報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十六章 宝珠ほうじゅ亡失ぼうしつ

地涌オリジナル風ロゴ

第571号

発行日:1992年12月16日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

江戸時代の邪宗は庶民相手に高利貸しをし繁栄の礎とした
大石寺も同様で焦げついた金の回収を代官所に泣きついた

仏教が滅びるのは、聖職者の腐敗による。聖職者が民の呻吟する声を聞かず、悲しみを共にせず、ただ民を蔑み享楽にふけるとき、仏教は滅びる。

なぜ、釈尊誕生の地であるインドで仏教が滅びたのか。

理由は、聖職者が慈悲の心で民衆に接することをせず、収奪の対象として民衆に接したことによる。聖職者は宗教的権威を振りかざして民衆に臨み、畏怖の念を抱かせ、収奪をほしいままにした。インドで仏教が滅亡した背景には、欲望に支配された聖職者たちの心の腐敗がある。

さらに、僧伽が経済的基盤を確固たるものにしたことが、聖職者の腐敗を大いに助長させたともいえる。

釈尊滅後、インドにおける仏教教団はアショーカ王などの外護により教団財産(土地、金、建物)を増大させていった。財産は、土地からの利益と、貸し付けの利子で太っていった。

財産が増えるにつれ、聖職者は、托鉢をする必要もなくなり、次第に民衆から乖離した存在となっていく。ついには、衆生済度のために法を説いた釈尊の精神など、かけらもなくなってしまった。

その結果、長年の間に民衆は仏教への信仰を失い、果ては憎悪の対象としてさえ見るようになった。このようにして、インドにおいて仏教は死滅したのである。

中国を経て日本に伝来した仏教は、あくまで権力者たちのものであった。権力者に扶養され、権力者の先祖の菩提を祈り、治世のために鎮護国家を祈った。

このように仏教が伝来した当初は、おおむね仏教は権力者たちのために存在した。そして、それに抗して勃興したのが鎌倉仏教である。しかし、江戸時代になって仏教はおしなべて幕府権力の一部を形成し、民衆統治の出先機関となってしまった。その代償として、江戸時代の各派寺院は朱印という形で幕府から経済的保護を受けることができた。

諸宗派は、本寺末寺とも寺請制度という幕府の政策により檀家を永久的に確保することができた。末寺は布教の意欲を失い、定められた檀家から二重三重に収奪することのみに腐心するようになる。

諸宗派とも、寺檀制度によって檀徒を縛りつけ、その檀徒から執拗に金を奪いとるために葬式仏教と化していった。葬儀で取り、法事で何度も何度も布施を取った。信仰を失った聖職者たちが宗教的権威を保持するためにとる方法は、いつの時代も同じである。

当時、その度重なる収奪を可能にしたのは、庶民の間に根強くはびこっていた地獄信仰であった。そのような世相の中で、裕福な寺院は宗教的権威を誇示するため、競って大伽藍の建立をおこなった。それらの伽藍は、仏像の置き場や坊主の寝床ではあっても、民衆が仏法について語り合う場所ではなかった。

大伽藍は聖職者の腐敗を隠し、その偉容で民衆を圧し、隷属させることを容易とするものであった。したがって、大伽藍は形式仏教化した各寺院にとって不可欠なものだったのである。

しかし、檀家からの収入だけでは大伽藍を建立するのには無理があった。そこで、寺院は有力者から金を出させ、その金を高利で民衆に貸し付けるという、いわゆる高利貸しをはじめた。金の貸付先は、主にその寺院の檀家や周辺の農民などであった。

農民らは土地を抵当に寺院から金を借り、年貢の上納分の不足を補った。だが、長い年月のうちには、凶作などで利息を払うことができず、抵当に入れた土地を寺院に取りあげられることも少なくなかった。

寺院は、農民などから取り上げた土地を小作地として農民に貸しつけた。農民たちは寺院に取られた土地を今度は小作人として耕作し、寺院には小作料を、役所には年貢を払わされることとなったのだ。

このように、江戸時代の寺院は、民衆の信仰のよりどころとなるものでは決してなかった。寺院は、幕府の権力機構の一部として檀家制度の中にがんじがらめに民衆を縛りつけ、収奪をつづける存在でしかなかったのである。

坊主らは、権力者の庇護を受けて民衆を見下し、威張り、手を替え品を替えて民衆からなけなしの金を奪いつづけた。

寺に参詣しなければキリシタンとして御上に訴えるぞと脅し、寺に参詣すれば信仰心の篤さを布施で示せと迫り、僧に逆らえば地獄に堕ちると脅したのだ。そこには、民衆救済の慈悲心など何もない。あったのは、民衆からの飽くなき収奪と、自身を権威づけようとする高慢さのみであった。

それでは、大石寺の場合はどうだったのだろうか。事実は、大石寺も邪宗と何ら変わりはなかったのである。幕府権力になりかわって民衆を支配し、葬式仏教と化して民からの収奪を繰り返した。ときには、布教による弾圧を受けることもあったが、その熱心な布教をおこなったのは在家の人々だった。

