第373号
発行日:1992年2月1日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
閻魔法皇・五道冥官を配したニセ曼荼羅(導師本尊)は
どうやら日蓮宗の臨終曼荼羅・曳覆曼荼羅の亜流のようだ
〈導師本尊シリーズ・第2回〉
日蓮正宗の葬儀において奉掲される導師本尊には、日蓮大聖人が御本尊の中に認められたことのない「閻魔法皇」「五道冥官」の二つの名が書き入れられている。地獄を代表するこの二つの名が書き入れられることにより、この本尊が死者の成仏に特別の効果があると装ったのである。
つまり導師本尊(導師曼荼羅)は、「十王信仰」「地獄信仰」という迷信を背景につくられたニセ本尊だったのである。
日蓮宗身延派などにおいては、「閻魔法皇」「五道冥官」が書き加えられた曼荼羅を、特別に「臨終曼荼羅」と呼んでいるようだ。この「臨終曼荼羅」もまた、日蓮大聖人滅後に創作されたものであることは言うまでもない。
日蓮宗において「臨終曼荼羅」とは、生者が臨終を間近にして授かったものであった。地獄に堕ちるのではないかという不安を生者から拭い去るために、特別に顕され、与えられたものである。
立正大学の松村寿巌教授によれば、「閻魔法皇」「五道冥官」を配した「臨終曼荼羅」のうち、現存する最古のものは京都本圀寺第十六世日禛の筆によるものだという。
日禛は、天正二十(一五九二)年に「臨終曼荼羅」を書いている。天正二十年は、安土桃山期である。それ以降、江戸期の宝暦十三(一七六三)年に身延山久遠寺第四十三世理天院日見までのものが、日蓮宗では現存しているようだ。
日蓮宗の「臨終曼荼羅」の多くは、曼荼羅上部に法華経の要句を書き入れている。これもまた日蓮正宗の導師本尊と共通の特質である。
「閻魔法皇」「五道冥官」を配した「臨終曼荼羅」は、日蓮宗においては江戸期の寛文年間(一六六一年~一六七二年)を頂点に、時の経過とともにすたれていった。一方、日蓮正宗においては、今日に至るまで、「即身成仏之印文」として葬儀専用の曼荼羅として重用されてきたのだ。
それでは、今日の日蓮宗において、「閻魔法皇」「五道冥官」を配した曼荼羅は、まったくその姿を見なくなったのだろうか。いや、現在も日蓮宗では同様の曼荼羅は用いられている。
ただし、死者のまとった麻や木綿、白紙などの白衣の腰から上の部分に、「閻魔法皇」「五道冥官」を配した曼荼羅を書き、経帷子として使用している。この経帷子は別名・臨終曼荼羅、曳覆曼荼羅とも称する。今日では、より簡略化した曼荼羅を白衣に書き、行衣と称している。
死者の経帷子に書かれた日蓮宗の「曳覆曼陀羅」
この場合の臨終曼荼羅は、前に述べた臨終を間近にした生者に与えられた臨終曼荼羅とは意味合いを異にする。日蓮宗では、この経帷子を死者に装束として着させることにより、地獄の苦悩より脱せしめることができるとしているのである。
死者の追善をするにあたり特別の効能ありとする日蓮宗の経帷子は、日蓮正宗の導師曼荼羅と共通する役割を担っている。
日蓮宗において「閻魔法皇」「五道冥官」を特別に配した臨終曼荼羅(生者に与えられたもの)は、京都本圀寺第十六世の日禛のものが最古として現存しているが、そのほかにも、京都本満寺一如院日重、京都立本寺日泰、中山法華経寺日賢、池上本門寺日樹などのものが残っている。
臨終曼荼羅は、「十王信仰」「地獄信仰」に色濃く染まった民衆にとり入るため、日蓮宗各山でなかなかに重宝されたものであったようだ。
京都本圀寺の日禛が臨終曼荼羅を書いた天正二十年(一五九二 安土桃山期)以前に、わが日蓮正宗に導師本尊を認めた者がいれば、その者が日蓮宗各派に先駆けてニセ本尊を創出したことになるのだが、おそらく、本圀寺日禛より古い導師本尊は現存しないだろう。
それでは、いつ日蓮正宗に「閻魔法皇」「五道冥官」を配したニセ本尊が入り込んできたのだろうか。これは、あくまでも推測にしかすぎないが、桃山期、第十五世日昌上人の登座(一五九六年)から江戸中初期、第二十三世日啓上人退座(一六九二年)までの要法寺系九代の法主のあいだにおいて、用いられるようになった可能性が大である。
江戸時代、日本の各派仏教は寺社奉行に統率され、幕藩体制を積極的に担う役割を負わされた。それとともに、実質的に布教を禁じられ、収入拡大の道として葬式仏教化してゆくのである。
寺社奉行は、三代将軍の家光の時代(一六三五年)に制度化された。以来、各派仏教は民衆を抑圧する側にまわり、死および死後への恐怖を煽り、それを唯一まぬかれる方法として僧への従属を強いたのであった。
その従属の証しは、布施の額のみにより計られたといっても過言ではないだろう。僧は徳川幕府の強権と民衆の「死」への恐怖を最大限利用して、民衆から収奪し続けたのである。
当時、民衆救済の情熱を失った多くの僧が熱心におこなったことといえば、幕府の権威・権力を背景に民衆を支配することと、葬儀・法事を利用して金儲けをすることだけだった。臨終曼荼羅が世にはびこることになったのは、日蓮宗各派が急速に葬式仏教化していったからにほかならない。
総本山大石寺第十五世日昌上人(一五九六年登座~一六二二年寂)の時代は、京都本満寺の日重が盛んに臨終曼荼羅を顕していた頃である(現存する臨終曼荼羅のうち日重のものは最多で六体が確認されており、その六体は一六〇〇年から一六二二年のあいだに書かれている)。
本満寺日重が元和7(1621)年に書いた「臨終曼陀羅」の座配図
日重直接ではないにしても、京都ではびこったであろう臨終曼荼羅の影響が、京都要法寺出身の法主により大石寺にもたらされたとするのは、格別、無理な推論ではないだろう。
いずれにしても、日蓮正宗の本尊に邪宗の教理が反映しているということは、ゆゆしき重大事である。日顕一派が、日蓮大聖人の教法に忠実であろうとするのか、はたまた法義を曲げても権威のみに固執し、「現代における大聖人様」の書写した本尊はすべて正しいとするのか、導師本尊問題の行方は実に興味深いものがある。
ともあれニセ本尊をもって葬儀に臨む日蓮正宗僧侶が、明らかに日蓮大聖人の仏法に違背していることだけは確かなことだ。