第240号
発行日:1991年8月28日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日
第五十八世日柱上人に対し日蓮正宗の宗会は辞任を勧告した
大正時代の宗門は権謀術数を駆使し政争に明け暮れていた
〈法難シリーズ・第18回〉
大正十四年十一月十八日、総本山大石寺において日蓮正宗の宗会が開かれた。宗会では、当初は日蓮宗身延派への対策を協議していたが、二十日になって、当時の法主である第五十八世日柱上人の不信任を決議、辞職を勧告したのである。
身延派対策を練っていた宗会が、突如、法主の不信任案を成立させ、辞職勧告を決議した裏には、宗会議員たちの密約があった。いまふうに言えば“クーデター”計画があったのだ。いま日顕上人ら日蓮正宗中枢は、法主に逆らう者は三宝を破壊する者であり、これに過ぎたる謗法はないとしている。だが、大正十四年十一月の時点で、日蓮正宗の宗会は法主に対し不信任を決議し、辞めろと勧告しているのである。
いまの日蓮正宗中枢は、法主に信伏随従することが信心だなどと言っているが、それでは、法主に辞職を迫った当時の僧侶たちは、全員が三宝破壊の重罪を犯したことになり、信心もない輩ということになるのだろうか。
クーデターを起こすにあたって交わされた盟約には、水谷秀道(のちの第六十一世日隆上人)、水谷秀圓(のちの第六十四世日昇上人)なども名を連ねている。これら、のちの法主上人たちも三宝破壊の重罪を犯したことになるのだろうか。
また、このクーデターの裏に、日顕上人の実父・阿部法運(のちの第六十世日開上人)がいたことはよく知られるところである。日開上人もまた三宝破壊の重罪を犯したと、今日にあって日顕上人は断言できるのだろうか。それとも、三宝破壊は信徒の場合のみ成立する罪だなどという、珍論を展開するのだろうか。
さて、大正十四年十一月十八日、宗会の初日に、正規の宗会進行の裏で密かに進められていた日柱上人追い落としの「誓約書」(全文)を紹介する。
少々、長くなるが注意深く読んでいただきたい。
「現管長日柱上人ハ私見妄断ヲ以テ宗規ヲ乱シ、宗門統治ノ資格ナキモノト認ム、吾等ハ、速カニ上人ニ隠退ヲ迫リ宗風ノ革新ヲ期センカ為メ、仏祖三宝ニ誓テ茲ニ盟約ス。
不法行為左ノ如シ。
一、大学頭ヲ選任スル意志ナキ事。
二、興学布教ニ無方針ナル事。
三、大正十三年八月財務ニ関スル事務引継ヲ完了セルニモ不拘、今ニ至リ食言シタル事。
四、阿部法運ニ対シ強迫ヲ加ヘ僧階降下ヲ強要シ之ヲ聴許シタルコト。
五、宗制ノ法規ニヨラズシテ住職教師ノ執務ヲ不可能ナラシム。
六、宗内ノ教師ヲ無視スル事。
七、自己ノ妻子ヲ大学頭ノ住職地タル蓮蔵坊ニ住居セシムル事。
八、宗制寺法ノ改正ハ十数年ノ懸案ニシテ、闔宗ノ熱望ナルニモ不拘何等ノ提案ナキハ一宗統率ノ資格ナキモノト認ム。
実行方法左ノ如シ。
一、後任管長ハ堀慈琳ヲ推選スル事。
二、宗制寺法教則ノ大改正ヲ断行シ教学ノ大刷新ヲ企図スル事。
三、総本山ノ財産ヲ明確ニシテ宗門ノ財産トスル事。右ノ方法ヲ実行スルニ当リ本盟ニ反スル者ハ吾人一致シテ制裁ヲ加ル事。
以上ノ箇条ヲ証認シ記名調印スル者ナリ。
大正十四年十一月十八日
宗会議員 下山 廣健
同 宮本 義道
同 松永 行道
同 下山 廣琳
同 渡邊 了道
同 井上 慈善
同 早瀬 慈雄
同 小笠原慈聞
同 水谷 秀圓
同 福重 照平
同 水谷 秀道
評議員 水谷 秀道
同 太田 廣伯
同 松永 行道
松本 諦雄
有元 廣賀
中島 廣政
佐藤 舜道
崎尾 正道
評議員 高玉 廣辨
同 早瀬 慈雄
同 富田 慈妙
西川 眞慶
坂本 要道
相馬 文覺
白石 慈宣」