大石寺門流の出家たちは、江戸幕府におもねり、布教も民衆の幸せも忘れ、惰眠を貪っていたのである。

寛永十二(一六三五)年、大石寺は大火に包まれ、本堂、山門、坊舎など残らず焼失した。この頃、身延山久遠寺が幕府権力を背景に、不受不施派(たとえ国主からの供養であっても、それが謗施であれば受け取ってはならないとする派)の寺を次々と支配下に置きはじめた。

日蓮大聖人の教えを守り、謗施を受けない日蓮宗系の各派に、身延山久遠寺は国主からの施を受けるかどうか迫り、対応にスキがあれば幕府権力と一体となって弾圧し、その寺院を自己の傘下に入れた。

こうした意図のもと、身延山久遠寺は大石寺を含む富士五山(富士大石寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、妙蓮寺)に対しても、幕府からの供養(謗施)を受けるという意志表明をするよう四度にわたり迫った。

大石寺は、態度を不明確にしてしのいだ時期もあったが、ついに北山本門寺、妙蓮寺ともども寛文五(一六六五)年、寺領を幕府からの供養として受け取る旨の請書を公儀に提出した。これこそ、大聖人の弟子として受けてはならない「謗施」を受けるとの変節の証文である。

「一、指上げ申す一札の事、御朱印頂戴仕り候儀は御供養と存じ奉り候、此の段不受不施方の所存とは各別にて御座候、仍つて件の如し。

 寛文五年巳八月廿一日

          本門寺、妙蓮寺、大石寺

 御奉行所」
(『富士宗学要集』第八巻)

日蓮大聖人の教えに違背し、大石寺は謗施を受け延命を図る。幕府の権威に額ずいた大石寺は、この謗施によって伽藍を整えていく。仏法の本質を失い、皮相的な繁栄を求めたのである。

正徳二(一七一二)年、大石寺は先の大火で焼失した山門の再建を寺社奉行・本多弾正少弼に願い入れた。その結果、幕府天領から伐採した大木七十本を拝領し、同時に六代将軍・家宣の正室である天英院から三百両をもらい山門を再建したのである。

そもそも、寛永十二(一六三五)年に大石寺が焼失した原因はなんだったのか。一宗の本山が焼失するには、それだけの理由がある。それは言うまでもなく、仏の法が失われ、守護の善神が去ったからである。

大石寺では、焼失の三年前に戒壇の大御本尊様を御影堂に安置し公開した。時来たりて本化国主到来の日まで堅く護らなければならない大御本尊様を、広宣流布の日を待たず公開したのであった。

このときの大石寺貫首は、第十七世日精上人だった。日精上人は、このほかにも造仏読誦という邪義まで構えていた。そのため、大石寺は焼失したのである。ところが、当時の大石寺の者たちは、謗法を犯したことを懺悔滅罪するどころか、幕府権力にすり寄り、謗施を受けることによって再び繁栄しようと考えたのである。

大石寺は、膨大な謗施を江戸幕府から受けることにより、寛永十二年の大火で焼失した建物のほとんどを再建する。だが、このとき焼失した五重塔(宝塔)の再建は、寛延二(一七四九)年まで待つことになる。

『日蓮正宗富士年表』(富士学林発行)によれば、延享三(一七四五)年に五重塔の再建がはじまった。五重塔再建のため総工費として、板倉周防守勝澄の一千両寄進を含む四千両をかけ、寛延二年にようやく完成をみるのである。

本紙『地涌』は、第232号で、天保九(一八三八)年に、大石寺が伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門に差し出した古文書を紹介した。実は、この古文書には五重塔再建にまつわる驚くべき記述がある。

大石寺が韮山の代官に提出した「口上覚」

大石寺が韮山の代官に提出した「口上覚」

「其の餘金貸附の利銀相積り、延享年中、五重之宝塔迄再建仕候」(大石寺が天保九年に伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門に差し出した口上覚より一部抜粋。以下「口上覚」)

大石寺は、天英院からもらった金で山門の再建をしたが、その余剰金で金貸し業をしていたのだ。その金貸しで得た利息を貯めて五重塔の再建資金としたのである。

さらに古文書には、大石寺が五重塔再建後も残余の金を元に金貸しをしていたことに論及している。邪宗同様、金を儲け、堂塔伽藍を建立していったのだ。

「右残金を以て御祠堂田と為し相求め置き候。回徳金を貸附け置候……」(同)

古文書に明記されたとおり、大石寺は山門の余剰金同様、五重塔を再建した残金でこれまた金貸しをしていたのである。

五重塔建立を願っていた第二十六世日寛上人は、

「覚。

一、金子二百両、但八百粒なり、右は日寛が筆のさき(先)よりふり(降)候御本尊の文字なり、今度是を三宝に供養し奉り永く寺附の金子と相定め候畢んぬ、され(然)ば御本尊の文字変じてこ(黄)がね(金)とならせ給へば此のこがね(黄金)変じて御本尊とならせたまふ時此の金を遣ふべし、さ(然)なき(無)時堅く遣ふべからず、後代の弟子檀那此の旨守らるべきなり。

