報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十五章 秘事ひじ 露見ろけん

地涌オリジナル風ロゴ

第503号

発行日:1992年9月15日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日蓮大聖人は全民衆に血脈を継がせようとし難に逢われた
この御本仏の御生涯を拝せば「血脈相承」は大衆のものだ

これまで三回にわたり、日顕が全国教師講習会(八月二十八日)で「血脈相承」について話した内容を吟味してきた。そこで、この稿を終わるにあたり、「血脈相承」に関する考えを、しっかり整理しておこうと思う。

せっかく、日顕が公の場で「血脈相承」論議を饒舌に展開し、ともすればタブー視されてきた「血脈相承」を、“法主”自身が泥まみれにして地上に引き降ろしてくれたのだ。

今後、日顕宗は「血脈の問題は唯授一人の御法主上人猊下のみよく論ずることができるものであり、宗の内外を問わず、軽々に議論すべきではない」などと、決して言わないことだ。

これを機に、大いに「血脈」あるいは「血脈相承」論議が宗内に沸騰し、「血脈」が身近なものとなることを望むものである。

ところで、日顕の話す「血脈相承」を突きつめると、次期大石寺貫首の指名ということになる。というのは、日顕が「血脈相承」あるいは「血脈」という言葉を、大石寺貫首の交替に結びつけて論じているからだ。

日顕が大石寺貫首の交替を「血脈」と結びつける目的は、貫首(“法主”)の内証が「血脈」それ自体であるとすることにより、貫首の地位にある自分を神秘化しようとするところにある。

日顕は自己を神秘化することにより、自分への絶対服従を宗内の僧俗に強いようとする。その日顕に追従し、貫首への“信伏随従”が日蓮正宗の信心のあり方であると主張するニセ者の坊主もたくさんいる。

今後、貫首の交替に「血脈相承」といった語を用いるのはよしたほうがいいだろう。「血脈相承」に関する日顕の発言内容を抽出してみると、言っていることは次期貫首の指名であり、それにともなう貫首の交替である。

貫首の交替により、戒壇の大御本尊様を厳護する責任者の交替がおこなわれ、法義を後世に間違いなく伝えるために、重要法義についての再確認などがおこなわれるのは当然のことである。

法義を間違いなく伝承する作業の一環として、“相伝書”などが授受されることがあったとしても、そこに特段の神秘性を見いだす必要もない。それらの作業は、日蓮大聖人の仏法を求め弘め伝える者たちが、その行為として、ふだんから精魂を尽くしておこなっていくべきことである。

まして、法義の伝承という視点から見れば、その行為は日常の仏道修行の中でこそなされるべきである。その意味からいえば、創価学会の日々の活動の中で御書の研鑚がおこなわれ、重書といわれる“相伝書”まで教学研鑚に励んでいる事実を、もう一度、再認識する必要がある。

日顕が、「血脈相承」あるいは「唯授一人血脈相承」といったことを、大石寺貫首の交替と結びつけて言っていることは、日蓮大聖人の説かれた「血脈」「血脈相承」の元意を損なう作用ももたらしていると見受けられる。

ことに、それが大石寺貫首の神秘化を手助け、法主の独裁の武器となって、結果的に法義を曲げる大きな原因となっているとなれば、なにをか況やである。

御本仏・日蓮大聖人は、「血脈相承」について次のように仰せになっている。

「過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり」(生死一大事血脈抄)

【通解】過去・現在・未来と三世の生死において、法華経から離れないことを法華経の血脈相承というのである。

これが、本来の「血脈相承」である。それなのに、日顕は、この日蓮大聖人がお説きになっている「血脈相承」すらも「枝葉」であると、ひと言のもとで片づける。御本仏が断言されていることも、日顕は簡単に覆すのだ。

「創価学会は大聖人からの信心の血脈を受け継いだ主流である(と、創価学会はいうが、それは)信心の血脈。法体の血脈を除いて信心の血脈だけを論じている。枝葉のところにとらわれているわけですね」

日顕は、このように「血脈」を「信心の血脈」と「法体の血脈」にわけて述べているのだが、これは、御本仏・日蓮大聖人の仰せになっている「血脈」を複雑にし、本質を隠そうとしているだけである。

