第333号
発行日:1991年11月29日x
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
四菩薩は折伏の時は賢王と現れ摂受の時は僧と現れる
となれば僧俗の間に差別があるとする宗門の主張は外道だ
広宣流布を推進している創価学会に対して、いまの宗門が問題とすべきことなど本来、なにも存在していない。紛糾の原因は、宗門権力者の野望だけだ。
一見、混乱しているように見える問題の底には、実は野望を遂げることを目的にした宗門の、見境のないごまかしがあるだけなのだ。野望がすべての問題を引き起こしているのである。
民衆の幸福を忘却した宗門権力者の稚拙な言論は、自己の絶対性に信を置き彷徨しているだけのことだ。心を師とした者の哀れな逃避行の行きつくところは、御本尊様のみがご存知であろう。
ともあれ、仏法に逆らって倒れた宗門にとっては、仏法に依って起ち、大慈大悲に浴するしか方途がないことは、まぎれもないことである。
宗門権力者の末路など詮索する価値はない。賢者であろうとするならば、理想とすべき僧俗のあり方をあくまでも真剣に模索し続けることだ。それが、正義の大言論戦の大前提である。
「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」(三大秘法禀承事)
との御金言の如く、僧俗相和するときに広宣流布の平和楽土が現出するというのが、方程式である。
宗祖日蓮大聖人様仰せの真実は、実に単純で厳かであり、希望に満ちている。信徒の方々の築き上げたものの上に君臨するいまの宗門権力者の傲慢など、介在する余地は微塵もない。生命を澄まし原点に還ろう。
ここで、僧と俗とのあり方を、摂受と折伏という観点から少々、拝しておきたい。
「此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」(観心本尊抄)
この御金言はいうまでもなく、久遠元初自受用報身如来の一仏の境界、宗祖日蓮大聖人様の一身に備わった力用であられる。そして、その力用を現実の広宣流布の法軌の上に信心行躰として顕現させてゆくのが地涌の菩薩の使命である。
宗祖御所有の化儀は、僧とも俗とも顕れる不可思議なる境界より発し、四菩薩の眷属もその境界に感応し種々の姿を現ずるのである。
賢王を頭領とした在家菩薩に折伏を託したのは、有徳王の如き一切に通達した力量のある在家菩薩でなければ、弘通に耐えられないことを見通しておられたからである。なぜなら、末法は折伏が表となり、摂受が裏となることは宗祖日蓮大聖人様の御指南どおりだからだ。
故に日淳上人は僧俗の関係を水魚にたとえられ、宗門は水、学会は魚とされ、「水が腐っておっては魚は住まない。就中魚を殺して終う。従って常に清らかな水である事が大事である」。また、「宗門がでしゃばってはいけない。宗門は陰で学会が表でよいのだ」と仰せられている。
それは、前掲の「観心本尊抄」の如く、時を知り、三世の生命を見据えておられるが故である。四菩薩は永遠の生命の途上で時に適って、あるときは在家菩薩として折伏を行じ、あるときは僧となって摂受を行ずるのである。故に僧俗間に差別を存在させるのは三世の生命観に立脚していないがためであり、因果を無視した外道たる所以である。
池田大作名誉会長を中心とした創価学会の折伏は、まさしく昼夜を分かたず、肉体的にも精神的にも迫害を受け満身創痍になっての行躰であり、まぎれもなく宗祖日蓮大聖人様の賢王の化儀をいまに現しているのである。
さらに日淳上人は創価学会の使命に触れられ、
「今日、学会の発展にともなって、増々難が来るのでありまして、この諸難を打ち破っていかなければならないのが学会の使命であります。否、学会は向こうから来る諸難を待っておるのではなく、むしろこちらから諸難をつくっていって、その諸難を打破していかなければならない」
と御指南され、一難あるごとに折伏を推し進めた事実を挙げておられる。
三類の強敵をみずから呼び出したいま、大悪大善の法理に準じて言えば、創価学会の信心に依って、広宣流布の新時代がこの世界に必ずやもたらされるであろう。
「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(生死一大事血脈抄)との御金言の如く、血脈は信心に依りて守られてゆく。けっして儀式に依ってではない。戸田城聖第二代会長の“信心は大聖人様の時代へ還れ”との言葉の意味はあまりにも大きいと感ずる。
創価学会の信力と行力で、宗門をも日蓮大聖人様の時代に還さなければならない。これは、可能なことである。仏は民衆の声に応じて出現する。真実の僧も、また然りである。いまほど聖僧の名に値する僧が待たれているときはない。
大切なのは民衆の祈りである。怒りを超克した真剣なる民衆の祈りに、宗祖日蓮大聖人様の御慈悲は必ずや応じてくださるに違いない。