報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十一章 仏子ぶっし反撃はんげき

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第711号

発行日:1993年11月28日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

早瀬義寛などの日顕宗の売僧が“慈悲”を口にするのは
信徒から“供養”をせしめようとの卑しい下心を隠すため

十一月二十六日(金)の午後一時三十分から三時四十分まで、大石寺大講堂で日顕宗全国教師指導会がおこなわれた。教師指導会は、今年(平成五年)になって三回目である。

この教師指導会全体を通しての雰囲気は、きわめて重いものがあり、話に対する反応も鈍く、拍手もまばらだった。指導会の内容は次のとおり。

一、挨拶    総監・藤本日潤

二、創価学会員に対する今後の対応 

        庶務部長・早瀬義寛

三、「ニセ本尊」破折 

        教学部長・大村寿顕

四、末寺活動報告          

        岩手・本寿寺 大沼雄泰

        福岡・本佛寺 譯沢洋道

        山形・正命寺 渡邉哲照

五、挨拶    日顕

まず、指導会冒頭の挨拶に立った宗務総監の藤本日潤は、

「宗門は新たなる広宣流布の建設にむかって、その土台づくり、基礎づくりの時代を迎えております。土台とか基礎とかいうものは目に見えない隠れた部分でありますが、将来において再び今日のような事態を招かないために、その地味な目に見えない土台の部分を、しっかりと構築しておかなければならないのであります」

と、現在の日顕宗の活動が目に見えるような成果をあげていないことを率直に認めながらも、無内容な活動が将来においてなんらかの意味を持つかのように錯覚させようと口舌を弄した。

それは、まるで「撤退」を「転進」と偽った第二次世界大戦中の大本営発表そのものである。日顕の「C作戦」の大失敗により、宗門を支える強信な信徒すなわち創価学会員という「土台」を失った現状に目をつむり、口角泡を飛ばして大言壮語しているだけにすぎない。

大石寺の堂塔伽藍の規模と比較して、その信徒数は実にアンバランスである。日顕宗は、宗教団体としての土台である信徒を失った他の既成仏教の多くと同様、伽藍仏教に堕してしまったのだ。

その現実を糊塗しようと、総監・藤本はつまらぬ弁を弄しているのである。日顕宗に「将来」などはない。

また藤本は、宗内の矛盾に目を向けさせまいとして、さかんに危機意識をあおった。

「いま、政治権力と直接結びついた創価学会は、今後、この政治権力を利用して、あらゆる陰険な策謀をもって本宗に圧力を加えてくることは必至と考えなければならないと思います」

これは、まったく事実に反した話である。龍年光や山﨑正友を使い、自民党に対して創価学会への危機意識を持たせようと計り、その結果、自民党の政治権力をもって創価学会を圧迫しようと企てているのは、ほかならぬ日顕宗である。

この政治的な動きを裏で仕掛けているのは、日顕宗の御用ライター・段勲である。段は、「C作戦」発動直前の平成二年十二月二十五日に、大石寺内事部第三談話室で日顕と創価学会破壊を謀議していた、いわくつきの人物である。

日顕らは、このような日顕宗御用ライターや檀徒、犯罪者を利用し、野党になったとはいえ比較第一党である自民党を都合よくあおって創価学会を圧迫しようとしているのだ。

現在、「政治権力を利用して、あらゆる陰険な策謀」を試みているのは、日顕宗なのである。

その事実に口をぬぐい、総監・藤本は宗内に対して危機意識を訴えている。だが、その藤本が教師指導会で、「圧力を加えてくることは必至」と話しているのは、言い換えれば、現在はまったく「圧力」は加わっていないということでもある。

そもそも、日顕など世間では相手にもされていない。したがって、社会的政治的に存在価値の認められていない日顕や日顕宗に、政治力学的な「圧力」などかかる理由はない。

ただし、自民党などから創価学会にかけられる圧力の一環として、宗教法人への課税見直しなどがおこなわれれば、日顕宗へも影響は及ぶ。そうなれば、日顕のように満山供養をはじめとして、あらゆる機会に莫大な金を懐にしてきた連中にとっては、戦戦兢兢たるものがあるだろう。

