気風はまったくない。年月とともに、御遺誡置文は空文化してしまったのである。
同じく御遺誡置文に曰く。
「此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず」
日蓮正宗の僧および寺族は、とうの昔に日興上人より破門されてしまっている。その破門されてしかるべき偽りの僧形をなした者たちが、戒壇の大御本尊を擁して仏子らを破門にするというのだから、まさに、いまは法滅の時である。
なかんずく、法主は「法滅の妖怪」の申し子ともいえる日顕。その日顕が僣聖増上慢と化すのも無理からぬことである。