報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

五章 綺語きご誑惑おうわく

地涌オリジナル風ロゴ

第224号

発行日:1991年8月12日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日顕上人は波木井実長の功績を史実以上に持ち上げすぎる
これでは日蓮宗身延派が手をたたいて大喜びするだろう

昭和五十三年一月十九日、総本山大石寺で「ある信者からの手紙」 が読み上げられた。この文書は宗門と創価学会の離間を意図して書かれたもので、宗門内の反学会気運を盛りを上げるのに大いに役立った。その内容は、創価学会攻撃を煽動するのみならず、攻撃の具体的作戦にまで及んでいた。

「ある信者からの手紙」

「ある信者からの手紙」

この「ある信者からの手紙」の作者は、のちに山﨑正友であることが判明した。山﨑は創価学会の顧問弁護士という立場にありながら、宗門と学会を離間させ、折りを見ては調整に入るというマッチポンプ的役割を演じながら、徐々に影響力を強めていこうと画策したのだった。

「ある信者からの手紙」は、宗門が創価学会を攻撃するにあたっての、いわば“作戦書”である。作戦内容は細部にわたっている。このたびの「C作戦」との類似点も多い。

「C作戦」の立案にあたっては、この山﨑の作成した「ある信者からの手紙」が下敷きにされたというのが大方の見方である。

山﨑は「ある信者からの手紙」で、次のように述べている。

「勿論、これまでの会長の功積(ママ)や学会の功を充分認めた上で、だからと云って謗法は許されないと云う論法で波木井実長を引き合いに出すのも一つの論法である」

宗門に対して大功労のあった池田大作名誉会長を波木井実長に擬して、攻撃せよと山﨑は明記しているのだ。実際のところ、日顕上人はいま、山﨑が書いたこの作戦指南書のとおりに動いている。

去る七月二十一日、総本山大石寺でおこなわれた全国教師指導会において、日顕上人は、

「七百年の昔、日興上人様が身延を離山遊ばされた、その意義は大功績の波木井実長のところを捨てて、そして真の仏法の建地を求められてこの富士においでになったわけであります。あのときの波木井実長の功績たるや、これは大変なものです」

と波木井の功績を強調。そのうえで、さらに次のように述べた。

「今日、創価学会の大功績、池田先生の大功績がある。大功績があるからなにもその悪いこともないし、悪いことを(僧侶が指摘し)言っちゃいけないんだ、というような考えは大きな誤りだ。どんなに功績があろうと誤りは誤りです。

だから日興上人様がその誤りを決然として正され、その正したことが聞かれないことにおいてやむをえず、身延を御離山遊ばされて大石寺を開創された。

大石寺の開創からちょうど七百年が昨年でした。この年にあのような問題が起こったということは、皆さん少し不思議と考えてください。大事な仏法の、実に、なんと言いますか、不思議なあり方だと思います。

ですから、いかに自分が功績がある功績があると言ったって、これだけ功績があるんだということを、この前も、僧侶の立っているところへ大勢いろんな学会の代表が来て言ったというじゃないか。功績があったって間違いは間違いですよ。間違いをきちんとけじめを立たせていくところに正法の正義たる所以があり、僧侶の道があると思うのであります」

非常にずるい論法である。ムード先行のレッテル貼りである。身延離山時の状況と現在の状況をオーバーラップさせることによって、功労者の池田名誉会長と謗法者の波木井をイメージの中で一体化させ、池田名誉会長を傷つけようとしている。

また日顕上人は「間違いは間違いですよ」と言っているが、金満化し堕落した宗門が権威・権力をもって信徒を隷属させようとしたのが、間違いの「一番の元」である。これについては、これまで本紙『地涌』でさまざまな視点から論及してきたので、ここでは改めて述べない。

ここで問題にしたいのは、日顕上人の力説する波木井実長の“功績”である。

波木井の功績について日顕上人は、

「(日蓮大聖人が)戒壇の御本尊様を顕し奉り、さまざまな意味において三大秘法の整足等、御法門においても法体においてもことごとく成就遊ばされたのが、身延九カ年の時期です。そこに大聖人様の御胸中を心安く安慰し参らせた、その功績は波木井さんであります」

としている。日蓮大聖人が法本尊たる戒檀の大御本尊様を顕し奉ったことを、波木井の外護と結びつけようとしている。まったくの愚論である。

日蓮大聖人は御本仏としての御境界から、戒壇の大御本尊様を御図顕されたのであり、そこに波木井の功績を云々する余地などない。

まして、戒壇の大御本尊様御図顕の機縁となったのは、熱原の純真な信徒たちの死身弘法の戦いあったればこそである。

日蓮大聖人も熱原の信徒たちについて、

「彼等御勘気を蒙るの時・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると云々、 偏に只事に非ず」(聖人等御返事)

【通解】彼ら(熱原の信徒)が処刑されたとき、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えたとのこと、まったくただごとではない。

と仰せられている。

日顕上人の主張するように、波木井の保障する身延での安穏な生活があったから、戒壇の大御本尊様御図顕などの事跡があったと考えるのは大きな過ちである。日蓮大聖人が発迹顕本されたのは竜ノ口の頸の座であった。人本尊開顕の書である開目抄を著され、初めて御本尊を御図顕されたのも佐渡流罪の御時であった。いずれも身命に及ぶ大難の最中である。

