第695号
発行日:1993年9月5日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
大聖人の仏法より日恭の“事なかれ主義”が優先されたため
狸を宗費未納で処分したものの教義は小笠原流となった
〈仏勅シリーズ・第9回〉
日蓮大聖人曰く。
「南岳大師の四安楽行に云く『若し菩薩有つて悪人を将護し治罰すること能わず乃至其の人命終して諸悪人と倶に地獄に堕せん』と、此の文の意は若し仏法を行ずる人有つて謗法の悪人を治罰せずして観念思惟を専らにして邪正権実をも簡ばず詐つて慈悲の姿を現ぜん人は諸の悪人と倶に悪道に堕つべしと云う文なり」(聖愚問答抄)
【通解】南岳大師の法華経安楽行義には「もし菩薩がいて悪人を擁護して戒めようとしないならば、その人は命が終わって多くの悪人とともに地獄に堕ちる」とある。この文の意味は、もし仏法を行ずる人がいて観念や思惟だけをもっぱら修して、邪正・権実を峻別せず謗法の悪人を戒めないで、偽りの慈悲の姿を現す人は、諸々の悪人とともに地獄に堕ちるというのである。
昭和十七年の宗門は、どのような有り様だったろうか。
宗門は「神本仏迹論」の邪義を掲げて画策する小笠原慈聞に、さんざんかき回されていた。小笠原は月刊誌『世界之日蓮』の主幹をしていたが、この雑誌で「神本仏迹論」をブチ上げ、相手かまわず批判の矛先を向けた。
七月三日、堀米泰榮庶務・教学部長(後の日淳上人)は、小笠原に以下のような警告をする。
「啓上 愈々御勇健の段奉大慶候 陳者御尊師には近く北海道へ布教の爲御出掛の御考へ有之段やに近頃聞き及び候へ共御尊師の近頃の宗門に對する批評は首肯致しかねる點多々有之信從を誤らしむるもの目下宗門維新斷行の秋却て障害と相成り候かと存ぜられ候間任地以外の布教は御中止下され度 尚今後は世界之日蓮の宗内への頒布を取り止めらるゝ樣致すことと相成候かと存候も豫め御含みをき下され度候右私信を以て御注意迄申上候
敬具
七月三日
泰榮」
【現代語訳】啓上 ますます御勇健の段、大慶と奉り候。さて御尊師には、近く北海道へ布教のためにお出掛けになるお考えがあるように近頃聞き及びましたが、御尊師の近頃の宗門に対する批評は首肯しかねる点が多々あり、信徒を誤らせるものです。目下、宗門維新断行の時にかえって障害となると思われますので、あなたの任地以外の布教は御中止してください。なお今後は『世界之日蓮』の宗内への頒布を取りやめるようにすることとなることも、あらかじめお含みおき下さい。
右のように私信をもって御注意かたがた申し上げました。敬具 七月三日
泰榮
任地以外の布教をするな、『世界之日蓮』の宗内頒布が中止になることを含んでおくようにと堀米部長は小笠原に警告した。この堀米部長の警告に続き、八月七日には“法主”である日恭本人が小笠原に注意を与えた。日恭はまず、
「謹啓甚だ申兼候得共貴下の神本仏迹説は僧侶一般評判不宜候間御止に相成ては如何に候哉貴下之御信用に關する事と存候」
【現代語訳】謹啓 はなはだ申し上げにくいことではありますが、あなたの神本仏迹説は僧侶一般の評判もよろしくないので、おやめになってはいかがでしょうか。あなたの御信用に関することだと思います。
と、僧侶たちの小笠原に対する評判が悪いと、衆に頼んで小笠原を責めることから筆を起こし、日開が小笠原の処分を望んでいるとして、
「此前之折に日開上人態々拙僧に値多しとて御越に相成候管長として是を放任し置とは何故なりや至急所置すべしとて非常之態度にて御話有之候間職員共協議之上處置致すべしと答へ置其儘に經過致候」
【現代語訳】この前、日開上人がわざわざ私に会いたいとお越しになりました。その際、「管長としてこれを放任しておくのはどういう理由なのだ。至急処置しなさい」と普通ではない態度でお話しがありましたので、「職員とも協議のうえ、処置致します」と答えて、そのまま時を過ごしました。
