第801号
発行日:1994年11月11日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
暴力をふるい虫ケラのように扱う“師匠”に愛想が尽きたか
下山処分を願い故意に悪事を働く風潮が大坊に蔓延している
「蓬、麻の中に生ずれば扶けずして直し」とは、荀子の有名な言葉である。
とかく曲がりやすい蓬は、麻畑の中ではまっすぐ伸びる麻に支えられて、みずからもまっすぐ伸びるようになる。つまり、善良な人々の中や、よい環境に恵まれれば、特別に教育をしなくても人は正しく成長していくものだ。
しかし、大石寺の所化たちはどうであろうか。さしずめ“蓬に交じる麻”といったところか。人生の中でもっとも多感な中学生、高校生のときに、求めずして日顕という異常人格者を師と仰がざるを得ず、まして先輩の僧や所化らの陰湿なイジメや暴力がはびこる荒廃した大坊の中では、健全なる人格形成など望むべくもない。
本来まっすぐ伸びようとする麻も、無数の曲がった蓬に交じってしまい、自然に曲がってしまっている。
最近、またもや大石寺の所化の不祥事が発覚した。去る十月末のこと、大石寺大坊内で所化ら五人が飲酒、喫煙をしているのが見つかった。大坊内で堂々と飲酒、喫煙をしていた所化たちは、いずれも高校二年生。塔中のある坊、福岡方面、大阪方面、兵庫方面、群馬方面の住職の息子たちであった。
二十八日の夕方には、内事部面談室に両親たちが呼び出され、それぞれ下山処分を受けた。この下山処分を受けた五人のうちの一人は、弟に反創価学会ライターをもつ住職の息子であった。
伝えられるところによれば、この五人の高校生の所化たちは、親元に帰りたいがために大坊で酒を飲み、タバコを吸ったということだ。
また、以前に本紙『地涌』で報じた、万引きをし自転車泥棒をして警察に補導され、宗門から下山処分を受けた高校一年生の所化たち三人は、富士宮市内の要行寺(住職・能勢勇道)から市内の高校に通っていたが、このほど、親元の高校の編入試験を受け、富士宮の高校を十月末で中途退学した。
このように、いま大石寺の大坊では、些細な悪事を働いて下山処分を受け、親元に帰りたいという風潮が蔓延している。
これまで宗門は、悪事を働いた所化を、なんらの教導もせず、ただ一方的に下山処分にしてきた。それをよいことに、所化たちには、親元に帰りたいがために故意に悪事を働くものが多いようである。
少年得度で出家した大半の所化たちは、出家前に「僧」の使命も教えられず、ただ親の命ずるままに信心の決意もなく僧道に入った。そのような彼らを待ち受けていたものは、日顕や仲居・駒井専道をはじめとする、先輩の僧や所化の異常なまでの差別と暴力が渦巻く大坊の生活であった。
しかも、狂乱した日顕によって「C作戦」が発動された以後、新しい末寺はいっこうに造られず、かつ、親たちの末寺も日に日に経済的に疲弊している。大坊での理不尽な暴力に何年も耐え、やっと教師になったところでなんの見返りもないのだ。所化たちが親元に帰りたい、果ては還俗したいと思うのも当然の帰結であろう。
この元凶は、すべて日顕にあることは言うまでもない。“法主”であり“師匠”たる日顕が広宣流布を忘れ、ただ己の欲望を貪っているだけだからだ。
このような男が、所化に「僧」としての使命感を与えられるわけがなく、ましてや、所化に豊かな人格を形成させる教導などできるはずがない。日顕は、ただ自分の感情にまかせて所化に暴力をふるい、虫ケラのように扱うだけである。
日顕宗を離脱した正信の僧侶らである日蓮正宗改革同盟が、最近発行した『告発の書 大石寺離山』(第三文明社発行)の中に、日顕の所化教育を端的に示す次のような記述がある。
「ある丑寅勤行の最中に、所化の一人が、つい居眠りをしたのです。それを目ざとく見つけた日顕は、いきなり中啓でひっぱたきはじめたのです。しかも、ことは、それだけでは済みません。丑寅勤行は、所化小僧の場合、当番制です。終わると、仏前にあがっている饅頭とか、お菓子をもらえるので、中学生の所化たちは、それを食べてから寝るわけです。
その日も、いつも通り、丑寅勤行に参加した所化たちが、退場する日顕の伴をして、大奥の入口まで行きました。その時、日顕は、所化の列の中に、さっき居眠りした者を見つけるや『キサマ!』と怒鳴るなり、その所化に近づいていくのです。
『バシッ! バシッ! バシッ!』。中啓がバラバラになるまで殴りつける日顕の形相は、それこそ『鬼』そのものでした。他の所化たちは、両脇によけ、黙って、その光景を見ているだけです。殴られている所化は、顔を合掌した手でかばいながら、『申し訳ございません』と、イモ虫のようにうずくまるだけでした」(日蓮正宗改革同盟著『告発の書 大石寺離山』)
これでは、旧日本軍の軍隊教育よりひどい。いくら元・海軍士官とはいえ、“弟子”を「中啓がバラバラになるまで殴りつける」“師匠”を、日蓮大聖人の仏法を根幹として教導をほどこす者といえようか。
しかも、世界広宣流布を祈念する丑寅勤行の際の出来事だけに、日顕は、まさに「鬼」以外のなにものでもない。
日蓮大聖人曰く。
「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間・仏法の道理によるべきなり」(曾谷殿御返事)