報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

八章 仏子ぶっし哄笑こうしょう

地涌オリジナル風ロゴ

第310号

発行日:1991年11月6日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日亨上人の大変つつましやかな聖僧ぶりに比較してみると
現在の日蓮正宗の僧侶たちはあまりに奢侈に流されている
〈法難シリーズ・第29回〉

先号と同様、総本山第五十九世日亨上人の「聖訓一百題」(『大日蓮』大正十五年四月号掲載)に学ぶ。

日亨上人は御登座にあたり、宗内僧俗に次のような「お願い」をされている。一つひとつを読むにつれ、聖僧とはかくあるべきと、心を洗われる思いである。少々、長くなるがそのままを引用する。

「一、從来の僧俗御一同が信念の表象を有形物で奉納なさるゝとき、即ち本山への御あげものは特に法主上人の御身に附く物に重きを置かるゝ樣に見へます、美麗なる袈裟とか法衣とか白無垢とかの衣類より珍しき貴き菓子菓實等の食料品より手廻りの小道具までが、他に比較して不平均に見へます、現に私の慈琳時代には法衣一枚御上げ下さる御方もなかつたが、日亨となつてから俄に何を差上げやう彼を献じやうとの仰せを聞きますが、私は其を受用する徳がありませうか汗顔の次第であります」(「聖訓一百題」一部抜粋)

猊座に登ってからは、いただき物が多くなり、当惑されている様子がうかがえる。しかも身の回りの物が多く、これまであったものと比較しても不釣り合いであると述べられている。そして、「私は其を受用する徳がありませうか」とまでおっしゃっている。

信徒が供養するのは当たり前とする日顕一派とは、大変な違いだ。

「今後幾年が此の平愚的羊僧が猊座を辱しむる事もなく月を追ひ年を積むに從つて、何等かの功徳を宗門に建つる事が出來たなら、其上には如何なる上等珍貴の衣食を納めても苦しくない處の人天の應供の資格が具備しませうが、先づ今の處では凡僧唖羊僧で徒に獅子座を穢すのみでありますから、無上の御供養は佛天に憚かり先師先聖に恐れ入つて受くる事が出來ませぬ、其れ計りでなく信施濫受の罪に依りて未來の惡果が恐ろしう御座ります」(同)

宗門に対してさしたる貢献もないうちに、「無上の御供養は佛天に憚かり先師先聖に恐れ入つて受くる事が出來ませぬ」と明言されている。信徒に御供養をさせてやっているんだ、無上の福運を積ませてやっているんだとふんぞりかえるいまの日顕一派とは、比べるまでもない。

日亨上人は、「信施濫受の罪に依りて未來の惡果が恐ろしう御座ります」とまで、おっしゃっている。いまの宗門に、御供養を受けて「未來の惡果」を恐れるほど、我が身を厳しく律し、御本仏の御威光を信じている者が何人いるだろうか。

贅沢の限りを尽くしている日蓮正宗僧侶は、ことごとく罰を受けることだろう。まして法主でありながら、夫人に途方もない浪費をさせて平然としている日顕などは、どのような仏罰をこうむることになるのだろうか。

日亨上人のお言葉一つひとつを噛みしめると、いまの日顕らが法脈に巣くう魔物だということが、ますます明確になってくる。日顕らは、御本仏の御威光など恐れていない。つまり、日蓮大聖人の仏法を信じていないのだ。

日亨上人は、「其れで私に下さるものは左の範圍に限りてをきたい」と、具体的に「本山への御あげもの」を限定されている。

「○衣類等は安直な毛織物、毛斯類、木綿類に限る高價な絹布は止めてください、つまり私の着用した御下りを所化小僧が憚かりなく受用し得らるゝものにしてほしい」(同)

末寺住職に至るまで、最高級の正絹の衣を着している日蓮正宗の現状を、日亨上人はどのように思われるだろうか。薄墨の衣は糞掃衣に由来し、ともあれ質素を基としなければならないのに、現実は墨染の衣より数倍上等な白い正絹を着している。なにが薄墨の衣だと言いたい。薄墨色であればどんなに高額なものでもよいのだろうか。

「○調度類の惣ては安直にして丈夫向のもの即ち實用一點張を主としたい」(同)

