報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十五章 秘事ひじ 露見ろけん

地涌オリジナル風ロゴ

第502号

発行日:1992年9月14日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日顕が宗門の「血脈相承」について饒舌の限りを尽くし
これまで神秘化されていた「血脈相承」のベールを剥いだ

前号につづき、全国教師講習会(八月二十八日、大石寺)で日顕が話した「血脈相承」について吟味する。

(3)日顕が法主無謬論を否定した。

日顕宗の僧俗は、“法主”は間違いを犯さないと言う。なぜなら、不思議な甚深の法門を「血脈相承」された“法主”は、「現代における大聖人様」であり、その“法主”に「信伏随従」することが日蓮正宗の信心であるとするからだ。

したがって、「信伏随従」する対象が間違いを犯すような人間では困るわけで、だから、絶対に“法主”は間違いを犯さないと主張する。

ところがどうだろう、“法主”である日顕が“法主”も法義に背くと明言したのである。やはり、“法主”に「信伏随従」することは間違ったことなのだ。信伏随従は、御本仏・日蓮大聖人の絶対なる教え(法義)に対してなされなければならない。

「貫首が己義を構えたという場合には、皆のほうが用いてはならない。これも私はそういう在り方が、あるいはあるかと思います。

まー、私が南無阿弥陀仏をこれから一緒に唱えようって言ったら皆さんどうする? 絶対、用いない、そんなことは、皆さん方がね。うん。そりゃそうだ。それじゃー、それで放逐するかどうか。まー、南無阿弥陀仏と私が唱えだしたら放逐するだろうね。絶対に放逐しなきゃいかんよ! そんなことしたら。ねっ」

これは“法主”が南無阿弥陀仏と唱えるような法義違背をする可能性を前提にした論である。すなわち“法主”も謗法を犯す可能性もあるということを、日顕みずからが示したことになる。

日顕は、その可能性を前提にして、もし“法主”が謗法を犯した場合、「絶対に放逐しなきゃいかんよ!」と断言した。

この日顕の話は、日興上人の教えをもとにしたものである。第六世日時上人は、日興上人の教えとして次のような話を伝えられている。

「仰セに云く日興上人の常の御利口に仰セられけりとなん、予が老耄して念佛など申さば相構エて諫むべきなり、其レも叶はずんば捨つべきなり」(『富士宗学要集』昭和十一年刊)

日興上人の教えどおり、邪義を構えている日顕を宗外に放り出さなければならない。ただし日顕は、

「まっ、みなさんがさっき言ったように、日顕退座せよと言って、私がよく考えますから、ねっ。それでやはり退座しようと思ったら退座します。しかし、この場合は退座することが、法のために絶対に誤りであるということになれば、例え『衆議為りと雖も貫首之を摧く可き事』という、あの日興上人の御遺命、言葉をですね、法主として断固として護らなきゃならないこともあり得るわけであります。そのへんは、その時の状況と法主の境涯によるわけであります」

とも発言した。どうやら日顕には、自分から退座する気持ちは、いまのところまったくないようだ。

日顕はまた、「血脈相承の儀式」を経ず、「血脈相承を受けた」ことを示唆した。

「しかしこの、やはりあの者に譲るという場合、重大な意味の場合はね、やはり凡人凡夫の形だけでみて、あれがないから違うとか、この形式がないから違うとか、そんなようなものじゃないね、やはり深い意味は、血脈とかそういう意味においても当然、存在する意味があると思うんですね。

私の時も、血脈相承があったとかなかったとか、確かに言われた点もあったし、いまそのことを弁護しているという意味は決してないんですよ。そういうことじゃないけれども、いろいろな形だけのところを見てね、あれがあったなかったというその短絡的な考え方が、実は違うんだと。

もっと、かく厳然と大聖人様からの御仏智による御指南、相承の元意はですね、厳然と伝わるのであるということをね、今はとくに血脈という問題が誤って伝えられている中において申し上げておきたいと思います」

御本仏・日蓮大聖人の教法は、御書を通し厳然と現代に伝えられている。したがって、“法主”から“法主”への生命次元での特別な神秘的な相伝がなされているという考えは過ちである。現代においては、第五十九世日亨上人によって門外不出の“相伝書”も公開され、『富士宗学要集』(第一巻)に収録されている。

