報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

八章 仏子ぶっし哄笑こうしょう

地涌オリジナル風ロゴ

第311号

発行日:1991年11月7日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

恬淡として飾らない第五十九世日亨上人の人柄にふれると
猊座神秘主義を振りかざす現在の日顕一派の異常が際立つ
〈法難シリーズ・第30回〉

昭和二年十一月二十日、時の御法主上人であった日亨上人は、「告白」という一文を宗内に示された。日亨上人はこの文で、退座の意思を表明されたのであった。

「告白」の序文には、「謹んで宗内道俗一同に告ぐ」と表題がつけられており、本文は、「第一、管長となりし因縁」「第二、管長の任期」「第三、管長辞職の素因」「第四、管長辞職の近因」の四つの章立てになっている。

まず序の「謹んで宗内道俗一同に告ぐ」の冒頭は、次のように始まっている。

「野衲が、管長法主職に就きしは止むを得ぬ事情の為であつて、始めから折を見て早晩辞職の積りであることは再々内表した事であれば、今回の辞職説が伝わりたりとて、門下は敢て驚くべきでない、却つて実現の早きを祝せねばならぬ。況んや事情を知悉せる評議員、宗会議員の任にあるものは事情に迂遠なる者に当然の理解を与うべきである」(「告白」)

日亨上人は、自分はやむをえず管長法主となったので、御登座のときから早めに辞職しようとの気持ちを持っていたことを述べられ、辞意の固いことを示されている。

この冒頭の文の後、日亨上人は「留任願」などが、次々と自分のところに送られてくることについて、

「若し陽に此月並的美動に托して隠に他を排○するの行動に陥るとせば、頗る宗門の天○不祥事と云わねばならぬが、其を発生せしめし一半の責任は慥に予が寡黙による」(「告白」、筆者注 ○印は判読不明な文字)

と記されている。日亨上人に対する「留任願」の背景には、次期法主の有力候補である阿部法運(のちの第六十世日開上人)に法を付嘱させたくない宗内勢力が動いていることを指摘されているのだ。法主の座をめぐって、当時の日蓮正宗内で葛藤があったことを、この記述は示している。

そこで日亨上人は、政治的な意図をもって退座するのではないことを、この「告白」の中で縷々、述べられるのである。日亨上人は、この序にあたる文を、「願わくば、至信に精読して頂きたい」と、しめくくられている。

本文、「第一、管長となりし因縁」は、次のように始まる。

「何故に十数年の隠遁生活を止めて、最も性格不相応の管長法主となりしやを、先づ一言せざるべからず。

大正十四年十一月の突発大事件について、多数の人は此の機会を以つて宗門興隆の為に敢えて予を隠窟より出して無上法位に推上せりと云へるが、或は御一同も然かく考えて、以つて兎も角為宗安心の胸を撫でおろされしならんが、予に取りては決して然らず。

事件の責任其遠因自己にあり如何なる手段を取りても一先づ此紛擾を静めざるべからずと決して、水谷、有元、小笠原、福重、四師の熱誠を容れたのである」(「告白」)

大正十四年十一月の、日柱上人に対する日蓮正宗宗会の退座要求によって起こった紛争を鎮めるために、日亨上人は登座したのだということを強調されている(本紙第240号~第245号に詳述)。

日亨上人に登座を懇請したのは、水谷秀道(当時の役職・評議員)あるいは水谷秀圓(同・宗会議員)、有元日仁(同・宗務院総務)、小笠原慈聞(同・宗会議長)、福重照平(同・宗会議員)らのクーデター派であったことを明らかにされている。この四名の陰には、阿部法運が暗躍していたのである。

さらに、日亨上人は次のようにも記されている。

「但し、大破裂の上には事後の収拾こそ必要と考え、早くて三ケ月遅くて六ケ月を己が責任逃避より起れる事件の為の懺悔奉仕即ち罪亡ぼしの為に粉骨する考えにて殆ど断頭台上に昇る心持ちで晋座したのであるが、少数なれども殊死躍動の人々の為に円満の収拾も出来ず、さりとて中途放棄もなりがたく、成り行きに引きずられて三ケ月も六ケ月も夢と去ったのである」(「告白」)

日亨上人が登座されることを、「断頭台上に昇る心持ちで晋座した」と述べられていることは、実に注目される表現である。猊座自体を神秘化しようとする現在の日蓮正宗中枢としては、あまり好ましくない表現ということになるのではないだろうか。

猊座にありながら日亨上人がこうした表現を使われていることは、間接的であれ、猊座にある者が特別の境界を有しているなどといった猊座神秘主義を否定することになりはしないだろうか。

猊座に登れば日蓮大聖人と同じ境界にあるといった法主絶対論を主張する者がいるが、日亨上人が猊座にあって、一日も早い退座を願われていたということは、実に俗っぽい人間的な感情である。

猊座にある者は御本仏と一体不二の境界にあるといったことは、ウソなのである。

それは、日亨上人が「聖訓一百題」(『大日蓮』大正十五年四月号)で、登座されての心境を、「但し法階が進んで通稱が變更したから從つて人物も人格も向上したかどうか私には一向分明りません」と率直に述べられていることからも明らかである。

日亨上人は、猊座に登られてからの大坊移転も不本意だったようだ。

「此れを以つて予の大坊移転は漸く大正十五年四月九日であつた。其も代替虫払会が目前に迫るので旧隠坊からの通勤は大いに穏当でないと云う多数の意見で、自分は一生不動と定めておいた浄蓮坊を出でたのである」(「告白」)

日亨上人は、大坊よりも住み慣れた浄蓮坊を好まれたようだ。そのうえで、さらに心情を吐露されている。

「斯様な有様は根本的に自分一代は変態の中継法主で、強いて御大事を相承して立派な法主猊下となつて見ようと云う心底は毛頭なかつたのである。先づ此事は昨年已来の予の言動に徴して御了解なされたいと切望する次第である」(同)

ここで日亨上人が、「変態の中継法主」という表現を使われていることも驚きである。現在の日蓮正宗中枢の権威主義者たちは、「変態の中継法主」という表現を見たら、卒倒するのではあるまいか。猊座神秘主義者は、この言葉をどのように理解するのだろうか。

しかも日亨上人は、「立派な法主猊下となつて見ようと云う心底は毛頭なかつた」とまでおっしゃっているのだ。

法主の座にあってもなんの気負いもなく、恬淡としたものである。それでいながら、近代の日蓮正宗の中にあって傑出した碩学であり、自然と合掌したくなる尊い人柄であったのである。

「猊下に信伏随従しなければ堕地獄だ!」と、青筋を立てているいまの日顕一派と天地雲泥の差がある。信伏随従しなければ堕地獄だと口角泡を飛ばしている人々に言いたい。

「猊座にありながら、信徒が信伏随従できないほど瞋り狂って人望のない法主の罪と罰は、どのようなことになるのだろうか」

そもそも、信徒が自分に従わないといって怒る僧がいてよいものだろうか。ひとえに僧本人の人徳のなさの故である。己の不徳を省みるべきだ。

日亨上人の飾らない人柄に触れると、日顕率いる現在の日蓮正宗中枢の異常性が際立って見えてくるのである。

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