第233号
発行日:1991年8月21日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
総本山に聳える三門は権勢におもねった歴史的な遺産だ
徳川幕府より天領の材木を貰い将軍側室の下賜金で建てた
〈法難シリーズ・第11回〉
前号(第232号)に続き、天保九(一八三八)年六月、大石寺が代官「豆州韮山 江川太郎左衛門」に差し出した「口上覚」について記述する。
この古文書は、寛永十二年十月十二日に大石寺の「本堂」「山門」「坊舎」が焼失したことを記し(原文は前号に掲載)、続けて次のように綴っている。
「本堂方丈坊舎等者再建致候得共、山門寳塔再建難及自力ニ」(本堂、方丈、坊舎などは再建致し候えども、山門、宝塔の再建は自力に及び難く)
本堂、方丈、坊舎はなんとか再建したが、山門、宝塔(五重塔)の再建は自力ではとてもできなかったのだ。なお「方丈」は住職の住居、「坊舎」は僧坊のことを言い、僧俗の起居するところを指していると見られる。
「正徳二年文昭院様御代寺社御奉行本多弾正少弼様奉願上候處、於富士山御財木元材七捨本拝領被仰付 御臺君従
天英院一位様御金三百両被下置候右材木并被下金ニ而山門者其砌出来仕」(正徳二年 文昭院様御代 寺社御奉行本多弾正少弼様に願い上げ奉り候ところ、富士山に於ける御財木元材七十本拝領仰せ付けられ、御台君に従う 天英院一位様 御金三百両下し置かれ候。右材木並びに被下金にて山門は其の砌、出来仕る)
正徳二(一七一二)年、「文昭院様」すなわち六代将軍徳川家宣のとき、寺社奉行をしていた本多忠晴にお願いして、富士山の原木を七十本もらい受け、家宣の側室である天英院より三百両をもらい、山門(三門)を建てたと書いてある。正徳二年、総本山貫首は第二十五世日宥上人であった。日寛上人(第二十六世)の一代前の上人である。
この三門造営について、『日蓮正宗富士年表』(大石寺富士学林刊)には、「日宥 幕府より大石寺三門造営につき黄金千二百粒及び富士山材木七十本を受く」と記述してある。「材木七十本」の記述は、古文書とも符合する。
「山門」が焼失したのは寛永十二(一六三五)年。幕府より材木と金をもらったのは正徳二(一七一二)年。その間、七十七年の歳月が流れている。
大石寺が三門を焼失して後、七十七年も経なければ、それを再建できなかったという事実に注目しなければならない。しかも幕府より材木、黄金を下賜してもらい再建したという冷厳な事実を見逃してはならない。
日蓮正宗富士大石寺に参拝すると、まず目に入るのは、あたりを圧するようにそびえている三門(山門)である。晴れた日の、富士山を背景に、朱も鮮やかにどっしりと構えた三門(山門)は見事なものがある。これまではそこに、日蓮正宗の法灯連綿たる正法正義を感じていたが、事実はその逆であった。幕府権力(国家権力)におもねることによって建てられたものだったのである。
徳川幕府の統治政策下にあって、寺社奉行に連なる寺院が、民衆を統治するために大変に大きな役割を果たした。寺院は民衆を支配する幕府の代務機関と化し、思想警察、市(区)役所的役割を担わされた。
民衆のあいだにキリシタンなどの、徳川幕府にとって危険な思想が発生しないかをたえず監視し、「寺請証文」という社会的な身分証明書を寺院が発行することによって、幕府は寺院を通して民衆の心的内面を管理し支配することに成功した。寺院は民衆支配の権限を幕府より分与され、それを代行することによって己の権威権力を保ち、民衆の上に君臨したのである。
また、民衆の改宗は、幕府によって禁じられた。このことによって、各宗派寺院ともに、幕府権力にすがっている限りは、絶対的な生活の保障を得ることができた。幕府の権勢を背景に、民衆にかしずかれ崇められる。そこには、宗教者としての根本的な腐敗が横たわっていた。
また一方で幕府は、民衆支配を代行する各宗派の僧侶の腐敗を最も怖れた。僧侶に対し庶民が不信を持てば、幕府が最も危惧するキリスト教の蔓延という事態すら惹起しかねない。「お上」である幕府に対する庶民の不信にもつながる。そこで幕府は、寺社奉行を通して各宗派を監視した。ことに僧侶の風紀紊乱には目を光らせた。この僧侶の統率にあたっては、本末関係(本山と末寺の絶対的な秩序立て)が大いに利用された。