日蓮大聖人の御事跡を偲ぶとき、御法難との相関で御心を拝することこそ最大一ではあるまいか。そこには自受用報身如来としての随自意の御振舞があるのみで、波木井が「大聖人様の御胸中」を安んじ奉り、それが出世の御本懐を遂げられることに大いに益となったとする日顕上人の論は実に笑止である。

はたして波木井実長は、大聖人御在世中にあってどの程度の功労者であったのだろうか。

日蓮大聖人は、文永十一年五月十二日に鎌倉を出られ、五月十七日、身延に御到着になった。この日、日蓮大聖人は富木常忍に御状をしたためられている。

「けかち申すばかりなし米一合もうらずがししぬべし、此の御房たちも・みなかへして但一人候べし」(富木殿御書)

【通解】飢えは言いようのないほどである。米は一合も売ってくれない。餓死してしまうことであろう。この御房たちもみな帰して、ただ一人でいることにしよう。

この日蓮大聖人の御状からすれば、地頭の波木井は、日蓮大聖人の身延御到着にあって、行き届いたお迎えの手配すらしていないように思われる。そのため日蓮大聖人は餓死されそうになったと拝される。

身延に入山された日蓮大聖人は、草庵に入られた。その草庵は、三間×三間あるいはそれより小さいと推定される広さ程度の粗末なものである。その草庵すらも、日蓮大聖人が身延に入山されて五年後の建治三年には、ほぼ倒壊している。日蓮大聖人は廃屋のような草庵で夜露を忍ばれていたのだった。

「よるひを・とぼさねども月のひかりにて聖教をよみまいらせ・われと御経をまきまいらせ候はねども・風をのづから・ふきかへし・まいらせ候いしが、今年は十二のはしら四方にかふべをなげ・四方のかべは・一そにたうれぬ」(庵室修復書)

【通解】夜は火を灯さなくても月の光で聖教が読め、自分でお経を巻かなくても風が自然と吹き返してくれていた。ところが今年は十二本の柱が四方に傾き、四方の壁は一度に崩れてしまった。

屋根も破れ、壁や柱も朽ち倒れている様子が描写されている。

ほぼ倒壊した草庵を修復したのは、日蓮大聖人とともにあった御弟子の方々である。「人ぶ(夫)なくして・がくしゃう(学生)どもをせめ」(同)修復されたと記されている。いうなれば出家の方々が、素人大工をされて修復したのだ。波木井の寄進もなければ、手伝いもなかったことがうかがわれる。

これでも地頭の波木井は功労者なのだろうか。

草庵を修復された建治三年といえば、弘安二年の大御本尊様御図顕の二年前である。

この頃、波木井の外護の実績などほとんど認められない。しいて言うならば身延という日蓮大聖人の御在所が、地頭である波木井の領地内にあったということくらいではあるまいか。

それをもって波木井が身延における日蓮大聖人様の生活を安穏ならしめたと判断して、波木井の大功績ありとするのはいかがなものか。むしろ「三度までは諫暁すべし用いずば山林に身を隠さんとおもひしなり」(下山御消息)として、身延に入山された日蓮大聖人の取られた行動の帰結と見るべきではあるまいか。

昭和五十七年十二月十五日、日興上人と日目上人の第六百五十遠忌を記念して、「日興上人日目上人正伝」が日蓮正宗総本山大石寺より発刊されている。監修は日顕上人である。その本には波木井の信心について次のように書かれている。

「文永六年頃に入信した実長は、その後、強盛な信心に徹していたとは言いがたく、又、未だ深い仏法の義理にも通じていなかった。結局大聖人御在世中に信心が決定していなかった事が禍いして、のちに謗法を惹起する事になってしまったのである」

日蓮大聖人が身延に入山された文永十一年は、波木井の入信後五年ということになる。

日顕上人は正本堂建立の意義も変更したが、このたびは謗法者の波木井の評価まで大幅に変えようとしているようだ。狂乱のきわみである。

なお、波木井が家来に命じて、草庵を改築して十間四面の伽藍を造営したのは、日蓮大聖人御入滅の一年前、弘安四年十月のことであった。この年の五月、日蓮大聖人の御予言が的中して、蒙古の来襲があった。

二度目の蒙古来襲(弘安の役)が、波木井の日蓮大聖人への信仰をより深める契機となったことは否めない。波木井の貢献が事跡のうえで顕著に認められるのは、日蓮大聖人の最晩年の一カ年程度と見るのが公平ではあるまいか。

日顕上人は、山﨑による創価学会攻撃の作戦書「ある信者からの手紙」の指南に従い、宗門発展の大功労者・池田名誉会長を波木井実長に見立てて攻撃している。ところが、波木井にはさしたる功績はない。それでは困るので、謗法者の波木井実長が功労者であったと力説しているのだ。

あまつさえ、日蓮大聖人が出世の本懐を遂げられるのに、波木井の功績が大であったとするのは、いくらなんでも過大評価といえる。

石山の法主たるものが、史実以上に波木井実長の功績を称えることは、日蓮宗身延派を利することになりはしまいか。日顕上人の波木井ヘの過大な評価を、御歴代の御上人は納得されるであろうか。山﨑の献策に安易に乗っていては、一宗の法主としての見識を疑われる。

家族友人葬のパイオニア報恩社