報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十五章 秘事ひじ 露見ろけん

地涌オリジナル風ロゴ

第500号

発行日:1992年9月12日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

“法主”のあり方は絶対的でなく時代的背景によって変わる
“信伏随従”すべきは“法主”ではなく“法華経”である

日顕は、大石寺でおこなわれた全国教師講習会の「講義」(八月二十八日)において、「血脈相承」について話をした。

日蓮正宗“法主”(もとは大石寺“貫首”、近代になって“法主”を称する)が、公式に「血脈相承」について立ち入った話をすることは珍しいことである。

現在、「血脈相承」について、これまでにない関心が、日蓮正宗僧侶の中で高まっている。日顕のイメージしている血脈観というものがどういうものであるかを、ここで整理しておくことは、今後「血脈相承」を考えていくうえで大事なことである。

(1)日顕は兒貫首を認めた。

日蓮正宗の第九世日有上人は十八歳、第十二世日鎮上人は十四歳、第十三世日院上人は十歳、第十四世日主上人は十九歳で相承を受けている(日蓮正宗富士学林発行『富士年表』による)。

この史実について日顕は、

「兒貫首ということがおこなわれた時代があるんです。時代的背景なんです。年寄りはいくらでもいたわけだ。けれども、その年寄りではなく、わざわざ次の貫首はこれであると兒貫首を決める、そういう一つの、その社会情勢というとおかしいがね、宗門伝承の在り方があったわけです」

と述べた。日顕は十歳の童子が「血脈相承」を受けた時代があったことを公式に認めた(ただし、日亨上人に院師の三十二歳登座説あり)。

十歳といえば小学校四年生である。この小学校四年生の法主が存在した史実を思い合わせると、日顕宗の言う法主への“信伏随従”それ自体が“信心”だなどという主張が、まったく意味がないことは誰の眼にも明らかだ。

つまり、日顕宗の強制する“法主”への“信伏随従”路線は、兒貫首の存在自体によって否定されることになる。

それでは、日蓮正宗僧俗が“信伏随従”するべき対象はなんだろうか。

御義口伝「常不軽品三十箇の大事 第十聞其所説皆信伏随從の事」に云く。

「信とは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり」

【通解】信伏随従の信とは無疑曰信(疑いなきを信と曰う)の信であり、伏とは法華経に帰伏することである。随とは心を法華経即御本尊に移すことであり、従とは身を御本尊に移すことである。すなわち、色心ともに御本尊に従い、実践することを随従という。所詮、いま、日蓮大聖人およびその門下として南無妙法蓮華経と唱える者が、末法の不軽菩薩である。

この御文から、“信伏随従”すべきは仏の教えであることが、明明白白である。成仏を志し、修行の道程にある“法主”(大石寺貫首)に“信伏随従”することが、そのまま“信心”であるといった考えは過ちである。

日顕は、兒貫首が「時代的背景」によりおこなわれたと述べている。日顕は、その「時代的背景」がどんなものであるかについては明らかにしなかった。したがって、その「時代的背景」を云々することは避ける。

しかし、ここで「時代的背景」により「血脈相承」のあり方、“法主”のあり方が違ってくる(あるいは違ってもよい)ということを、日顕が公式に認めたことは特筆に値する。

この兒貫首が「血脈相承」を受けた十歳のときは、どのような「血脈相承」の実体があったのかを考える必要がある。登座したときに、「血脈相承」としてなんらかの内証が伝えられたと考えるのは、あまりに道理に反する。

十歳の稚児に甚深の法門など伝えようもないだろう。それでは、兒貫首が登座したときの「血脈相承」の実体はなんなのだろうか。

この十歳の童子が次期貫首であるという前貫首の「指名」のみが、「血脈相承」の実体としてあったと理解すべきだ。すなわち、兒貫首はまず次期貫首としての「指名」を受け、その後、法門の教育を受けたと思われる。

「血脈相承」を受けた時点で、日蓮大聖人の御内証が憑依するといった日顕宗流の考え方でいけば、十歳の兒貫首も「血脈相承」を受けた途端、御本尊を書写して見せるといった不可思議な境界を示しても当たり前ということになる。

しかし、当然のことながら、「血脈相承」を受けたということで、そのような技能が兒貫首に必然的に備わるものでもない。兒貫首にしても、それなりの歳にならなければ、まともに御本尊書写はできなかったにちがいない。

御本尊書写のあり方も、次期貫首の指名のあり方も、和合僧団の決まりごととしておこなわれてきたと考えるのが常識的な判断だろう。日顕の公認した兒貫首の存在は、「血脈相承」のベールを剥がすのに充分な史実であるといっていい。

日顕は、兒貫首の存在を認めると同時に、「先輩からの話を聞きながら、この兒が成長していって真に法を正しく受けるという、その介添え人を含めてのあり方も存するのです」と述べた。

これは、「血脈相承」が複数の人間、すなわち集団によってなされたことを示す。この史実も大変、興味深い「血脈相承」の実体を示している。

十代の稚児は、当然のことながら甚深の法門を理解できない。『富士年表』によれば、日院上人などは「血脈相承」を受けたのが十歳なのだから、読み書きがやっとといったところではあるまいか。

すると、日顕の言うように、この兒貫首を教育するグループ(介添え人)が存在する。その教育グループが、十数年にわたり教学、儀式を教えたのだろう。つまり、秘密とされる「血脈相承」の内容は秘密ではなく、兒貫首以外の複数の者が共有した知識だったのだ。

もちろん、この場合の「血脈相承」は、貫首から秘密めいた形で伝わったものではない。兒貫首を教育する教育集団が長年にわたり共有し、“法主”(貫首)に伝えたものであった。

これは、一般的に考えるとどういうことになるかといえば、兒貫首に教育集団が施した実体は、大石寺教学(興門派教学)であったと理解するのが自然である。

日顕は、兒貫首に触れ、「みんなが支えて、そしてその血脈を伝持していくというその宗団情勢があったわけだね」と結論している。「血脈の伝持」(血脈相承)が宗派全体のチーム力でなされたと、日顕は言明している。

「血脈相承」が“法主”(貫首)から“法主”(貫首)へ、七百年の間、実に神秘的に甚深の法門が伝えられたとする幻想は、この日顕の話が打ち砕いたとみるべきだ。「血脈相承」を受けた当人の発言だけに否定はむずかしいだろう。

「みんなが支えて血脈を伝持していく」という日顕の考えによれば、大衆により血脈が伝持されるということもありうる。“法主”から“法主”にしか「血脈」が流れないとする現在の日顕宗流の主張は、“法主”により否定されたことになる。

史実と日顕の話から結論できることは、“法主”(貫首)のあり方は、宗団(宗派)の決まりごととして、時代相応に定めればよいということである。

この相対的な存在である貫首に、“信伏随従”することが信心であると主張することは、移ろう波影に帰命するようなもの。正しくは絶対的に日蓮大聖人の教法に“信伏随従”すべきである。

日顕宗の諸君は、十歳の子供に“信伏随従”することが、末法の御本仏が説かれた全人類救済の大法であるかどうか、よく考えることだ。

日蓮大聖人曰く。

「仏法と申すは道理なり」(四条金吾殿御返事)

「仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり」(如説修行抄)

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