また、大石寺や裕福な末寺の多くが利息収入で生活している現状において、宗教法人の利息収入に対する課税率を変えようとする現在の政治の流れは、日顕宗にとっても大きなダメージを受けることになるだろう。

創価学会封じ込め策の一つとして、宗教法人に対する課税見直しの流れをつくろうとしている自民党の思惑に手を貸しているのが、日顕宗の走狗たる段勲、龍年光、山﨑らである。

日顕宗のなかには、後先も考えずに彼らの動きをほくそえんで見ている者もいるようだが、それで一番困るのは日顕を筆頭とする日顕宗の“高僧”たちであると知るべきだ。

政治の流れもわからず、みずからに刃が向かってきているのに狂喜している者らの浅知恵を笑わざるを得ない。

総監・藤本は、

「今回、創価学会はついにニセ本尊をつくって配布するという暴挙を犯しました。反転攻勢の一環として、宗門は『大白法』号外、ハガキ、カード等により僧俗一致して、この大謗法を破折、追及しております。

学会は必死の防戦にこれつとめ、イヤガラセ的手段をもって各地で抵抗を試みておりますが、私どもはさらに追撃の手をゆるめることなく、大慈悲の再折伏を断行していかなければならないと思います」

と話した。創価学会側が日顕宗のハガキ作戦を歯牙にもかけず、むしろ、「イヤガラセ的手段」と笑って見ているのに、つまらないことを言っているものだ。はては、

「このように、いま、宗門は総力をあげて明年の六万名総登山に向け、僧俗一致して努力し準備を進めているところでありますが、創価学会はこれを怨嫉し、あらゆる卑劣な手段をもって、これに妨害を加えようとしているということであります」

と被害者意識から妄言を吐いている。たとえ、「六万名」の結集ができたとしても、それは烏合の衆にすぎない。そんな連中に、創価学会が「怨嫉」するはずはない。仏の軍勢は、魔を根絶するまで戦い抜くことを常とする。

日顕宗が破仏法であるが故に、日蓮大聖人の弟子である創価学会員に破折されているという現実認識が、総監である藤本にはないようである。人数の多寡は、脱講運動の主因ではない。日顕宗は邪義を掲げているから、破折の対象とされるのだ。

藤本に続いて、庶務部長の早瀬義寛が話した。

「まず初めに、創価学会員に対する今後の対応について申し上げます。

すでにご承知のとおり、創価学会はついに魔の本性をあらわしてニセ本尊をつくり、身延や池上とまったく変わらぬ完全なる邪教集団と化してしまいました。

これにともないまして、創価学会に対する対応を今後はいかにすべきか。先ほど、総監殿よりお話がございましたように、宗務院といたしましても、御法主上人猊下の御指南を賜りつつ検討してまいりましたが、基本的にはニセ本尊を受けた者は、それが新規であろうと取り替えであろうと、本宗信徒としては一切認めるわけにはいかず、したがって本宗信徒として取り扱うことはできませんが、それ以外は従来と変わりなく対応するようにお願いをいたします」

この期に及んで、まだ創価学会員に未練があるようである。創価学会員を選別して扱い、日寛上人の御本尊を授与されていない者は、まだ日蓮正宗信徒として扱いたいと、早瀬は言っているのだ。

この話を聞いた教師の一人は指導会終了後、「それほど未練があるなら『C作戦』など断行せず、創価学会員一人ひとりと日顕が話し合おうとすれば、もう少し多くの檀徒づくりもできたろう……」と皮肉っぽく話していた。

たしかに、日顕がやったように処分、処分で強権発動ばかりしていれば、無慈悲な本性は丸見えとなる。日顕の打った悪手の連続によって、これみよがしに“慈悲”を口にする坊主ほど冷酷で欲深であることを、創価学会員のすべてが知ってしまったのだ。