と、日開の権威をも借りて小笠原を押さえつけようとした。さらに念の入ったことには、追伸にも、
「日開上人此前非常なる御權幕 此事は大秘密に候猶此状は直に御火中願上候」
【現代語訳】日開上人はこの前のとき、大変な御見幕でした。このことは絶対に秘密です。なお、この手紙はただちに焼却してくださるようお願いします。
とまで書いた。
ところが、日恭は小笠原の強烈な逆襲にあって動揺したと見え、第二信では、
「謹啓兩度の速達御状正に披見致候 此度は突然無遠慮なる事を申出御氣に障り候事と存じ候も 信徒之信念動揺等之事をも思ひ種々心痛之結果に出て候間不惡願上候」
【現代語訳】謹啓 両度の速達のお手紙、確かに拝見致しました。このたびは突然に無遠慮なことを申し出て、お気に障ったことと思いますが、信徒の信念が動揺したりすることを思い、種々心を痛めた結果のことですので悪しからずお願い致します。
と、少し及び腰となる。謗法者を破折する勢いは、すでに萎えてしまっている。隠尊の“法主”であった日開に至ってはもっと軟弱で、小笠原に逆襲されるや、すぐさま逃げに転じている。
「拜復十四日付尊状忝く拜見致候 陳者不順之時下愈々御勇健御盡瘁之段奉欣賀候 扨而乍早速貴下の神本佛迹論に付ては豫而より承はる所にて之に對する愚見は有之候へ共野衲は貴下の神本佛迹論は宗義違反なりと豫て之が處分を現猊下に抗議申出候との事は絶對に無之又此の事に付て何人に向而も野衲は斯かる議論をなしたる覺更に無之事は前便にも申上候通りに候條 此點は宜敷御了承被下度重ねて此に希望申上候」
【現代語訳】拝復 十四日付のお手紙をかたじけなく拝見致しました。さて不順の時下、ますます御勇健御尽瘁の段、欣賀奉り候。さて早速ながらあなたの神本仏迹論については、かねてより承っており、これに対する愚見はありますが、私があなたの神本仏迹論が宗義違反であるとして、かつてあなたを処分しろと現猊下に対し抗議を申し出たという事実などは絶対になく、またこの事について誰とも議論した覚えもないことは、前回の手紙にも申し上げたとおりです。この点はよろしく御了承していただきたく重ねてここに希望を申し上げます。
日開は、小笠原の神本仏迹論が宗義違背だとして日恭に抗議したことなど絶対にないし、誰人に対してもそのような議論をしたことはないと、脱兎のごとく逃げを打った。日開はこの後、相伝書を引用して本地垂迹説に言及するのだが、小笠原の邪義を破折する気迫はない。
手紙の最後を、「右愚見大略如此に候(私の愚見の大略は右のようなものです)」と締めるに至っては、なにをかいわんやである。
日恭は八月二十四日付の小笠原宛第五信においても、「今囘の御紙面は極秘にして披露せざる事に致し候(今回のお手紙は極秘にして公開しないようにしました)」と、小笠原に対して腫れ物に触るような対応である。
同じく八月二十四日付第五信において日恭は、
「過日來野衲と往復之事極秘に願上候擯斥云々一人として左樣之事申せし者無く誰より御聞きに相成しや不存候得共あとかたもなき事に候」
【現代語訳】過日来の私との往復の手紙のことは極秘にしてくださるようお願いします。あなたを擯斥しろ云々などと言っている者は一人もいません。誰から聞いたのかは知りませんが、そんな事実はまったくありません。
と、師子身中の虫に絡まれないよう、額に汗かく気遣いのしようである。この日恭の対応は、ことごとく“事なかれ主義”から発している。これでは師子身中の虫は増長するばかり。
小笠原の非道に対して、日蓮正宗内で強い姿勢でのぞんだのは堀米部長、唯一人であったようだ。他の者らは小笠原の跳梁跋扈に陰口は叩いても、小笠原を表立って処分する動きには出なかった。
