報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十四章 権力けんりょく欺罔ぎもう

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第811号

発行日:1995年1月1日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

権力者と日顕ら悪僧が結託しいかに策略をめぐらそうとも
善を尊び悪を挫く仏子らの大音声が魔の蠢動を破砕する

日蓮大聖人曰く。

「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(百六箇抄)

【通解】法というものは自然に弘まるものではない。人が法を弘めるからこそ、人と法がともに尊いのである。

信仰した者が戦わなければ、いかなる高次の宗教も滅亡する。内道も外道に破れ、大乗も小乗に破れ、歴史の遺物となる。

釈尊が誕生し解脱し法を説いたインドに仏教はなく、釈尊の戦いの地は遺跡となり、ヒンズー教の迷妄に囚われた人々が差別と貧困にあえぐ。

聖なる牛が悠然と草を食み、かたわらで人が牛以下の生活を強いられている。マハラジャは金銀宝石で身を飾り、豪壮なる大邸宅に財宝を蓄え、宗教的差別に守られ、栄華を永遠のものとする。

南方に伝わった仏教はインドネシア・ジャワ島に及び、その繁栄ぶりは、八世紀から九世紀にかけて造られたといわれるボロブドゥールの世界最大の石造寺院にしのぶことができる。

だが、ジャワ島において繁栄した仏教は、その後のヒンズー教の浸透によりほぼ壊滅した。そのヒンズー教もイスラム教徒たちの武力に屈しジャワ本島から追われ、バリ島に逃れ、一部勢力を温存するにとどまっている。現在、インドネシアにおいてイスラム教徒は人口の九〇パーセントを占める。

日蓮大聖人曰く。

「大集経に大覚世尊・月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり所謂我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固・次の五百年には禅定堅固已上一千年次の五百年には読誦多聞堅固・次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年次の五百年には我法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん等云云」(撰時抄)

【通解】釈尊は月蔵菩薩に対し語った大集経のなかで、つぎのように未来の時を定めている。いわゆる「私の滅後、最初の五百年間は、仏道修行する者がさかんに解脱し、悟りを開くことができる時代であり、つぎの五百年間は衆生は大乗を修して、深く三昧に入り、心を静めて思惟の行をおこない(以上千年)、つぎの五百年には経典をよく読み、誦し、説法を多く聞こうとする時代、つぎの五百年には寺や塔が多く造立され、迹門の教えによって救われる時代(以上二千年)、つぎの五百年には、衆生はたがいに相争い、憎み合い、殺し合い、論争が絶えることなく、我が仏法が滅び効力がなくなるであろう」。

相対的に優位な教えをもつ仏教であっても、迷信的呪術的なヒンズー教の前に敗退する。慈悲を体現する仏菩薩も、破壊神であるシバ神の眉間に開く第三の眼から噴き出された火炎の恐怖の前には無力であるというのであろうか。

民衆を侮蔑し、人間の無知につけ入り、恐怖をかきたて、人々の心を縛り支配するエセ聖職者たち――その典型をヒンズー教のエセ聖職者に見ることができるが、日本においても同様の現象を認めることができる。

伝来した仏教は、土着信仰と結びつき神仏混淆とあらわれ、ヒンズー教の影響を受けた密教が法華経を崇める天台宗をも侵食した。

インドやインドネシアの仏教がヒンズー教に滅ぼされたのと同様に、日本の仏教もヒンズー教と通底する呪術的密教によって真髄を断たれ、土着信仰と混淆し法を希薄化したのである。

正は邪に破れ、善は悪に屈した。邪悪なるものは人々の貪瞋癡につけ入り、はびこるのである。邪悪は差別を好み、平等を憎み、不幸を喜び、幸福を妬む。邪悪は卑怯者にとりつき勇者を恐れる。邪悪なるものは無智な者に近づき英邁なる人より遠ざかる。邪悪と対峙する正善は、平等、幸福、勇気、英知などと次元を一にする。民衆救済を願う仏は、民衆にそれらが具わることを望む。

東漸した仏法が全世界的において変質、滅亡したとき、アジア東辺の島国である日本に末法の御本仏・日蓮大聖人が出現した(十三世紀)。日蓮大聖人は慈悲をもって末法の苦海に沈む民衆に平等を教え、勇気、英知をもって生きることを諭した。

だが、日蓮大聖人の法燈を連綿と伝えなければならない教団が、心を一にしえたのは大石寺三代までであった。四代になると、大石寺を二分して反目しあった。日蓮大聖人滅後わずか五十二年、身延離山後四十四年にして、大石寺は騒擾の場となってしまったのである。また、法義の上でも変節した。室町時代以降、仏教全般が葬式宗教と化したが、大石寺も例外ではなかった。

江戸時代には、ニセ漫荼羅である「導師本尊」をもって人心を誑惑し、死への恐怖につけ込み民衆を支配し、仏と民衆との間に割って入り宗教的特権階級を形成し、大石寺の「僧」はバラモン化していった。同時に徳川幕藩体制を補完する一宗派として栄華をなした。

見方によっては、江戸時代の仏教は、民衆の恐怖心に依拠して、臨終の場に呪術的に関与し、教えはヒンズー教化し、「僧」はおしなべてバラモン化していったともいえる。だが、為政者が「僧」の妻帯を禁じていたため、「僧」らはいちおう聖職者の体面を保ってはいた。