大石寺が三門を建てるにあたり、徳川将軍の側室に莫大な黄金をもらい、寺社奉行より特別に材木を下賜された事実は、大石寺が国家権力による民衆支配の忠実な代務者であった側面を浮き彫りにする。
日蓮大聖人は、鎌倉幕府のためには祈らなかった。人々の幸福のためにのみ法を説いた。
「世間の法とは国王大臣より所領を給わり官位を給うとも夫には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云うなり」(御講聞書)
【通解】世間の法とは、国王や大臣から所領をたまわり、官位をおくられたとしても、そのことには染められず、謗法の供養をうけないことをもって世間の法に染められずというのである。
佐渡流罪を赦免され鎌倉に戻った宗祖日蓮大聖人に対し、鎌倉幕府は寺を寄進しようとした。鎌倉幕府の安泰を祈らせるためだ。だが宗祖は、鎌倉幕府による寄進の申し出を峻拒している。しかるに、その末流たる大石寺の僧侶たちは、徳川幕府より材木を得、将軍の側室より黄金をもらうことによって、あの大きな三門を造り得たのだ。
今日、大石寺への登山者を偉容をもって迎える三門は、日蓮正宗信徒にとって誇りうるべきものではなかった。それは、江戸幕府統治下にあって権力におもねっていた頃の残滓でしかなかったのだ。
正しき仏法による民衆救済を叫んで国家権力とひとり対峙し、死罪・流罪の極刑に処され身命を奪われんとした宗祖日蓮大聖人の教えと、いまにそびえる三門は、その依って立つ思想性のうえで完全に乖離するものである。
三門に象徴されるのは、現在、信徒に対し「お目通り適わぬ身」などと言ってはばからぬ日蓮正宗僧侶の権威・権力的体質である。三門は、日蓮大聖人の法義が寸分たがわず伝えられたことを示すのではなく、むしろその逆であったのだ。
《追記》
本紙前号の報道を見て、「御影堂は寛永九年に建立されたものだ。現に総本山に御影堂があるのに焼失とはなにごとか。『地涌』はウソを書いている」と中傷する僧侶がいるので、以下に若干の記述をする。
富士学林の発行する『日蓮正宗富士年表』(平成二年版、以下『富士年表』)は、「大石寺諸堂焼失」が寛永八(一六三一)年十月十二日にあったと記述している。そして翌年の寛永九年十一月十五日に「敬台院殿日詔 大石寺御影堂〔十四間に十三間〕を寄進」と記している。
この『富士年表』の記述をもって、前号の本紙『地涌』が、大石寺において大火があり「本堂」「三門」「坊舎」が焼失したのは寛永十二年十月十二日と記述したことを、誤りであると批判しないようお断りしておく。
そもそも「十四間に十三間」の立派な堂が、大石寺全焼後、一年をもって再建されたとする『富士年表』の記述が奇怪なのである。参考のため記すと、総費用四千両余で建てられた五重塔は、着工後、三年間を越える工期を要している。それから推すに、一年で御影堂を建てることはとても不可能である。
現在、宗内で刊行されている書のほとんどは、今の総本山にある御影堂は、「寛永九年」に再建、造営されたものとしている。となれば、本堂等が焼失したのは寛永十二年とする本紙『地涌』の記述が“誤り”となる。すなわち「寛永九年」の御影堂が現存していれば、「寛永十二年」に焼失したとする本紙の報道とは矛盾するわけだ。真偽や如何。
日亨上人は『富士宗学要集』の八巻五十五ページに、「祖滅三百五十七年」に「敬台寺妙法日詔より大石寺衆檀へ状」が出されていることを紹介され、その中に、敬台寺が七百余両を大石寺に「提供」したことが書かれていると記されている。
その記述に続き日亨上人は、「又一万余金を以て今の大御堂等を新築せられたるは後年のことなり」と、わざわざ付記されている。「祖滅三百五十七年」とは寛永十五(一六三八)年のことである。すなわち現在の御影堂は、寛永十五年以降に「新築」されたのである。つまり、現在、宗内の刊行物にある、御影堂に関する多くの記述は誤りと判断される。むしろ、日亨上人の記述と本紙『地涌』の寛永十二年焼失との記述のほうに整合性があるのだ。
なお、本紙の今回の記述を契機として、御影堂の歴史がいっそう明確になることを望むものである。宗内における論議が待望される。しかしその場合、御影堂焼失、再建の歴史学的興味に偏向することなく、仏法の本義に依りながら、大石寺大火の真因を見つめていくことが本筋であることを失念してはならない。