報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十七章 師弟してい倶生ぐしょう

単行本「『地涌』からの通信(15)」おわりに

師に教えられたままに戦い福運を享受する
振り返ってみれば我が人生は錦に彩られていた

仏縁深厚にして正法に巡りあった仏子らは、法を謗ずる者を徹して責めなければならない。それこそが、みずからの一生を黄金に変え、無限の福徳を積む方法である。

この正法に逢わなければ、一人の人間として、他の人々や社会にどれほどの影響力を行使できただろうか。一生空しく過ごして万歳悔ゆるがごとき人生しか送れなかったのではあるまいか。

それが仏法に縁し、師に邂逅し、思わぬ人生の展開を見た。教えられるままに戦い、振り返って見れば、我が歩んできた道は黄金色に輝いている。

その時、その時の人生の断面において紆余曲折と思えたことも、仏法の冥益に照らされ、錦に織られた我が人生を彩る金糸銀糸と変わっている。一圓に思い切り、我が人生を法華経に投げ出すことが、最高に充実した人生を歩む秘訣であろう。

人は言う、「生は死への歩みであり、死を忘却することしか無常を免れることができない」と。この死への恐怖を断ち切り無常を克服するには、無常を無常として見極めたうえで、仏法に説かれる三世の生命観に立脚すべきだろう。

その永遠の生命観に立ち、我が今生をいかに光り輝かせるかを考えなければならない。もっとも価値ある人生を歩まなければならない。

「悲いかな生者必滅の習なれば設ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず、今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり、悲想の八万歳未だ無常を免れずとう*利の一千年も猶退没の風に破らる、況や人間・閻浮の習は露よりも・あやうく芭蕉よりも・もろく泡沫よりもあだなり、水中に宿る月のあるか・なきかの如く草葉にをく露のをくれ・さきだつ身なり、若し此の道理を得ば後世を一大事とせよ」(聖愚問答抄)

財物を貯えようとも、虚栄を追おうとも、愛しき人がそばにいようとも、行き着く先は死である。仏の説かれる後世を思うことなく、刹那の思いに身を焦がし、愛別離苦に翻弄される人生であってはならない。我が永遠なる生命の変革のために、いまこの時を戦いたいものだ。

仏子らが限りない福徳を積むために、戦うべき対象が眼の前にいる。破るべき邪が横行する。封ずるべき悪が存在する。邪悪を行動原理とする魔が跋扈している。

憎むべき魔であるが、この魔の存在なくしては、仏子らの成仏もままならない。仏子らは魔を呼び起こすまでの戦いをし、ひとたび魔が出来したならば全力をもって呵責すべきだ。

仏法を破壊する者らを見て、黙視漫然としていることは、魔の軍勢に与するのに等しい。脇目もふらず執拗に追い詰めなければならない。

日顕宗の出家も在家も、ことごとく仏法を破壊する輩である。願わくば、この魔民らと大いに戦い、後世に備えたいものだ。後世に備えるとは、即ち、今世を師と共に戦い師弟の絆を深めることである。

「歓喜仏の末の世の覚徳比丘・正法を弘めしに無量の破戒此の行者を怨みて責めしかば有徳国王・正法を守る故に謗法を責めて終に命終して阿しゅく*仏の国に生れて彼の仏の第一の弟子となる、大乗を重んじて五百人の婆羅門の謗法を誡めし仙予国王は不退の位に登る、憑しいかな正法の僧を重んじて邪悪の侶を誡むる人かくの如くの徳あり、されば今の世に摂受を行ぜん人は謗人と倶*に悪道に堕ちん事疑い無し」(同)

来世において、「仏の第一の弟子となる」のがよいか、日顕らと「倶*に悪道に堕ち」るのがよいか。その答えはあまりにも明らかである。破仏法の者らと身命を懸けて戦った者が、「仏の第一の弟子」となれるのだ。邪悪の日顕らを誡める者こそが、福徳を無限に積む人である。仏意仏勅の団体である創価学会を守り抜く人が、再び師と共に来世を戦う弟子と生ずる。

1992年8月

家族友人葬のパイオニア報恩社