報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

八章 仏子ぶっし哄笑こうしょう

地涌オリジナル風ロゴ

第309号

発行日:1991年11月5日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

女犯の法運は衆望のある亨師を利用して柱師を退座させ
隠し子がいながら独身を装い奸計をもって猊座を狙った
〈法難シリーズ・第28回〉

阿部法運(のちの第六十世日開上人、日顕の父)は、日蓮宗系の学匠である清水梁山に下手な論争を仕掛けたことで、宗内ナンバー2の座から失脚してしまった。

また阿部には、はなはだしい行躰の乱れもあり、時の法主である総本山第五十八世日柱上人のとられた阿部法運への処置は、きわめて妥当といえる。

事実、阿部法運は女犯の罪を犯し、二十三歳年下の女性に子供を産ませ、認知もせず、私生児として育てさせた。それでいながら、みずからは「独身」で通し、「聖僧」を装っていたのだ。

ちなみに阿部法運は、十五歳当時(明治二十一年)に結婚し、一年余で離婚した。結婚した直後の明治二十二年七月に、阿部法運は得度した。得度の背景には、痴情のもつれがあるとされる。阿部法運は明治二十三年、十六歳のときに離婚している。したがって、出家後まもなく阿部法運は「独身」となったのである。

話をもとにもどそう。阿部法運は女犯の破戒僧であり、問責を受けて当たり前の身でありながら、日柱上人の善導を逆恨みし、日柱上人を猊座より引きずり降ろすことを、すぐさま画策し始めた。

過ちを指摘されるや逆恨みし、逆上して攻撃をする。親の阿部法運も、子の日顕もよく似た習性を持っている。

阿部法運が失脚させられたのは大正十四年七月だが、その直後に日蓮正宗宗会の多数派工作を開始し、四カ月後の十一月には衆を頼んで、いったんは日柱上人に辞意を表明させた。阿部法運の陰謀が功を奏したのだ。

阿部法運は、日柱上人を引きずり降ろしたあと、すぐ自分が猊座に登ることを、クーデターを前にしての密謀段階で表明していた。だが、それはクーデター計画を成功させるうえで、どうしても手を結ばなければならなかった有元廣賀派などが承諾せず頓挫する。

しかし、日蓮正宗内の派閥を超えて衆望のある堀日亨上人を担ぎ出すことによって、宗内をまとめ反日柱上人勢力を野合させるのに成功した。

阿部法運は、行躰はすこぶる悪いが、密謀と政治手腕はなかなかのものがあった。なお、当時の日蓮正宗における派閥(法類と血族の混淆)間の争いは、今日の比ではなく熾烈をきわめていた。猊座をめぐって、脅迫や金のやりとりが横行するほどに腐敗していたのだ。

阿部法運が黒幕となって起こした大正十四年十一月のクーデターは、文部省という国家権力の介入を受け、翌大正十五年三月にやっと解決した。阿部法運らの担ぎ出した第五十九世堀日亨上人の誕生である(本紙第240号~第245号に詳述)。

ここで断っておかなければならないのは、堀日亨上人がまったく私利私欲のない、立派な行躰をされた、猊座に登るのに実にふさわしい方だったということだ。みずからは猊座に登りたくなかったが、宗内の大混乱を収拾されるために、泥をかぶる覚悟で御登座されたのであった。

一方、日柱上人の引きずり降ろしに成功した阿部法運は、自分の子供を認知もせず、あいかわらず「聖僧」を装い、登座の機会を虎視眈々と狙っていた。

事実、阿部法運は、宗内の安定を望む日亨上人の善意を利用し、能化に復活。復活するや、今度は日亨上人が退座するように仕向け、自分が猊座に登るための宗内多数派工作に余念がなかった。

ドロドロに穢れてしまった明治以降の日蓮正宗内にあって、日亨上人の存在は実に如蓮華在水のようなものであった。

ここに日亨上人が『大日蓮』(大正十五年四月号)に寄せられた、「聖訓一百題」(御登座前からの連載もの)を紹介したい。現在の権威主義の塊のような日顕、信徒に奉仕もせず、ひれ伏すことのみを要求する日顕と比較して読めば、いっそう興味深いものがある。

日亨上人の場合、金屏風を背に金縁メガネの奥から睨みつける日顕とは、ずいぶん違う親しみやすさがあるのだ。猊座に登る方は、このような御僧侶であってほしい。

日亨上人の「聖訓一百題」の冒頭には、御登座後の心境について、次のように記されている。

「私は三月の初旬に改名を致しました。其は舊名を廢したのではない、世間公開に用ゆる權利義務の附帶する通稱が、宗制寺法と云ふ僧侶の法律の定めに依つて、名を變更したのであります」

御登座されたことにより、堀慈琳から堀日亨となったことについて、なんの気負いもなくこのように述べられている。実に屈託のないお人柄をうかがうことができる。

続いて、

「尤も戸籍役場の臺帳の名が變更せられて今後は永久に日亨と云ふ名を公私ともに用ひねばならぬ事になりました。併し舊名の慈琳と云ふ名は剃頭の小師たる廣謙房日成師が初夢の嘉瑞に依りて附けられ、日亨と云ふ諱は大師範日霑上人が御附けになつたもので、共に私に取つては思ひ出深き稱呼であります、雪仙だの水鑑だの惠日だのと云ふのは、寧ろ私自身に撰んだと云ふやうなものでありますから、何でもよいやうなものでござります」(「聖訓一百題」)

と述べられている。そして、このあとに続く日亨上人のお言葉は、猊座に登られての率直な心境を述べられている。

「但し法階が進んで通稱が變更したから從つて人物も人格も向上したかどうか私には一向分明りません」(同)

周囲の者に、「現代における大聖人様」「大御本尊と不二の尊体」などと呼ばせている三宝破壊の日顕と比べるまでもない器の大きさ、心の清浄さである。このようなことを吐露してはばからない僧侶が猊座にあったことがあるのだ。それに対して今日の日蓮正宗は、あまりにも権威主義化してしまっている。

「一年一年と老衰の境に下りて白髪が増へる氣力が衰へる役には立たなくなる、此等の事は確實でござりますが、信仰の向上人格の昇進は保證は出來ませぬ、慈琳が日亨と改名しても矢張り舊の慈琳の價値しかありませぬ事は確實であります」(同)

人としての徳の高さ、僧としての境界の尊さが、ひしひしと伝わってくる。法主の座にあっても、御本仏日蓮大聖人の弟子として、僧分をまっとうしようとのひたむきさがある。近くによって学び、亀鏡としたい衝動にかられる。

そして、日亨上人は日蓮正宗内の僧俗に、「お願い」を具体的に記されている。「お願い」の一つひとつに、日亨上人が聖僧であることがにじみ出ているのである。

次号に、その詳細を紹介する。

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