第409号
発行日:1992年4月21日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
日顕の父である阿部日開は邪宗日蓮宗に肩入れをしていた
日開らが文部大臣に念書を出し勅額が身延山に降賜された
〈導師本尊シリーズ・第12回〉
〈導師本尊シリーズ〉は、これまで日蓮正宗の法脈に忍び込んだ「邪師の血脈」を告発してきた。今号もまた邪宗日蓮宗の風下に立ち、媚を売る哀れな日蓮正宗の史実を伝える。
大正十一年、当時の日蓮正宗管長であった総本山第五十七世日正上人は、日蓮宗(身延派)管長の河合日辰、顕本法華宗管長の本多日生らとともに、日蓮大聖人に「大師号」を「宣下」してもらいたいと、天皇に請願した。そして、その願い出により、日蓮大聖人に対し、「立正大師」という「大師号」が天皇より贈られたのである。
「立正大師」の「宣下書」を天皇より下された大正十一年十月十三日、日蓮正宗管長の阿部日正上人ほか各派管長は、日蓮宗(身延派)の管長である磯野日筵(筆者註 請願時管長の河合日辰死去)の導師にしたがって勤行をした。
ところが、日蓮正宗の管長が邪宗日蓮宗の管長にしたがって勤行をしても、それが日蓮正宗内でなんら問題にされることもなかったのである。このことは、創価学会出現以前の日蓮正宗においては“富士の清流”などといった意識は、さらさらなかったことを示しているといっても過言ではない(本紙『地涌』第386号詳述)。
このように、立正大師号を天皇から宣下されるにあたって、身延はその中心的役割を担ったのだが、それによって江戸時代以来、身延が日蓮宗各派の盟主であることを印象づけることに成功した。
邪宗日蓮宗が、昭和六年の日蓮大聖人六百五十遠忌を直前にして「大師号」の宣下を思い立ったのは、天皇の威光にすがり昔日の勢いを盛り返そうとする意図があったのである。
当時の日蓮宗身延派管長だった酒井日愼が、立正大師号の「立正」の文字を天皇に直接、書いてもらい、それを額に入れて身延山の「御廟」(祖廟ともいう)に掲げようと目論んだのであった。
その「勅額」を降賜されることで、六百五十遠忌における日蓮宗の儀式に、他派に抜きん出た権威づけをしようとしたのだ。
御廟所を身延山久遠寺と日開が認めたために久遠寺に下賜された「勅額」
さらに、日蓮宗管長の酒井は勅額降賜を機に、身延が盟主となっての日蓮宗の合同を考えていたと思われる。酒井はそうした思惑を胸に秘め、国柱会総裁の田中智学に勅額降賜についての相談をした。田中は快諾し、勅額降賜のための「請願書」の草案を書いた。
この田中の草案を清書し、昭和六年四月四日に勅額降賜の「請願書」(同年四月三日付)を身延山久遠寺住職・岡田日歸名で一木喜徳郎・宮内大臣宛に提出した。と同時に、同趣旨の請願を田中隆三・文部大臣にも出している。
この「請願書」を上奏して間もなく、田中文部大臣より日蓮宗各派の管長に、この身延の「請願」に同意の「念書」を提出するよう要請があった。この文部大臣の要請を受け、日蓮宗庶務部長の妙立英壽は、各派管長の「念書」をとりつけるべく奔走した。
妙立の奔走により、各派管長の「念書」がとりつけられるのであるが、この文部省の「念書」とりつけの要請の裏には、ある事情があった。この間の事情について、当事者の田中智学は『田中智学自伝』(師子王文庫)の中に、次のように記している。
当時の事情を詳しく知るために、少々長くなるが引用する。
「そこで願書を提出して、一面は宮内大臣に吾輩が會ッて、實地についてよく一木宮相にも話した、願書は今文部省から此方に廻ることになッて居るさうだから、何れお手許に來るに違ひない、其の節は御前宜しく御執奏方をお願ひするといッたところが、自分は職についてまだ先例を知らないが、さういふ例があるかないかといふ事であッたから、それは幾らもある、勅額を下賜された例は明治天皇の御時代にも道元禪師に承陽大師の勅額を賜はり、宇治の黄蘗山にも勅額を賜はッた例があるといッたらさういふ先例があれば取扱ひ上差支へないと思ふから、充分に力を盡くします、又日蓮聖人に對しては勅額を賜はるといふことは然るべき事と自分も考へるといふ挨拶であッた。
それから宮内省で調べて、日蓮聖人の墓は全く身延にあるかといふことを尋ねて來た、それは事實がこれを證明して居るから其の趣きを答へた、然るに日蓮門下の各教團に對して、宮内省から日蓮聖人の墓が身延にあるに相違ないかといふことを、各派の管長に向けて諮問した、これは若し苦情が出ると、宗派の事は昔からよく爭論が起り易いから、宮内省でも愼重の態度を取ッたのであらう、ところがこれは事實それに違ひないから、何の派の管長も祖師日蓮聖人の墓は身延に相違ないといふことを申上げたので、一ぺんに埒があいた、そして其の通知が、大聖人が身延にお入りになッた式の開闢會といふのがあッて、其の開闢會の日に宮内省から電報が來た」