九月二日、小笠原と気脈を通じる妙光寺(東京・品川)総代・鏑木喜兵衛の名義で、「敢て憂國護法の志士に告ぐ」という文書を政府当局、神仏各宗派管長、学者、宗内一般にばらまいた。
日蓮正宗が“仏本神迹”の立場をとっており、神に対して不敬であると主張したのである。この文書には、前に紹介した日恭が小笠原に宛てた〈第一信〉から〈第六信〉までの手紙、日開と堀米部長の手紙も添付されていた。小笠原一派が、宗門中枢に対し牙をむいたのである。
九月十四日、宗門は小笠原がこれ以上宗内で騒ぐと政府当局の覚えも悪くなり、災いが宗門に及ぶと判断したようで、今までの日恭の弱腰からは想像もつかない擯斥処分という強硬措置に出た。ただし、擯斥の理由は以下のとおり。
「其の方儀一、昭和七年より昭和十七年に至る宗費賦課金を拒否して納付せず二、布教藍の職は既に消滅したるに拘らず異議を唱へて公用し三、昭和十六年七月三十日附特第五號を以て其の以前の刊行物中不穩當なるものは各自適宜處理を爲すべき樣申達し置きたるに却て自ら不穩當となすものを取出し信徒を使嗾して共に之を世上に吹聽す右の行爲は其の證憑明白にして之を宗制に照して判ずるに第一の行爲は宗制第三百八十九條第一號に第二の行爲は同條第三號に第三の行爲は宗制に明文なきも宗務院の命令に從はざるのみならず宗門教學の刷新に協力せず故意に宗門の治安を紊すものにして現下最も嚴重に戒むべき行爲と認む
以上」
宗門は、法義違背を理由に小笠原を処分したのではなく、あくまで宗費未納などの理由で擯斥処分にしたのである。ここでも、宗門の“事なかれ主義”が顔をのぞかせている。
このような理由で小笠原を処分したのでは、内輪もめの次元を脱しない。小笠原の処分は、法義を守り抜こうとする決意をもって断固としてなされるべきであった。
小笠原に擯斥処分を下した翌日、野木慈隆は総監を辞任、堀米泰榮住職も庶務部長、教学部長を辞任した。新しい庶務部長に渡辺慈海、教学部長に佐藤舜道、宗務総監心得に崎尾正道が就任した。
少々、やり方は強引だったが、堀米部長は自分の辞任と引き替えにして、やっとの思いで小笠原を擯斥にした。だが、小笠原を擯斥にしてみたところで、政府の圧力は強くなる一方だった。
宗門が日蓮大聖人の折伏精神に立たず、“事なかれ主義”に終始する限りにおいては、国家権力に乗ぜられ法義を曲げさせられ、戦争遂行の翼賛機関として利用されるだけであった。
十月十日、日蓮正宗宗務院は「住職教師教会主管者」宛に伊勢神宮を遥拝するよう院達を出した。
国家神道に基づき邪義を押しつけてくる国家権力に対し、宗門は臆病の故になんらの抵抗もできず、これ以降も日蓮大聖人の法義を簡単に曲げ、あるいは捨てていくのである。
日蓮大聖人曰く。
「人に吉と思はれ人の心に随いて貴しと思はれん僧をば法華経のかたき世間の悪知識なりと思うべし、此の人を経文には猟師の目を細めにして鹿をねらひ猫の爪を隠して鼠をねらふが如くにして在家の俗男・俗女の檀那をへつらい・いつわり・たぼらかすべしと説き給へり」(法華初心成仏抄)
【通解】人によく思われ、人の心に従って、貴しと思われる僧は、法華経の敵であり、世間の悪知識であると思いなさい。この人を経文には、猟師が目を細めて鹿を狙い、猫が爪を隠して鼠を狙うようにして、在家の俗男女の檀那に諂い、偽り、たぶらかすであろうと説かれている。
日蓮正宗の僧侶のおこなったことは、この御聖訓にあるとおりのことであった。神道思想の毒気に狂ってしまっている世間の人々に迎合したのだった。
だが、国家権力の猛威に首をすくめていたこの時代にあっても、日蓮正宗の多くの僧は、信徒の前では空威張りをして心の卑しさを隠し、我れ尊しと振る舞っていた。末世の悪比丘そのものの姿であった。