日有上人の「化儀抄」を総本山第五十九世日亨上人が、次のように註解されているのを心に留めるべきだ。

「信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通ふ有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云ふが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにあらず・攪乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし、爰に強いて絶えずと云はゞ其は濁りたる乱れたる血脈法水なれば・猶仏法断絶なり、信心の動かざる所には・幾世を経とも正しき血脈系統を有し仏法の血液活溌に運行す、其は世間にて云へば子は親の心に違はす祖先の定めたる家憲を乱さぬが・其家の血統正しきが如く・仏法には師匠の意中に違はぬが血脈の正しき法水の清らかなるものなり、仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違へぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり此色心の転換も只偏に淳信篤行の要訣にあり、若し此の要訣を遵奉せずして・不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違ふ時は・法水の通路徒らに壅塞せられて我等元の儘の粗凡夫の色心なれば・即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり、悲しむべき事どもなり」(「有師化儀抄註解」『富士宗学要集』第一巻所収)

この純真なる信心により、御本仏日蓮大聖人の「血脈」が、僧俗の別なく流れるのである。

御本仏日蓮大聖人曰く。

「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」(生死一大事血脈抄)

【通解】このように、十界の当体が妙法蓮華経であるから、仏界の象徴である久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経すなわち妙法蓮華経と我ら九界の衆生の三は全く差別がないと信解して、妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。このことが日蓮の弟子檀那等の肝要である。法華経を持つとは、このことをいうのである。

仏(日蓮大聖人)と法(御本尊)と衆生とに差別がないと信解し、題目を唱えることが「生死一大事の血脈」なのである。

日顕一派は、「血脈」を“法主”の独占物としたいところだろうが、日蓮大聖人の仰せになっている「血脈」の意義は正反対なのだ。仏も法も衆生も差別がないという絶対的平等観に裏づけられた「血脈」という言葉が、差別の用語として使われる。ここに聖職者たちの底知れない悪魔性を認めざるを得ない。

日顕に言わせれば、御本仏の示された「生死一大事の血脈」も「枝葉」ということになる。「弟子檀那等の肝要なり」と明記されていることも「枝葉」となるのだから始末が悪い。

この日顕の増長を育んでいるのは、貫首の神秘化をはかり、出家の優越性の下に信徒を支配し、収奪してきた日蓮正宗七百年の歴史の暗部である。

日蓮大聖人は御在世中の種々の難についても、

「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに・還つて日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す」(同)

【通解】日蓮は日本国の一切衆生に法華経を信じさせ、仏に成るべき血脈を継がせようとしているのに、かえって日蓮を種々の難に値わせ、あげくのはてはこの佐渡にまで流した。

と仰せになっている。諸難は日蓮大聖人の大慈大悲の惹起するところであった。御在世当時より今日に至るまでの衆生が日蓮大聖人の血脈を相承できるのは、御本仏・日蓮大聖人の難をものともしない大慈大悲あればこそである。

御本仏・日蓮大聖人が、一切衆生に血脈を継がせようとして、そのために種々の難にあい、死罪に等しい流罪にまでなったと仰せになっている。それなのに、「唯授一人」とはなにごとか。「血脈相承」は、御本仏・日蓮大聖人の御金言によれば、大石寺貫首の独占物ではない。

まして、「血脈」は時代から時代へと伝えられるにあたり、貫首一人から貫首一人への相承の形態をとり、まるで細管を流れるように伝えられるものではない。御本仏・日蓮大聖人仰せのように、一切衆生に血脈を継がせるために広宣流布の戦いにいそしむのが、末弟たる者の務めである。

「本因妙抄」の主題に「法華本門宗血脈相承事」とある。同抄の観心は、日蓮大聖人こそ久遠元初自受用報身如来、末法の御本仏と知ることであり、南無妙法蓮華経こそ諸仏成道の根源であると知ることである。「本因妙抄」とともに血脈二巻とされる「百六箇抄」も同義である。

仏意仏勅の創価学会出現によって、座談会の日ともなれば、全世界の数十万カ所の座談会会場で、「法華本門宗血脈相承事」という秘伝書の観心部分が話される。このことは、全世界で御本仏・日蓮大聖人と血脈を継がせようという「血脈相承」がおこなわれているといっていい。