これは、日亨上人が広宣流布の時がきたと判断され、深秘とされた“相伝書”を、より大衆的なものとするために公開されたものであろう。地涌の菩薩が彭湃と涌きおこる時においては、日蓮大聖人の仏法は一部僧侶のものではなく、大衆のものとなる必然があったと見るべきだ。

本来、秘密とされた「御義口伝」「百六箇抄」「本因妙抄」などの“相伝書”が、「血脈相承」(この場合の意味は猊座の禅譲)に付帯して伝えられてきたことは想像に難くない。

しかし、その法義の伝承も、日常的な教学研鑚の中で恒常的になされてきていると考えるべきだ。そうであるならば、“法主”の交替時には、通常なら重要な法義の再確認がなされたのではないだろうか。

「相承箱」が引き継がれることなどは、猊座の禅譲にともない、後世に法義が伝えられていくことを象徴的に示すものであり、儀式の一環とみなされる。その中身は、“相伝書”などである。

第五十七世日正上人から第五十八世日柱上人への相承にあたり、「相承箱」の中身である“相伝書”を盗んだ者がいたが、この事件により「相承箱」の中身が“相伝書”であることが判明した。

“相伝書”とは、何回も記しているが、「御義口伝」「百六箇抄」「本因妙抄」「産湯相承書」などで、現在では公開されているものばかりである。

このことは、日寛上人の観心本尊抄文段にも明記されている。

「故に当抄に於て重々の相伝あり。所謂三種九部の法華経、二百二十九条の口伝、種脱一百六箇の本迹、三大章疏七面七重口決、台当両家二十四番の勝劣、摩訶止観十重顕観の相伝、四重の興廃、三重の口伝、宗教の五箇、宗旨の三箇、文上文底、本地垂迹、自行化他、形貎種脱、判摂名字、応仏昇進、久遠元初、名同体異、名異体同、事理の三千、観心教相、本尊七箇の口決、三重の相伝、筆法の大事、明星直見の伝受、甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり」(『日寛上人文段集』聖教新聞社刊)

「本尊七箇の口決」「筆法の大事」などは、「御本尊七箇相承」に該当する。

しかし、こうした日寛上人当時の“相伝書”も第五十九世日亨上人の時代には不明確なものもあったようだ。日亨上人は登座してより、第五十七世日正上人から第五十八世日柱上人への相承の際、その相承を一時預かった在家の者に、その内容をわざわざ聞き取られている(第354号参照)。

さて、先にあげた日顕の話で着目すべきは、「血脈相承」は儀式なくしてもおこなわれるということである。これまでの日顕の「血脈相承」に関する話から総合的に判断すれば、「血脈相承」は「後継指名」と結論すべきである。

もちろん、この「後継指名」には、法義の伝承と戒壇の大御本尊様を広宣流布のその日まで厳護する責任者としての責務が付帯する。だが、これは「血脈相承」を受けた貫首一人に委ねられたものではなく、和合僧団(僧伽)が本来的におこなわなければならない使命である。

それはさておき、日達上人から日顕への「血脈相承」の儀式は誰も見ていないし、誰も知らない。日昇上人から日淳上人、日淳上人から日達上人への「血脈相承」は厳粛なる儀式をもっておこなわれた。

この儀式は「略式の相承」と名づけられ、重役、庶務部長、教学部長、財務部長、理事といった役僧が配置され、宗内公知の上で営まれた。これと同じような儀式が、日顕のときにおこなわれた事実はない。

日顕が「血脈相承」は形式ではないと言っているのは、この事情による。日顕は、日達上人より「血脈相承」を受けたのは、昭和五十三年四月十五日と年月日を特定している。

ところがこの日、公式的に「血脈相承」の儀式はおこなわれていない。日顕一人が「大坊大奥」で日達上人より「血脈相承」を受けたと述べているだけだ。

日顕の発言を詳細に吟味することにより、「血脈相承」の実体が判明した。日顕の言によれば、「次はお前だ」との「指名」こそが、「血脈相承」の核心部分なのである。

日顕の饒舌によって、「血脈相承」が大衆の俎上に乗ったともいえる。いまこそ「血脈相承」の本義をしっかりと見据えるべきだ。

「血脈相承」という言葉に誑かされ、“法主”に宗教上の神秘的な力用があるなどと幻想を抱いてはならない。

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