享保十一丙午年六月十八日           日寛

 老僧中、檀頭中」
(『富士宗学要集』第八巻)

と御遺書状を残している。

日寛上人の願いは、幕府からの謗施で建立することでもなく、まして、信徒の御供養で金貸しをし、それで儲けた金で建立することでもない。折伏弘教による信徒の赤誠によって建立することにあったのだ。

しかし、日寛上人没後の大石寺は、日蓮大聖人の弟子として大きく道を踏み外していく。民衆を収奪の対象としながら、その一方で権力者に媚びることにより、自己の繁栄を期すのである。

大石寺は、江戸時代の邪宗の寺々が歩んだのと同じ腐敗への道を歩んだのだ。邪宗の寺同様、大石寺も信徒の御供養で金貸し業を営み、それを五重塔の再建資金に当て、さらにその余剰金を使って金儲けを企んだ。だが、その企みも打ちつづく凶作でつまづいてしまった。

「近年、打ち続く凶作之上、天保五年四月八日、富士山より大水押し下り御祠堂田、多分に流失仕り、修覆も行き届かず、誠に以て難渋仕り候」(「口上覚」より一部抜粋)

凶作がつづき、天保五(一八三四)年に起こった大水により田畑は流失し修復もおぼつかない状況となった。そこで、大石寺は奉行所に泣きついたのだ。

「併せて御威光を以て是迄利銀不納も御座無く候えども、当時之世柄にては、萬一滞り之儀、御座候節は、愁訴奉るべき儀も、御座有るべき候間、其の節は何卒格別之御慈悲を以て、御取り立て成し下し置かれ候らはば、有り難き仕合せと存じ奉り候」(同)

大石寺の言い分は、これまで幕府権力の「御威光」をバックに金貸し業を営んできたので、農民などに貸し付けた「利銀」の滞納もなかったというものである。

しかし、相次ぐ凶作や大水などで農民などへの貸付金の返済が心配になってきた。そこで、農民などへ貸し付けた金の返済が「萬一滞り之儀」の場合は、大石寺が「愁訴」するので「其の節は何卒格別之御慈悲を以て」農民より貸付金を取り立てて欲しいと嘆願しているのである。

大石寺は大聖人の法を説くでもなく、幕府からの下賜金や信徒からの御供養を、貧しい庶民へ貸し付け、人々の膏血をしぼりとっていたのだ。

信徒からの御供養は、御本尊様に対してなされたものである。その信徒からの御供養を民衆から収奪するための元資とし、民に貸し付け金儲けをし私腹を肥やす。挙句に金貸しがうまくいかなくなれば代官所に「御慈悲」を請い、呻吟する民からの強権的取り立てを要請する。

苦悩に喘ぐ民を救うため、身命を懸けて権力に立ち向かい立正安国を願った日蓮大聖人の精神が、この大石寺のどこにあるだろうか。

「此の国は謗法の土なれば守護の善神は法味にうへて社をすて天に上り給へば社には悪鬼入りかはりて多くの人を導く、仏陀化をやめて寂光土へ帰り給へば堂塔・寺社は徒に魔縁の栖と成りぬ、国の費・民の歎きにて・いらかを並べたる計りなり」(新池御書)

御塔橋を渡った杉木立に囲まれた高台に建っている五重塔は、高利に喘ぐ民の歎きによって建立された建造物だったのである。折伏弘教の精神を忘れ去り再建されたこの五重塔が、宗門が繁栄の依拠としていた幕府権力の崩壊とともにさびれていったのは故なきことではない。

明治の時代に入り、大石寺の悪比丘たちは五重塔の銅瓦を売り飛ばし、その金で酒樽を並べ飲み食いさえした。その荒れ果てた五重塔を、日寛上人の願いどおりに折伏弘教の証しとして、信徒の赤誠によって修復したのは創価学会戸田第二代会長である(第234号詳述)。

大聖人の法義を曲げ、権力におもねった大石寺。布教もせず貧しき人々に信徒の御供養を貸し付け、その金で堂塔伽藍を造り飾り立て、あまつさえ貸し金の取り立てまで権力に願い出た大石寺。

信徒の御供養や民の歎きを食い物にして、享楽にふけっても何ら恥じることがない大石寺。大石寺もまた、法滅の時である末法の埒外ではなかったのだ。大石寺に日蓮大聖人の正法正義を呼び戻したのは、創価学会の出現による。

いかに「法灯連綿七百年」「富士の清流」などという美辞麗句でみずからを装い、信徒をだまそうとしても、史実を隠し通すことはできない。この汚辱にまみれた日蓮正宗を浄化し、大聖人直結の信心で世界の民衆に大聖人の真実の教えを弘めてきたのは、ほかならぬ創価学会なのである。

十六章 宝珠亡失 終

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