こうなれば、袈裟、衣で信徒を誑かすことはできない。たとえば、次のように坊主が巧みに話しても、その性根は大衆に見抜かれてしまうのである。

「各種法要並びに諸々の願い出につきまして、葬儀、法事、塔婆願、納骨願、戒名願、永代回向願、寺院過去帳記入願、信徒用過去帳記入願、墓石の染筆願、墓石の開眼願、総本山の大納骨堂の納骨願ならびに総本山の合葬納骨願、尊号願、満山供養願、御秘符願、それから表装替え願、結婚式、命名願、地形式、上棟式、落成式、御遷座式と、あるいは、諸祈願や祈念、あるいは七五三の祈念。こういった上記の各種法要および各種の願につきましては、従来どおり申し出があれば本宗信徒として受け付けていただきたいと思います。

で、これは一つには、信仰的に慈悲、教導の立場から宗門といたしましては広く門戸を開き、いつでも正しい信心に目覚めた人たちが入ってこれるようにすることと、たとえここで何らかの措置を取ったとしても、これによって彼らが仏法的に救われるわけではないし、あくまでも我々は僧侶としての立場から、彼らを一概に排除するのではなくして、彼らの信心の本性に慈悲の一石を投じて、正しい信心を呼び起こし、彼らを迎え入れることが本来であるからと、このように判断したからであります」

このような庶務部長・早瀬義寛の発言を聞くと、言葉の裏に隠された欲望が手にとるようにわかる。金の亡者と化した売僧は、法要などにかこつけて“供養”を取ることしか考えていない。

「総本山の合葬納骨願」などと言っているが、米袋にお骨を満杯に詰め込んで放置しておいて、まだ「合葬」の申し込みを受けると言うのだろうか。

ともあれ、庶務部長の早瀬は、このように卑屈なまでに創価学会員に対する未練を示した。そして、藤本同様にハガキ作戦の戦果を強調し、

「今回のニセ本尊破折のハガキで創価学会がこうまでして騒ぎますのは、これほどこのニセ本尊の問題は、彼らとしては弁解のしようのない一番弱いところであり、大きく動揺をしている証拠でございます」

などと話した。所詮は、ハガキ作戦の発案者である日顕に対するおもねりの発言である。

しかし現実は、多くの末寺住職が、ほんの一部だけを発送して体裁を整えているか、あるいは、まったく発送していない。こうした宗内の実状も把握していないで、ハガキ作戦の効能大と発言しているとしたら、早瀬は庶務部長失格である。

宗内には、「未発送のハガキを郵便局に持って行って換金し、アフリカ義援金にしたほうがいい」といった意見もあるそうだ。

早瀬に続いて登壇した教学部長の大村寿顕は、「ニセ本尊破折のことについて申しますけれども、本日は創価宗のニセ本尊の販売に伴う自己弁護も破折いたしたいと思います」と前置きして、次のような発言をした。

「彼らの誤りをひとことで言えば、“能所の混乱”ということであります。すなわち、能化である仏の境界と所化の凡夫、衆生の信仰とを同一視し、混合させたうえで、我見の新義を結論としていることであります」

大村の教師指導会における発言は、この論に凝縮されている。

要するに、日顕のみが仏の境界にある「能化」であり、衆生たる信徒は未来永劫に「所化」であるという論である。この大村に代表される日顕宗の者らの「誤りをひとことで言えば」、日顕が“仏”であると混乱しているところにある。

まさに、「我見の新義」を前提にしているのだ。多少なりとも道念があるならば、次に掲げる御聖訓を信心の眼を開いて拝するべきである。

日蓮大聖人曰く。

「答えて云く四天下の中に全く二の日無し四海の内豈両主有らんや」(顕仏未来記)

【通解】答えていうには、全世界に二つの太陽があるわけがない。一国になんで二人の国主がいようか、いるわけがないではないか。同じく法華経の行者は全世界にただ一人のみである。