前文は厳しい法主批判である。法主に対し「私見妄断ヲ以テ宗規ヲ乱シ」と決めつけている。これなど、いまの日顕上人にも該当する表現だ。ここで注目されるのは、法主を弾劾し隠退させることを「仏祖三宝ニ誓テ茲ニ盟約ス」としていることだ。
この「誓約書」に署名捺印した僧侶たちには、「三宝」(仏法僧)に当時の法主である日柱上人が含まれるなどといった意識はさらさらないことが判明する。
日顕上人を僧宝だとして、日顕上人を批判することは三宝破壊につながると、いまの日蓮正宗中枢は主張する。だが、大正十四年当時の日蓮正宗の御歴々は、法主の打倒を「三宝」に誓っているのだ。いまの日顕上人らの「三宝論」からすれば、父君・日開上人を含む先達の行動は、仏法を識らぬ輩ということになるが、いかがなものだろうか。
日柱上人の不法行為として、「一」から「八」までの具体的事例があげられている。その中でことに注目されるのは、「四」である。
「阿部法運ニ対シ強迫ヲ加ヘ僧階降下ヲ強要シ之ヲ聴許シタルコト」
阿部法運(のちの日開上人)は、この宗会に先立つこと約四カ月前に日柱上人により処分されていた。阿部は総務(今の宗務総監)の職よりはずされ、能化(法主になりうる僧階)より降格されたのだ。このため法主になることが絶望的となった。日柱上人引き降ろしのクーデターの背景には、阿部に対する処分問題が尾を引いていたのである。
「七」も興味を引く。
「自己ノ妻子ヲ大学頭ノ住職地タル蓮蔵坊ニ住居セシムル事」
大学頭(次の法主が約されているポスト)が当時は空席であったからだろう。日柱上人の妻子が住職のいない蓮蔵坊に住んでいたのだ。
「誓約書」はクーデターのプランを記している。後任の管長(法主)として「堀慈琳ヲ推選スル事」となっている。これについても、日柱上人を追い落としたはいいが、クーデターの隠れた首謀者である阿部法運が、いきなり法主につくのでは強硬な反対も予想され都合が悪いので、宗内に信望が厚い、のちの堀日亨上人がかつぎ出されたとするのが、一般的な見方である。
だが、これは本来の血脈相承のあり方にまっこうから対立するものである。おそらく、衆議によって次の法主が指名されるなどといったことは、宗門において過去に一度もなかったのだろう。今日、法主を絶対視する者たちは、この事態をどのように理解するのだろうか。そのうえ、クーデターから脱落する者に対して、「吾人一致シテ制裁ヲ加ル事」としている。まさに血判状をもって法主打倒を盟約しているのだ。
クーデターは実行に移された。大正十四年十一月二十日、日蓮正宗宗会は次の決議をする。
「宗会ハ管長土屋日柱猊下ヲ信任セス」
不信任決議とともに、辞職勧告も宗会で決議された。決議の主文は次のとおり。
「管長土屋日柱猊下就職以来何等ノ経綸ナク徒ラニ法器ヲ擁シテ私利ヲ営ミ職権ヲ乱用シ僧権ヲ蹂躙ス我等時勢ニ鑑ミ到底一宗統御ノ重任ヲ托スルヲ得ス速カニ辞職スル事ヲ勧告ス
大正十四年十一月二十日」
この日蓮正宗宗会の決議した日柱上人への批判に比べれば、本紙『地涌』の日顕上人への批判など、まだまだ生ぬるい。まして日柱上人には、失らしい失もなかった。それに比べ日顕上人は、たぐいまれな悪鬼入其身の破仏法者である。
いずれにしても、宗内の主だった僧侶が、時の法主上人を辞職させようと盟約、行動に移した歴史的事実は動かし難いものがある。この密約をおこなった者が、日柱上人退座後の日蓮正宗の主流となった。
繰り返すようだが、大正十四年当時、日蓮正宗において法主を批判することが、三宝破壊に即結びつくと考えている者はいなかったのだ。それが日顕上人のもとでは、法主は「現代における大聖人様」と称されるまでになった。それを許す日顕上人の慢心のほどが知れようというものだ。