報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十九章 菩薩ぼさつ涌出ゆじゅつ

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第689号

発行日:1993年8月21日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

御本仏日蓮大聖人の仰せの通り国家権力の迫害に抗して
信仰信条を貫いた“法華経の行者”は日本に出現したか
〈仏勅シリーズ・第3回〉

日蓮大聖人が、文応元(一二六〇)年七月十六日に「立正安国論」をもって、時の最高権力者・北条時頼を諫暁されて後、日蓮大聖人への迫害は年を追うごとに強まる。諫暁直後の八月二十七日には松葉ケ谷の法難、翌弘長元(一二六一)年五月には伊豆伊東への流罪、三年後には、小松原の法難が起きた。

鎌倉幕府は「立正安国論」を聞き入れないばかりか、御本仏日蓮大聖人への迫害を続けたため、文永五(一二六八)年(「立正安国論」後八年)正月に蒙古から牒状が到来した。正師を尊ばず邪師を用いれば他国侵逼難が起きるとの「立正安国論」の予言が的中し、他国侵逼難の兆しが現れたのである。

蒙古襲来の危機に瀕している日本を救わんと、同年十月、日蓮大聖人は十一通の諫状をもって“公場対決”を迫られた。日蓮大聖人はこのとき、弟子檀那に書状を出され、仏弟子としての覚悟を教えられている。

「定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず是 併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候、各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ、今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給へ」(弟子檀那への御状)

【通解】定めて日蓮の弟子檀那は、流罪・死罪になることは必定であろう。少しも驚いてはならない。方々へ強言を申し送ったことは言うまでもないが、これは「而して強て之を毒す」(正法を信じない衆生に強いて説き仏縁を結ばせる)ためである。これは日蓮が望むことである。各々も用心しなさい。少しも妻子眷族のことを思ってはならない。権威を恐れてはならない。今こそ生死の縛を切って成仏を遂げなさい。

だが、この十一通の諫状に託された日蓮大聖人の大慈大悲からの師子吼に対し、鎌倉幕府は邪宗の者どもとともに迫害の勢いを強めるだけであった。

文永八(一二七一)年(「立正安国論」後十一年、十一通の諫状後三年)九月、平左衛門尉は日蓮大聖人を竜ノ口において斬首しようとしたが、それを果たせず、幕府権力は日蓮大聖人を同年十月、佐渡に流罪した。

日蓮大聖人が佐渡流罪を赦免され、鎌倉に戻られたのは、およそ二年四カ月後の文永十一(一二七四)年三月のことであった。

鎌倉に帰られた日蓮大聖人は、日経ずして四月八日には幕吏に強く諫暁されたが、それが容れられないと見るや、五月十二日に鎌倉を去り身延山に入られた。四月八日の幕吏に対する諫暁の状況について、日蓮大聖人は次のように仰せになっている。

「同四月八日平左衛門尉に見参しぬ、〈中略〉平の左衛門尉は上の御使の様にて大蒙古国はいつか渡り候べきと申す、日蓮答えて云く今年は一定なりそれにとつては日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし」(種種御振舞御書)

【通解】同年(文永十一年)四月八日に平左衛門尉に対面した。(中略)平左衛門尉は執権の使いかと思われる様子で、「大蒙古国はいったいいつ攻めてくるだろうか」とたずねた。日蓮は答えて言った。「今年中にかならず攻めてくる。それについては、私(日蓮)が以前から考えて進言しているのに用いなかった」。

この年の十月、日本は元の侵略を受ける。いわゆる文永の役である。「立正安国論」をもって国家諫暁をなされてから十四年後のことであった。四月八日、日蓮大聖人が平左衛門尉に言い渡されたとおり、その年のうちに他国侵逼難が起きたのである。

文永の役の七年後、元は再び大軍をもって日本に侵攻したが、文永の役同様、大風が吹き、元軍は潰滅した。しかし、この二度にわたる元軍の襲来は鎌倉幕府崩壊の原因となった。日蓮大聖人は、弘安の役の翌年、弘安五(一二八二)年十月、御入滅となる。その後、鎌倉幕府は崩壊し、世は室町時代を経て戦国の時代へと移る。

日蓮大聖人は「種種御振舞御書」の中で、末法における“法華経の行者”と権力者による迫害、他国侵逼難などについて、釈迦が次のように記していると仰せになっている。

「我が滅後・正像二千年すぎて末法の始に此の法華経の肝心題目の五字計りを弘めんもの出来すべし、其の時悪王・悪比丘等・大地微塵より多くして或は大乗或は小乗等をもつて・きそはんほどに、此の題目の行者にせめられて在家の檀那等をかたらひて或はのり或はうち或はろうに入れ或は所領を召し或は流罪或は頸をはぬべし、などいふとも退転なく・ひろむるほどならば・あだをなすものは国主は・どし打ちをはじめ餓鬼のごとく身をくらひ後には他国よりせめられるべし、これひとへに梵天・帝釈・日月・四天等の法華経の敵なる国を他国より責めさせ給うなるべし」(同)

【通解】「我が滅後・正像二千年をすぎて末法の始めに、この法華経の肝心である題目の五字だけを弘める人が出現するであろう。そのときには悪王や悪僧等が大地の微細な塵よりも数多くいて、あるいは大乗・あるいは小乗をもってこの法華経の行者と競い合うであろうが、この題目の行者に折伏をもって責められるために、在家の檀那等を仲間に引き入れて、あるいは悪口し、あるいは打ち、あるいは牢に入れ、あるいは所領を取り上げ、あるいは流罪、あるいは首を斬るなどといって脅迫するが、そうした迫害にもかかわらず、退転せずに正法を弘めるならば、これらの仇をなす者は、国主は同士打ちをはじめ、国民は餓鬼のように互いにその身を食い合い、のちには他国から攻められるであろう。これは、ひとえに梵天・帝釈・日天・月天・四大天王等が、法華経の敵である国を他国に攻めさせるからである」

