報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十二章 奸計かんけい破綻はたん

地涌オリジナル風ロゴ

第408号

発行日:1992年4月20日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

室町、江戸時代の富士大石寺はなんと身延詣でをしていた
日興上人の尊い心を踏みにじり謗法におもねっていたのだ
〈導師本尊シリーズ・第11回〉

寛文五(一六六五)年、富士大石寺は、重須本門寺、妙蓮寺と連名で、徳川幕府の施しを「御供養」としていただくことを誓約した。そのとき、公儀に差し出した証文は、次のとおり。

「一、指上げ申す一札の事、御朱印頂戴仕り候儀は御供養と存じ奉り候、此の段不受不施方の所存とは各別にて御座候、仍つて件の如し。

 寛文五年巳八月廿一日

本門寺、妙蓮寺、大石寺

 御奉行所

(『富士宗学要集』第八巻)

大石寺は、幕府からの謗施を供養として受けとると誓約することにより、当時、幕府が不受(幕府の下す金などを謗施として受けとらない)派に対しておこなっていた弾圧からまぬかれようとした。大石寺は生きながらえるために、法義を曲げたのである(本紙『地涌』第388号詳述)。

このことはとりもなおさず、幕府権力にとり入り、受派の頭目として日蓮宗各派をその支配下においていた身延派の軍門に下ることでもあった。

それから四十七年後の正徳二(一七一二)年の冬に記録された身延の『房跡録』という古文書がある。その『房跡録』には、身延山の年行事に携わる二十の房(坊)の名前と、同様に月行事に携わる三十八の房の名前などが割りふられて記されており、それに続いて身延山各地域の房名が列記されている。

たとえば、「東谷の部」として「武井房」「端場房」「覚樹房」などといった房名が連なり、ほかにも「醍醐谷の部」「南谷の部」「逢島の部」「梅平の部」「中谷の部」「西谷の部」「棚沢の部」「下山村」「七面山の部」などの地域に所在する房名が表記されている。

この『房跡録』によって、身延山内の房数が百三十三房にも及んでいたことが判明する。

徳川幕府の権力を背景に、不受派をことごとく駆逐した身延山久遠寺は、受派の頭目として日蓮宗各山を従えていたが、房舎百三十三という数字は、当時の身延の絶大な権勢を示すものである。

本論に入ろう。この『房跡録』に重要な記述がある。

『房跡録』には、前に紹介した「年行事」「月行事」、地域別「房」名の表記のほかに、「宿房の定」が記されている。これは、身延山久遠寺に参詣した他寺院の者がどこに泊まるかを指示したものだ。

「宿房の定」は、「二十房」と「二十房の外」にわかれている。「二十房の外」として五房が紹介されているから、都合二十五房について他寺院の者の宿泊が割り振られていたことがわかる。

問題の個所は、かつて日興上人の住処であったとされる「林蔵房」に割り当てられた寺名である。「林蔵房」に宿泊する寺として、次のような寺の名が『房跡録』に記されている。

「立本寺(京都)、大石寺(富士)、経王寺(堺)、海浄寺(信州)、本妙寺(中山)」──日興上人が開かれたとされる房である林蔵房に、富士大石寺の者が宿泊するように決められていたのだ。

そのほかにも、「大林房」に富士妙蓮寺、「岸之房」に重須本門寺、京都要法寺などの名を見いだすことができる。

この事実は、当時、富士大石寺の者が身延山参詣をしていたことを、はっきりと示すものだ。

江戸時代、幕府の施す金を供養として受けとらなければ弾圧された。そのため、日蓮宗各派のうち、謗施を供養として受けとる受派のみが生き延び、不受派の寺はことごとく弾圧され、つぶされてきた。大石寺もまた、受派に変節することで生き延びたのだが、そのことは受派の頭目たる身延への屈服を意味した。大石寺の身延詣でが定例化した理由がここにある。しかし、富士大石寺は、この身延詣での歴史をひた隠しに隠そうとしている。

なお、大石寺の身延詣での事実は、この江戸時代の受派と不受派の争い以前にもあったのである。

室町時代の身延の記録に、『身延山年中行事』と題する古文書がある。この『身延山年中行事』に「正月十三日」の行事が記されている。

これは「祖師堂」において「十如是」「自我偈」を読誦し、さまざまな儀式をおこなうものだが、この儀式に列席する「客座衆」の中に「大石寺」の名が出ているのだ。

おそらく大石寺の代表と思われるが、いずれにしても大石寺の者が身延の儀式に客として呼ばれ、列席していたのである。この「客座衆」の中には、要法寺、妙満寺などの名もある。

この『身延山年中行事』が作られた室町時代、富士大石寺は非常に衰微していた。その頃、第九世日有上人の命じた留守居役の三人の高僧によって、富士大石寺が銭二十貫で丸ごと売られるという一大不祥事件があった。

大御本尊様ごと大石寺を売りとばしてしまう悪比丘らに対し、“身延は謗法の山だから参るな”といっても、とうてい無理なことだろう。

正月に身延参りをする富士大石寺──これもまた“富士の清流”の現実である。創価学会出現以前の富士大石寺は、さまざまな謗法によって濁りに濁っていた。謗法の山である身延山久遠寺に、大石寺の者が臆面もなく参詣していたのだ。この史実は、隠蔽しようとしてもできることではない。

現在の日蓮正宗の法脈に邪宗の邪義邪法が忍び込んでいることは、これまで折に触れて指摘してきた。その象徴的な事例が、ニセ曼荼羅である導師本尊の存在である。

室町時代、江戸時代の古文書に記された富士大石寺の身延詣での史実は、日蓮正宗が謗法と馴れ親しみ、その謗法の影響を大いに受けてきたことを示して余りある。ニセ曼荼羅である導師本尊が、大石寺にスンナリ受け入れられる土壌が当時はあったのだ。

創価学会出現以前、日蓮正宗は謗法にまみれていた。それを旺盛なる折伏精神で浄化してきたのは、いうまでもなく創価学会である。

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