第266号
発行日:1991年9月23日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
日蓮大聖人の仏法が正に滅尽せんとした一大危機に至って
仏意仏勅の和合僧団である創価学会が出現したのだった
〈法難シリーズ・第24回〉
昭和三年は、広宣流布の流れの中で特筆すべき年である。
宗門においては、現法主である日顕上人の実父・日開上人が、この年の六月、猊座についた。この日開上人は、後に御本尊を誤写する大謗法を犯しながら、それを指摘されると、法主の権威をもって開き直った。
また宗務院総務当時は、身延系の清水梁山に論争を挑みながら、かえってその弟子に論駁され沈黙し、大石寺の面目をつぶした前歴を持つ。この清水を批判した阿部法運(当時)の拙劣な文を、時の日柱上人が怒り、阿部の僧階を落とし総務職をもはずした。
だが、それを恨んだ阿部法運は、日柱上人引き降ろしの黒幕として暗躍する(本紙第240号~第245号関連記事)。だが、この日開上人、行躰においても実に乱れたものがあった。
日開上人の大謗法の数々については、後日、詳述する。
いずれにしても日開上人は、日蓮正宗の法灯がまさに消えんとする、法滅尽の時を象徴するかのような法主であった。“昭和三年は、日蓮正宗の白法がまさに滅尽せんとしていた時である”との表現には、いささかの抵抗を示す方々もいるであろう。
だが、それは後に引用する戸田会長の発言、次号に紹介する日淳上人の御指南をもって納得いただけるものと思う。そしてそれを裏づける史実は、後に続くこの「法難」シリーズにおいて詳述することになろう。
意義深い昭和三年──。牧口常三郎創価学会初代会長、戸田城聖創価学会第二代会長の日蓮正宗への入信は、同年の六月頃と伝えられる。
池田大作創価学会第三代会長(現名誉会長)の誕生は、同年一月二日である。
昭和三年は、まさに仏意仏勅の和合僧団・創価学会の黎明の年である。この創価学会の黎明のとき、後に御本尊を誤写してしまう最悪の法主が、日蓮正宗に誕生したのである。宗門と創価学会の暗と明、この相対に仏法の不思議を感じる。
それ以降、宗門は暗をますます暗とし、創価学会は日蓮大聖人の教法を松明のごとく、宗内外の暗夜に高々と掲げていく。そして昭和二十年の終戦に至る。まさに法滅尽の時は、すなわち大法弘通の黎明期だった。暗即明であったのだ。
戸田会長は創価学会出現について、昭和二十八年に次のように話されている。
「学会の組織に、批判は絶対いけません。学会を離れて功徳は絶対ありません。増上慢のように聞こえるかもしらんが、畑毛の猊下(堀日亨上人)は、私にこんなことを申された。『あなたが、四百年前に生まれてきていたら、日蓮正宗はこれほど滅びはしませんでしたろう』と。
このおことばに対して、私はお答え申しあげた。
『猊下が、いまお生まれになったから、私も、猊下に三十年おくれて生まれてまいりました』と。
事実、猊下は、学会の力をつけるために、もったいなくも、生まれてきておられるのである。(中略)学会がこれほどに教学の力があるのは、猊下がいらっしゃればこそである。このように猊下は、学会出現のためにご出現になられたのである」(昭和二十八年五月十七日 東京・王子百貨店ホール 第二回足立支部総会)
日亨上人、戸田会長のあいだで交わされた不思議な会話である。戸田会長が、「猊下は、学会出現のためにご出現になられたのである」との直截な表現。
今日、このような発言をする大信者がいたならば、日顕上人は「憍慢謗法!」と叫ぶだけであろう。それだけ、信仰とは無関係の権威・権力が幅を利かせはじめたのである。
先の戸田会長の発言は、仏法の深遠さに裏打ちされているが故に、人々の胸奥に感動のうねりを起こすのである。
戸田会長は次のようにも話されている。
「それからもうひとつ。いまは法滅尽の時である。日蓮正宗の末寺の屋根は落ち、畳は破れはてて、まさに日蓮正宗はつぶれそうになっていたのである。この日蓮正宗をつぶれないようにしたのは、創価学会です。
堀猊下がいつか、『戸田さん、あなたがいなかったら日蓮正宗はつぶれたよ』とおっしゃったことがあった。このように、正宗がつぶれそうになったとき、学会が出現したのです」(昭和二十九年九月三十日 東京・豊島公会堂 九月度本部幹部会)
日蓮正宗がつぶれそうなとき、創価学会が出現したことは、まぎれもない史実である。