第234号
発行日:1991年8月22日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
五重塔の銅瓦をトタンにし利ザヤを稼いだ悪比丘がいた
傷んだ五重塔を後に修復したのは戸田会長と学会員だった
〈法難シリーズ・第12回〉
総本山大石寺にそびえる五重塔は、総本山第二十六世日寛上人が起塔を決意され、第三十一世日因上人に至って完成した。完成は寛延二(一七四九)年のことであった。
だが明治に入り、この五重塔の銅瓦を売り飛ばし、そのお金を着服してしまった僧がいる。この頃、大石寺内では、そこら中に酒樽を並べて盛大な酒盛りをしていた。
当時の御法主上人は第五十五世日布上人である。第五十九世日亨上人によれば、日布上人は「おだやかな人でね。ほとんど、生きているか死んでいるかわからんような、穏健な人」(『大白蓮華』昭和三十一年十二月号)であったという。それをいいことに、悪比丘が跳梁していたのだ。
五重塔の銅瓦が売り飛ばされた明治の初めは、それまで禁止されていた僧侶の妻帯、蓄髪が、明治五年、政府により許されるなど、寺社奉行の強権を伴う監視より解き放たれたことによって、日本宗教界全般にわたり、僧の自戒の念がきわめて希薄になった頃であった。日蓮正宗の僧の中にも、御多分にもれず、世間の風潮にならって遊興にふける者がいたのだ。
江戸幕府寺社奉行の管理下にあっては、女犯をすれば遠島等の厳罰に処せられていた僧が、妻帯(女犯)を許されたことにより、いわば野放しとなったわけだ。その結果、風紀はいちじるしく紊乱していた頃であった。
当時の総本山大石寺は、文字どおり末世の悪比丘たちに占拠されていたにちがいない。まさしく白法隠没である。日亨上人は、五重塔の銅瓦が売り飛ばされた顛末を次のように語っている。
「そのころ久成坊に長谷川という現代向きの世才家があつてね。すつかり、人のよい日布上人をごまかしてしまつた。自分の家などはね、文化式というかほとんど旅館同然にこしらえたんですよ。中に廊下をはさんでね。南北にずつと客室をこしらえて。便所なんかでも立派なもんでしたよ。そんなことには才があつた。
ところがひどいことには五重の塔の銅(あか)がわらをごまかしてもうけたわけです。このごろトタンという珍しいカネができましたから、そのカネでもつて作るというと、萬代むきで、銅(あか)がねのように錆びはしませんから、トタンに五重の塔をふきかえた方がいいですなんて貫主さんに言つた。貫主さんは何にも知らん人で、そうか、そんなものができたのか、じや、よろしく頼むなどといつて、銅を高く賣つちやつて、トタンぶきにしてしまつた。そういうバカなことをやつている。そして、それを塗ればよいのに塗らないでおいたでしよう。そのトタンが錆びて、そこから漏るようになつてしまつて、それで仕様がなくて、日應上人時代にですね、そのトタンをはいで、かわらにしてしまつた。それが充分でないから先年、學會の厄介になつて修理した。
まあ、とにかくそういう世才家があつてとても派手な騒ぎをやつたらしかつたですね。酒樽をそこら中、並べてですね。飲み次第、食い次第で、さかんなことをやつたらしいですよ。それでとうとうね、借金ができてしまつた。その借金の返濟ができなくて、大宮あたりでは大石寺だというと、もう、鹽一升もかさないということになつてしまつた」(『大白蓮華』昭和三十一年十二月号)
法主を騙して銅瓦を売り、その代金を着服していた悪比丘が、旅館同然の立派な住居に住んでいた。これだけでもかなりショッキングな話なのに、そのうえ、いまの富士宮あたりでは、大石寺だというだけで、塩一升も貸してくれなかったという、これまたショッキングな話を、日亨上人は淡々と語っている。
戒壇の大御本尊様ましますところとはいえ、総本山大石寺は、悪比丘の住処となってしまっていた。大石寺はさびれ、塔中坊の住職すらも欠員が出、住職不在の坊が、三、四坊あった、ということも日亨上人は話している。
昭和二十七年、五重塔は大々的に修復された。修復したのは創価学会であった。創価学会が五重塔を修復するきっかけとなったのは、その年の四月、宗旨建立七百年大法要に際して起こった「狸祭事件」に起因する。「狸祭事件」とは、創価学会青年部が、牧口常三郎創価学会初代会長獄死の近因となった日蓮正宗の僧・小笠原慈聞を、牧口会長の墓前において謝罪させたことをいう。
小笠原が謝罪させられたということは、日蓮正宗僧侶の多くにとって脅威であった。ほとんどの僧が、戦中の言動にさかのぼれば、スネに傷を持っていたからだ。創価学会によるこうした直接行動によって、みずからも謝罪させられるのではないかとの危機を感じたことだろう。
日蓮正宗宗会は戸田城聖会長の責を問い、「所属寺院住職を経て謝罪文を出すこと」「大講頭を罷免す」「戸田城聖氏の登山を停止す」等の決議をした。その後、創価学会の正義は認められたが、このとき戸田会長は、五重塔の修復をもって赤誠の証を立てた。
明治時代、悪比丘が銅瓦を売り遊興にふけったことにより、ひどく傷んでしまっていた五重塔を、信徒団体が修復したのである。日寛上人の志である五重塔を食い物にした悪比丘、広宣流布実現の熱誠に燃える信徒。五重塔に対する両者の関わり方は、あまりに対照的である。五重塔に象徴される僧侶の腐敗と信徒の大情熱は、そのまま今日に続いている。