文部省は勅額降賜にあたり、日蓮大聖人の墓が身延山にあることを、他の日蓮宗各派が認め、身延山久遠寺への勅額降賜に皆が賛成するということが、絶対に必要な要件であると考えていたのだ。そのため、各派管長に「念書」を提出することを要請したのだった。
日蓮正宗を含む各派管長の提出した「念書」の文面は、次のようなものであった。
「 念 書
宗祖󠄁立正大師六百五十遠忌ニ際シ御廟所在地山梨縣身延山久遠寺住職岡田日歸ヨリ及請願候立正大師勅額御下賜ノ件ハ本宗(派)ニ於テモ異議無之候條速ニ御下賜有之候樣御取計相成度候也
昭和六年 月 日宗
(派)管長 印
文部大臣 田中隆殿
」
この文面を、各派管長が田中文部大臣宛に提出したのである。このときの日蓮正宗管長は、日顕の父である総本山第六十世阿部日開だった。
阿部日開は、身延に「立正」と書かれた「勅額」が降賜されることに反対しないばかりか、日蓮大聖人の墓が身延にある、すなわち日蓮大聖人の聖骨が身延にあることすらも間接的に認めたのである。
日蓮正宗管長のほかに「念書」を提出したのは、顕本法華宗管長・井村日咸、法華宗管長・岡田日淳、本妙法華宗管長・小澤日寛、本門法華宗管長・神原日、不受不施派管長・釋日壽、本門宗管長・富士日堂、不受不施講門派管長・佐藤日柱である。
阿部日開ら日蓮宗各派管長が、身延山久遠寺に勅額が降賜されることに賛成したことで、昭和六年十月一日、身延山久遠寺に天皇より勅額が降賜された。身延山久遠寺の廟所(祖廟)に勅額が掲げられたのは翌十月二日のことであった。
この日蓮宗身延派が勅額降賜の「栄」に浴したことについて、日蓮正宗側はどのような気持ちを抱いていたのだろうか。
日蓮正宗機関誌『大日蓮』などには、勅額についての記述はない。「念書」提出の事実についても秘しているようだ。末寺である妙光寺の『妙の光』という新聞に、関連する記述をわずかに認めることができるので、その全文を紹介しよう。
「單稱日蓮宗の本山身延山へ、勅額が下ることになり、關係者が準備協議中のこと、宗門が大きいが故に、そして社会的に活動して居るが故に、この有難い御沙汰を身延派が拜受することは、大聖の正統を傳へ、教義の眞正を誇る本宗僧俗として三考を要する事柄と思ひます」(昭和六年六月十六日号)
身延に勅額が降賜されたことに対する悔しさをうかがうことができる。だが、末寺数五十程度の弱小教団である日蓮正宗としては、身延に対抗しても一笑に付される程度の存在でしかなかった。
それにしても、自派の管長である阿部日開が「念書」を提出したことが、身延への勅額降賜の一助となったことは、この記事の執筆者はおそらく知らなかったのではあるまいか。
よくよく考えてみると、阿部日開の「念書」提出は、宗開両祖に対し汚物を投げつけるようなものであり、すべての仏弟子に対する裏切りである。
いったい日開は、日興上人が一大決心をもっておこなわれた身延離山を、どのように受けとめていたのだろうか。なぜ、邪宗日蓮宗にこれほどまでに媚びへつらおうとするのか。そもそも、大石寺に伝わる「御聖骨」をなんと思っていたのだろうか。
不思議なことに、阿部日開、日顕の父子は折にふれて身延の肩をもつのだ。
それはさておき、日開が身延にへつらって「念書」を提出したことで、日蓮正宗僧俗はこぞって恥辱を受けたも同然となった。この恥をそそいだのは、創価学会である。
戦後、戸田城聖第二代会長の指揮の下に果敢な折伏戦を展開していた創価学会は、その教線を北海道小樽まで伸ばしていた。この小樽で、創価学会と日蓮宗身延派との法論がおこなわれたのは、昭和三十年三月十一日のことである。このとき、創価学会は邪宗である日蓮宗を徹底的に論破し、法論に勝利したのだ。
ここに初めて、室町、江戸を経て昭和の時代までつづいた、大石寺に対する身延山久遠寺の優位を打ち崩すことができたのである。
いま日蓮正宗の僧俗が当然のように思っている、日蓮正宗の日蓮宗「身延派」に対する優位は、ごく最近になって創価学会によってもたらされたものなのだ。
日顕宗の者どもが“富士の清流”などといって史実に反した大見栄を切れるのも、創価学会あればこそなのである。
昭和6年3月16日の池上本門寺における会議(右端が田中智学、2人目が酒井日愼)