末法における御本仏がただ一人であることは、この御聖訓に明らかなとおりである。この末法において、ただ一人のみ存在する御本仏が日蓮大聖人であることは、以下の御聖訓に詳らかにされている。

「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(開目抄)

【通解】日蓮は日本国の諸人にとって主であり、師であり、親である。すなわち末法の本仏・人本尊は日蓮である。

「日蓮は日本国の人人の父母ぞかし・主君ぞかし・明師ぞかし・是を背ん事よ、念仏を申さん人人は無間地獄に堕ちん事決定なるべし」(一谷入道御書)

【通解】日蓮は日本国の人々の父母である。主君である。明師である。これに背いてよいわけがない。念仏を称える人々が無間地獄に堕ちることは決定的である。

「下種の今此三界の主の本迹  久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり、久遠は本・今日は迹なり、三世常住の日蓮は名字の利生なり」(百六箇抄)

【通解】下種の今此三界の主の本迹のこと──久遠元初における天上天下・唯我独尊とは、日蓮のことである。久遠は本であり、今日は迹にあたる。三世に常住する日蓮は、名字即の位で一切衆生を利益するのである。

このように、末法におけるただ一人の御本仏は、日蓮大聖人である。日顕宗教学部長の大村は、何をもって日顕を仏というのだろうか。

なお、ここで断っておくが、大村は「仏の境界」などと紛らわしい表現をしているが、真意は日顕が仏と等しい、すなわち同等であるとしたいのだ。これは明らかに邪義である。

正しくは、末法の御本仏日蓮大聖人を久遠元初の自受用報身如来と拝し、そのうえで、仏と自分との差別がないことを信じて南無妙法蓮華経と唱えることを法華経の極意と知るべきだ。

日蓮大聖人曰く。

「己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるを即身成仏と云うなり、即身成仏は今我が身の上の天性・地体なり煩も無く障りも無き衆生の運命なり果報なり冥加なり」(三世諸仏総勘文教相廃立)

【通解】己心と仏心とは異ならないと観ずるゆえに、生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるのを即身成仏というのである。即身成仏は、いま、我が身に本来、備わった天性であり、地体であって、煩いもない、衆生の運命であり、果報であり、冥加なのである。

「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(生死一大事血脈抄)

【通解】このように、十界の当体が妙法蓮華経であるから、仏界の象徴である久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経すなわち妙法蓮華経と我ら九界の衆生の三つはまったく差別がないと信解して、妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。

「凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と三世の諸仏の解の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり」(法華初心成仏抄)

【通解】そもそも妙法蓮華経とは、我ら衆生の仏性と、梵王や帝釈などの仏性と、舎利弗や目連などの仏性と、文殊や弥勒などの仏性と、三世の諸仏の悟りの妙法とが一体不二である理を妙法蓮華経と名づけたのである。

すなわち、人・天・二乗・菩薩などのあらゆる境界の衆生が、もともと備えている仏性も、三世の諸仏が己心に悟った妙法も、さらには宇宙の森羅万象を貫く根本の法も「南無妙法蓮華経」なのである。

御本仏日蓮大聖人のこれらの御聖訓に照らせば、凡僧・日顕を仏と同じ境界に位置させ衆生を睥睨する大村の主張が邪義であることは明白となる。故に、邪義を振り回す大村は、御本仏日蓮大聖人に唾する邪師といえる。

大村は、平成四年四月六日におこなわれた御影堂での説法において、池田大作創価学会名誉会長の著書『生死一大事血脈抄講義』から講義内容をそのまま盗み、自分の考えのように装って講説した(第504号詳述)。

盗作者・大村ごときが教学部長として本尊論を云々すること自体、僣越至極なことである。盗作するしか能のない大村以外に、日顕宗に人材はいないのだろうか。

この大村の話のあと、三カ寺の体験発表があり、そのあと日顕が話をした。日顕の話は次号に掲載する。

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