しかしながら、それも明治時代に入って法的規制がなくなるや一挙に瓦解し、「僧」は女犯を常とするに至った。以降、妻帯による血閥の形成が日本の仏教をいっそう頽廃させる。

仏法が荒廃の極みに達したとき、創価学会の胎動がはじまる。ところが、日蓮大聖人の仏法をもって民衆を救済しようとする創価学会の牧口初代、戸田二代会長らの活動に対し、神道に染まった軍事国家は弾圧をもって報い、牧口会長は獄死した。

日蓮大聖人曰く。

「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(聖人御難事)

【通解】過去および現在の末法の法華経の行者を軽蔑したり、賤しんだりする国王や臣下や万民は、はじめは何事もないようであるが、かならず最後には滅亡の悲運に堕ちないものはない。

「山は玉をいだけば草木かれず国に聖人あれば其の国やぶれず、山の草木のかれぬは玉のある故とも愚者はしらず、国のやぶるるは聖人をあだむ故とも愚人は弁へざるか」(日女御前御返事)

【通解】山は玉を抱いているから草木は枯れない。同様に国に聖人があるから、その国は滅びないのである。山の草木が枯れないのは玉があるためであることを愚者は知らない。同じく国の滅ぶ原因は聖人を迫害するためであることを愚人はわきまえないのである。

戦後、戸田会長は焦土に一人立ち、仏法史上未曾有の法戦を開始した。その教線は現在、池田SGI会長により世界に向かって飛躍的に展開されつつある。

しかし、果敢なる仏法指導者の指揮を恐れ、仏子らの形成する和合僧団の活動を妬み、その鉄桶の団結を破壊しようとする魔の蠢動はいよいよ盛んである。

奸臣は忠臣を装い、奸言は忠言に似る。真実の仏法指導者を殺めようとする仏法破壊者は、世人を煽動し仏子の信仰を破壊し、権力者との結託をもって思いを遂げようとする。魔は世人を煽るに底の浅い「公序良俗」を説き、仏子の信仰を破るには仏語に威を借りる。

仏意仏勅の僧伽である創価学会の前途をはばまんとする魔の跳梁は、この新年にあっても絶える兆しはない。とはいえ、野合した魔の軍勢が異体同心の仏の軍勢に勝つことはない。

日蓮大聖人曰く。

「異体同心なれば万事を成し」(異体同心事)

シアトルで買春した日顕が、末法の御本仏・日蓮大聖人の三徳を利用し民衆を誑かそうとして、「唯授一人血脈相承」などというたわごとを口にしようとも、いずれその化けの皮ははがされる。

日米の裁判で、日顕の買春の有無をめぐっての実質審理がなされれば、日顕が好色坊主であることは洋の東西の常識となるだろう。

その日顕の軍師として暗躍している山崎正友が、いかに策をめぐらそうとも、創価学会は微動だにしない。山崎は、出獄後に記述した文章のなかでことあるごとに、みずからの信仰心の不動を力説しているが、信仰心ある者が創価学会の墓園建設に際し、顧問弁護士の立場を利用して四億五千万円もの裏金を懐にすることなどはない。

はたまた、日蓮正宗大講頭の任にありながら、引っ越しのとき、仏壇を借金のカタに人に渡し、豪華なダブルベッドのみ新居に運び女色に溺れるなどという低劣な選択をすることなぞ、絶対にない。山崎に信仰心は露ほどもなく、あるのは色と欲である。

龍年光も信仰心もないのに信仰を口にし、売僧に媚びて地位を確保し、檀徒の前で幹部面し自己顕示欲を満足し、創価学会解散の署名運動などで数千万円もの金を日顕からもらっている。これらの色と欲にまみれた仏法破壊者らが、群狐となって創価学会をおとしいれようとしている。

正義を恐れる人々は、各界に存在する。群狐は狡智をめぐらして、境界を越えた狐狸の野合をもって、師子を包囲しようとする。闇の世界に通じ、恫喝をもって裏社会の生き血を吸う警察官僚あがりの大臣と結び、邪宗の輩との共同行動をもって最後の悪あがきをしている。

魔の悪事はかならず露見し滅ぶ。仏の真実は開顕し勝利する。それを現実のものとするのは、仏子らの不惜身命の戦いである。

日蓮大聖人曰く。

「善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり」(減劫御書)

【通解】善悪の根本から枝葉までを悟り極めているのを仏というのである。

仏法破壊者のはかりごとの罠が巧妙であれば、仏子らはその智慧をもって見破るべきである。恫喝がすさまじければ、火を吹くような反論をもって反撃すべきである。日蓮大聖人の仏法を奉ずるものが六師外道にしてやられ、日蓮大聖人の仏法が葬式仏教や呪術的信仰に敗退することがあってはならない。仏子らの英知と勇気と行動が、人々の心の暗部に仏の法の光を照射する。

日蓮大聖人曰く。

「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(佐渡御書)

【通解】悪王が正法を滅亡させようとするとき、邪法の僧たちがこの悪王に味方をして、智者を滅ぼそうとするとき、師子王のような心を持つ者が必ず仏になることができる。

この一年もまた、己が胸奥に金色の歴史を刻もう。

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