調度類は、実用第一にして簡素なものにしたいと仰せになっている。日蓮正宗の役僧たちのどこの寺が、この趣きを持っているだろうか。奥座敷に入れば座卓一つ、茶ダンス一つをとっても、何百万という超一級品を並べているところが多い。

「○食物等は成るべく普通の物(中流生活以下の)を御上げなされたい、珍しき物や高價な物は一切法度たるべし殊に羊羹饅頭等の生菓子砂糖量の多い物は衞生にも良からざれば寧ろ禁物にしてほしい」(「聖訓一百題」一部抜粋)

食物は「中流生活以下」の物にしてほしいとは、なかなか言えないことである。現在の日蓮正宗では、なにかあると一人何万円もの料理を取り寄せ、飽食の限りを尽くしているが、これは僧道から相当にはずれた行為だ。

食べたいだけ食べ、遊びたいだけ遊び、贅を尽くした調度品に囲まれ、寺族そろって浪費をする。そして、施すことは一切しない。これぞまさしく「悪魔の飽食」である。衆生の生命を食っているのだ。

日亨上人は、続いて次のようにも記されている。

「斯様に申上ぐると折角の供佛の志を折く事になる、信仰の善芽を萎まする事にもなる、白烏の恩を黒烏に報じ聖僧の恩を凡僧に報ぜよとの、宗祖大聖人の御仰せを用ひしめぬ事にもなる、何も貴僧に献上するのではない、御本佛大聖人に献上する積りでをる物を御辭退するのは却つて宜しからぬ事であると云はるゝであらう、御尤の事であるが私一代は私の愚衷を徹さして頂きたい、其で猶供佛報恩の御意趣が晴れぬなら、願くば私物でなくて公物にして献上せられたい、其は何であるか、

一、佛具である。

二、器具である。

佛具としては上は御堂より下諸堂の莊嚴具を始として諸式が餘り麁末である樣に思ふ勿體ない事である、毎日奉仕する私としては恐れ入る次第である、私共は襤褸を下げても、御本尊樣は莊麗に御祭りしたいものである」(同)

いまの日蓮正宗では、庫裡の改築に途方もない金を使っている者が随所にいるが、この日亨上人の仰せをどのように思うのだろうか。

「現在の堂宇も決して理想的ではないけれども此れは少額の費用では何ともならぬ、佛具の完成なら多額を要せぬ、又御前机、御經机、或は何々と幾部にも切り離して献上が出來る、必ず一人一氣にと云ふ譯でないから都合がよい、但し此は各位が思ひ思ひに御献上になつては統一がつかぬで諸堂を佛壇屋の店の樣にしては困る、何れも本山へ御相談の上にせられたい、此迄の佛具の献上に此傾向があつて随分無益になつているものが多い」(同)

日亨上人のきめ細やかな気遣いに、ただただ頭の下がる思いだ。

「又器具である此には本山専用の物もあるが、多くは御参詣の御客待遇に使用する物が多い、如何に御信仰からの御登山ぢやと云つても、麁末な器で麁浪な待遇を受けて滿足せらるゝ御方が幾人あらう、本山でも注意するは勿論の事であるが、行届く迄には容易ならぬ資力と日子がかゝる、御一同が思ひ附の物を本山に相談して御上げになれば造作もなく御自身も意持がよい、此に均霑する他の信友も滿足される事で相互奉仕の思ひも届く事になる、併し從来も斯る事が無つたと云ふ譯ではないが、私に盡してくださる分を此方に廻はされたいと念願するのである。

已上は別に各位に御願いすべき事を本題の改名に因んで長々と申上げて貴重の誌面を塞ぎたる事を幾重にも御詫するのであります」(同)

衷心から敬服するのみである。

日亨上人の「聖訓一百題」を読めば、現在の日蓮正宗に成り金趣味が蔓延していることの責任の「一番の元」が、日顕にあることが明確になってくる。

法主が贅に溺れ、日蓮大聖人の仏法の本義を忘れれば、末僧に至るまで皆、狂って信徒を思いやる心すら失うのである。

日顕ら日蓮正宗中枢は、ただ従わないことだけの理由で、信徒を処分することばかりに夢中になっていないで、いまこそみずからが、御本仏日蓮大聖人のお教えにかなった行躰であるかどうかを省みることが必要ではないだろうか。

家族友人葬のパイオニア報恩社