「血脈相承」を受け、御本仏・日蓮大聖人を求め唱題するなら、来世も御本仏・日蓮大聖人に縁し、逢い難き南無妙法蓮華経に逢い奉ることができるのである。

南無妙法蓮華経を唱える弟子檀那は、三世にわたり寸時も南無妙法蓮華経と離れることがない。「血脈相承」の本義をたどれば、そこには実にありがたい御本仏の仰せがある。

日蓮大聖人が「生死一大事血脈抄」で示された「血脈相承」の故に、仏意仏勅の団体である創価学会が、いま現実に広宣流布の戦いを世界に展開しうるのである。

「只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ、火は焼照を以て行と為し・水は垢穢を浄るを以て行と為し・風は塵埃を払ふを以て行と為し・又人畜草木の為に魂となるを以て行と為し・大地は草木を生ずるを以て行と為し・天は潤すを以て行と為す・妙法蓮華経の五字も又是くの如し・本化地涌の利益是なり、上行菩薩・末法今の時此の法門を弘めんが為に御出現之れ有るべき由・経文には見え候へども如何が候やらん、上行菩薩出現すとやせん・出現せずとやせん、日蓮先ず粗弘め候なり」(同)

【通解】南無妙法蓮華経、釈迦多宝上行菩薩血脈相承と唱え、修行されるがよい。火は物を焼き、かつ照らすことをもってその働きとなし、水は垢や穢を清めることをもってその働きとなし、風は塵や埃を払うことをもってその働きとなし、また人畜や草木のために魂となることをもってその働きとなし、大地は草木を生ずることをもってその働きとなし、天は万物を潤すことをもってその働きとする。妙法蓮華経の五字もまた、この地、水、火、風、空の五大の働きをことごとく具えているのである。本化地涌の菩薩の利益がこれである。

さて、上行菩薩が末法の今時、この法華経を弘めるため御出現されることが経文に見えているが、どうであろうか。上行菩薩が出現されているにせよ、されていないにせよ、日蓮はその先駆けとして、上行菩薩の法門をほぼ弘めているのである。

現在の広宣流布の戦いは、日蓮大聖人御在世の戦いに直結するものである。世界の民衆に対し、日蓮大聖人の血脈を継がせようと難を恐れず戦う創価学会こそ、御本仏の血脈を相承するものといえる。

戸田城聖第二代会長は、日蓮大聖人宗旨建立七百年にあたる昭和二十七年、「七百年の意義」と題する論文を著している。

「かならずやこのとき、大聖人様の命を受けたる折伏の大闘士があらわれねばならぬと、予は断ずるのである。

この折伏の大闘士こそ、久遠元初においては父子一体の自受用身であり、中間には霊鷲山会において上行菩薩に扈従して、主従の縁を結び、近くは大聖人様御在世のとき、深き師弟の契りを結びし御方であるにちがいない。この御方こそ大聖人様の予言を身をもって行じ、主師親の三徳の御本仏を妄語の仏ならしめずと固く誓って、不自惜身命の行を励むにちがいないと固く確信するものである。

わが創価学会は、うれしくも、このとき、誕生したのである。広宣流布の大菩薩ご出現に間に合うとやせむ、間に合わぬとやせむ、ただただ宗祖日蓮大聖人様、御開山日興上人様の御命にまかせ、身命を捨ててあらあら広宣流布なして、大菩薩のおほめにあずかろうとするものである」(『戸田城聖全集』第三巻所収「七百年の意義」より一部抜粋)」

これが、創価学会の大確信である。いまが、地涌の菩薩台頭の時なのだ。

日蓮大聖人の御在世当時は、大聖人を末法の御本仏と仰ぐことができたのは六老僧の中で日興上人お一人であった。以来七百年、創価学会出現までは、大聖人を菩薩と軽しめる身延日蓮宗が大勢を占め、富士門流は御本仏の教えが世界に広宣流布する日を待ちつづけてきたのである。

ところが、創価学会代々会長の死身弘法の戦いにより時は大きく開け、日蓮大聖人を久遠元初の自受用報身如来(御本仏)と仰ぐ大白法が全世界に弘がっているのだ。

富士一跡門徒存知の事に曰く。

「是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉る可し」

【通解】ただひたすら、広宣流布の時に、正法を受持した本化国主(本化の菩薩・上行菩薩を棟梁とする地涌の菩薩)からお尋ねがある時まで、深く敬い尊重していくべきである。

仏子一人ひとりは、正しき信心により御本仏・日蓮大聖人と真実の血脈をつないで直結している。御本仏と直結することが、「血脈相承」の本義である。正しき信心は、正しき師を中核にした仏意仏勅の団体の中で育まれる。

南無妙法蓮華経を唱える地涌の菩薩が雲集する創価学会の出現は、日興上人が遺弟に託された時の到来を示すものである。多くの仏子が御本仏・日蓮大聖人の血脈を相承しているこの世の現実が、いかにも尊い。

十五章 秘事露見 終

次の章へ 

家族友人葬のパイオニア報恩社