報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十九章 菩薩ぼさつ涌出ゆじゅつ

地涌オリジナル風ロゴ

第687号

発行日:1993年8月19日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日恭が無惨な焼死をして後世に恥を残すこととなったのは
日恭が本質的には悪人、愚人、誹謗正法の人であったからだ
〈仏勅シリーズ・第1回〉

人の死にざまはいろいろある。病死もあれば横死もあり、刑死もあれば獄死もある。みずから命を断つ自殺もある。同じ病死であっても、苦悶の死もあれば安穏な死もある。頓死、急死もあれば、衰死もある。横死とひと口に言っても、焼死、溺死、水死、凍死、餓死、轢死、斬死、事故死など枚挙に暇がない。

死の意義から見れば、諫死、憤死、殉死、殉教、徒死(犬死に)、甘死、慙死などに分別することができる。同じ一個の人間の死であっても、死の意義は千差万別だ。

いずれにしても高等動物たる人間は、死期、死所、死にざまを選び、自己の満足できる死に方をしたいと思っている。とりわけ仏法を信ずる人は、生涯を広宣流布に捧げ、臨終にあっては余念なく唱題し、見事な死を遂げたいと願っている。

まさに臨終正念こそ、信仰者にとって一生の総仕上げといえる。

一つの生を終え、新たな生の始めとなる死は、永遠なる生命の結節点であり、見えざる来世を予見させるものでもある。それだけに、人間の死は人々に多大なる衝撃を与える。生物的には同じ死でありながら、死がさまざまな呼称で呼ばれる理由の一つは、このあたりにもありそうだ。

それにつけても竈に嵌まり込み、逃げるに逃げられず、上半身黒焦げ下半身生焼けの大石寺第六十二世日恭の死に様は、抜きん出て衝撃的である。

提婆達多は、釈迦の弟子となりながら退転し、破和合僧、出仏身血、殺阿羅漢などの三逆罪を犯し、釈迦および釈迦教団を迫害した。この提婆達多は、生きながら阿鼻獄に堕ちたという。

日蓮大聖人曰く。

「悪人は提婆に・かたらいしなり、されば厚さ十六万八千由旬・其の下に金剛の風輪ある大地すでにわれて生身に無間大城に堕ちにき」(法華経題目抄)

【通解】悪人は提婆達多の下にかたらうこととなったのである。その結果、厚さ十六万八千由旬もあり、その下には、最も堅い金剛の風輪さえある堅固な大地が割れて、提婆は生きながら無間大城に堕ちた。

「提婆達多が身は既に五尺の人身なりわづかに三逆罪に及びしかば大地破れて地獄に入りぬ」(法蓮抄)

【通解】提婆達多の身は五尺の人身であるが、わずかに三逆罪を犯して、大地が破れて地獄に堕ちてしまった。

この提婆達多の死にざまに比して、日恭の死はいかがなものであろうか。

日恭の死は、提婆に勝るとも劣らぬ無惨さ汚さである。この現証の厳しさは、日蓮大聖人の門流に属し大石寺貫首という責任ある立場にありながら、みずから数々の謗法を犯し仏法を壊乱し、真の仏子を迫害したことによる罪の深さ重さの故であろう。

中国の念仏僧・善導が柳の木より身を投げ、その後十四日間苦しみぬいて死んだこと、天台宗に真言の邪義を入れた慈覚の首と身が別の所にあること、同じく天台宗の明雲座主が木曽義仲に首を刎ねられたこと、などは故なきことではない。

日蓮大聖人が、御聖訓の随所で仰せのとおりである。これらと日恭の死とは同類である。

日恭は、生前にあっては大石寺貫首として日蓮正宗の“法主”の地位にあり、それなりの栄誉をものにした。だが日恭の死は無様にして恥を後世に残すこととなった。

日蓮大聖人曰く。

「生の難は仏法の定例・聖賢の御繁盛の花なり死の後の恥辱は悪人・愚人・誹謗正法の人招くわざわいなり、所謂大慢ばら門・須利等なり」(慈覚大師事)

【通解】生きているあいだの難は、仏法の定例であり、聖人・賢人の御繁盛を表す花ともいうべきであるが、死後に受ける恥辱は、悪人や愚人、とりわけ正法を誹謗した人が招くところの禍であって、ちょうどインドにおける大慢婆羅門や須利などと同じである。

日恭の死がなにを意味するかは、御本仏日蓮大聖人の御聖訓を拝するほど明々白々となってくるのである。

では、本紙『地涌』はなぜ日恭焼死の仏法上の意味を執拗に追及するのであろうか。その作業を精緻におこなうことは、法主本仏論、“不二の尊体”論など日顕宗が依り処としている謬見を、結果的に破すことになる。

だがこの「仏勅」シリーズにおいて、日恭の死にざまを云々することは、その目的のためではない。

日恭が焼死した昭和二十年六月十七日は、他国侵逼難である第二次世界大戦の最終局面にあり、直後の七月三日には戸田城聖創価学会第二代会長が出獄し、八月十五日には終戦となっている。

その後、出獄した戸田会長の死身弘法の戦いによって、日蓮大聖人の仏法は謗法の国・日本に弘まり、大法弘通の時を迎えるに至った。

ふり返って見れば、他国侵逼難たる第二次世界大戦は、正法興隆にいたる道程の始まりであった。この他国侵逼難の下にあっては、もう一つの直視すべき死があった。牧口常三郎創価学会初代会長の死である。

仏法上深い意義を有する他国侵逼難の下における、牧口会長の獄死、日恭の焼死。この二つの死を対比し、仏法上の意義を問い、死の価値を究めることは、おのずから両者がそれぞれ統率した創価学会(当時、創価教育学会)と日蓮正宗という二つの団体が、他国侵逼難という時代相において、どのような意義、価値をとどめたかを評価することにつながる。

そのことは、創価学会の仏法上における本質的な存在意義に迫ることともなる。さらには日蓮正宗の当代“法主”が僣聖増上慢と化し、なぜ宗団挙げて仏子を迫害するまでに狂乱してしまったか、その歴史的理由も定かとなってくるのである。

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