まさに釈迦が予言したとおりのことが、日蓮大聖人の御在世当時に起きたのである。日蓮大聖人は末法の御本仏であるから、それはむしろ当然のことだが、二千有余年の時を隔てて釈迦の予言どおりに、権力者は“法華経の行者”を迫害し他国侵逼難が起きたことに、仏法の不思議なまでの深遠さを感ずるものである。

さて、日蓮大聖人は「種種御振舞御書」において、釈迦が末法の世を予見し説き示したこの御文に続き、日蓮大聖人の弟子たる“法華経の行者”が持つべき決意をお教えになっている。

「各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず、をやををもひ・めこををもひ所領かへりみること・なかれ、無量劫より・このかた・をやこのため所領のために命すてたる事は大地微塵よりも・をほし、法華経のゆへには・いまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしかども・かかる事出来せしかば退転してやみにき、譬えばゆをわかして水に入れ火を切るにとげざるがごとし、各各思い切り給へ此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり」(同)

【通解】各々日蓮の弟子と名乗る人々は、一人も臆する心を起こしてはならない。親を思い、妻子を心配し、所領を顧みてはならない。無量劫の昔から今日まで、そうしたことのために命を捨てたことは、大地の塵の数よりも多い。だが、法華経のためには、いまだ一度も命を捨てたことはない。過去世に法華経をかなり修行したけれども、このような大難が起きて退転してしまったのは、たとえば、湯を沸かしておきながらそれを水に入れたり、火をおこすのに途中でやめて、おこしきれないようなものである。今度こそ各々思い切るがよい。この身を法華経に換えるのは、石を黄金に換え、糞を米に換えるようなものである。

さらに続けて日蓮大聖人は、

「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり、わたうども二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし、わづかの小島のぬしらがをどさんを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき、仏の御使と・なのりながら・をくせんは無下の人人なりと申しふくめぬ」(同)

【通解】仏滅後二千二百二十余年の間に、迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、南岳・天台等、妙楽・伝教等の弘法者でさえも、いまだかつて弘められなかった法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字を、末法の始めに一閻浮提に弘まらせていくべき瑞相として、今、日蓮が魁したのである。わが一党の者、二陣三陣と日蓮につづいて大法を弘通して迦葉・阿難にも勝れ天台・伝教にも超えていきなさい。わずかばかりの小島の主等が脅すのを恐れていては、閻魔王の責めを一体どうするというのか。仏のお使いと名乗りながら、いまさら臆するのは下劣な人々であると、よくよく弟子檀那たちに言い含めた。

と仰せになり、日蓮大聖人の弟子たる者は、時の最高権力者が威嚇しても、決して臆してはならないとされている。この日蓮大聖人の弟子としてあるべき覚悟は、末法万年尽未来際にわたる仏弟子に対する教誡である。

であるならば、日本国を襲った第二の本格的な他国侵逼難といえる第二次世界大戦のとき、日蓮大聖人の示された弟子としてあるべき覚悟をもって、教法を高らかに掲げた“法華経の行者”はいたのだろうか。

この第二の他国侵逼難の後、日本社会は一変し、創価学会および日蓮正宗を取り巻く環境も大きく変わり、大法興隆の時を迎えた。教勢は、御本仏日蓮大聖人の御在世当時と比べものにもならないほど大発展した。

御在世当時の国家の最高権力者たち、他国侵逼難、そして真実の“法華経の行者”たる日蓮大聖人との関係を考えるとき、第二次世界大戦下における国家権力による“法華経の行者”への迫害に思いを馳せざるを得ない。

だが、軍部が横暴をきわめた圧政下にあって、御本仏日蓮大聖人の大確信を我が意として折伏行に励むことは至難のことであったろう。

日蓮大聖人は、佐渡に流罪になった直後、その流罪の地で次のように仰せになっている。

「仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる」(佐渡御勘気抄)

【通解】仏になる道は、かならず命を捨てるほどのことがあってこそ仏になるであろう、と思われる。

この御聖訓どおり、国家権力の弾圧に屈せず身命を惜しまぬ“法華経の行者”がいただろうか。我が身を顧みず、日蓮大聖人の教法をもって民衆を救済しようとして迫害にあった“法華経の行者”がいるならば、日蓮大聖人の弟子を自認する者は、必ずやその大恩に報いるために、その難の一分をも受けようと弘教に精進しなければならない。

日蓮大聖人曰く。

「我が身こそ何様にも・ならめと思いて云い出せしかば二十余年・所をおはれ弟子等を殺され・我が身も疵を蒙り二度まで流され結句は頸切られんとす、是れ偏に日本国の一切衆生の大苦にあはんを兼て知りて歎き候なり、されば心あらん人人は我等が為にと思食すべし、若し恩を知り心有る人人は二当らん杖には一は替わるべき事ぞかし」(弥三郎殿御返事)

【通解】我が身はどのようになってもいいと思い切り、言い出したところ、それから二十余年の間、所を追われ、弟子等を殺され、我が身も傷をこうむり二度までも流罪にあい、あげくに首を切られようとした。これはひとえに、日本国の一切衆生が大変な苦しみにあうだろうことを(日蓮が)かねて知って哀れんでしたことである。それゆえに、心ある人々は自分たちのためにこんなに苦しんでくれたのかと思うべきである。その恩を知った心ある人々ならば、(日蓮が)二つ打たれる杖の一つは替わって打たれるべきである。

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