報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十四章 権力けんりょく欺罔ぎもう

地涌オリジナル風ロゴ

第812号

発行日:1995年1月9日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

山崎正友は仮出獄をした直後から日顕に密書を出していた
やはり山崎は軍師として日顕に裏で策略を授けていたのだ
 〈山崎正友密書編(1)〉

平成五年四月二十七日に山崎正友が栃木県の黒羽刑務所を仮出獄した直後、山崎が日顕宛に書いた密書一通、その他「七月一日」付、「十月十一日」付の密書各一通を、本紙『地涌』編集部は入手した。

そこで当編集部は、この三通の密書を解説つきで全文公開することとした。

山崎が、時の日蓮正宗法主に密書やあやしげな極秘情報を送り、創価学会への猜疑心をかきたて、自己の思いのままに玉座を操る手法は、過去にも見られた。

いまでは周知のこととなっているが、日達上人の晩年、山崎は「ある信者からの手紙」(昭和五十三年一月)、「今後の作戦」(同年三月末)、「現下の状勢について」(同年九月二十四日)、「海外について」(同年同日)といった密書を同上人に出し、創価学会攻撃に宗門をけしかけた。

山崎は昭和五十三年春当時、日達上人の病院でのカルテを見せながら、「どうだ、玉は掌中にしたぞ」と部下の一人に自慢している。主治医以外は本人すら見ることのできない病状を記すカルテを山崎は手中にするほど、日達上人に取り入っていたのだった。

山崎は、昭和五十三年五月一日から八日にかけて杏林病院に、同月十八日から二十四日にかけて聖路加病院に、日達上人を入院(人間ドック)させた。

この間、山崎は医者に頼んで日達上人を「面会謝絶」として、自分と「お仲居」の光久諦顯以外の者が日達上人に会えないようにし、同上人に入る情報を自分がすべてコントロールした。目的は、同上人を“洗脳”するためであった。

後日、山崎は自分の口から部下の一人に、この“洗脳”がキーポイントであったことを語っている。だが、昭和五十四年七月二十二日、日達上人は急逝した。山崎は掌中の玉を逸したのである。

山崎は新たに登座した法主・阿部日顕を新たな掌中の玉としようと企てる。そこで山崎は同年八月~九月にかけて、「申し上げるべきこと(一)」「申し上げるべきこと(二)」を下地に日顕に話をした。

ところが日顕サイドには、山崎の謀略家としての本性を示す情報がすでに伝えられていた。その情報に照らしてみれば、それら二通の下書きにもとづく山崎の話が、なにを目的として話されているのかが明確となったのである。

同年九月二十五日、山崎は阿部日顕に会うが、山崎は日顕に「大ウソつき」と言われ、絶縁される。ここにおいて山崎の日顕に対する画策は頓挫したのであった。

このことについては、日顕本人が昭和六十年三月三十日に大書院でおこなわれた非教師指導会において、つぎのように話している。

「私は登座以来、特に昭和五十四年の九月に、山崎正友が実にインチキ極まる悪辣な策略家であるということを見抜いて『あなたは大嘘つきである』ということをはっきりと言いました」(『大日蓮』昭和六十年五月号)

ところが歳月がたつにつれ、日顕は慢心を起こし、増長した。それにつれて創価学会への不信感を煽った山崎の、かつてのささやきが日顕にとっては真実に思えてくるようになる。

平成二年夏、日顕を中心とする宗門中枢七名は、池田名誉会長を追放し、創価学会を乗っ取る目的で「C作戦」を謀議し、同年末、それを実行に移す。その皮切りとして十二月二十七日、池田名誉会長を日蓮正宗法華講総講頭職より宗規変更にことよせて実質的に罷免する。

「C作戦」の首謀者である日顕としてみれば、法主の権威をもって池田名誉会長を有無を言わさず罷免するならば、創価学会側はうろたえ、あわてるだろうと予想していたにちがいない。

ところがあにはからんや、創価学会は宗門の理不尽な処置に対して、すぐさま大反撃に転じた。うろたえ、あわてたのは日顕であった。

日顕は明けて平成三年の一月五日、当時の海外部書記であった福田毅道に命じて、山崎の部下・梅沢十四夫を介して山崎に連絡をとろうとする。創価学会側の予想外の反撃により「C作戦」自体が暗礁に乗り上げたと感じた日顕が、山崎を頼り、軍師として迎えようとしたのである。

このことについては、のちに梅沢十四夫が以下のように事の顛末を明らかにしている。

「当時海外部書記の福田毅道さん、この人と約二時間話したんです。その時に、『梅沢さんは山崎正友さんに連絡はとれますか』というもんですから、とろうと思えばとれますと言いましたら、その時に『では山崎正友さんに猊下さんからのおことづけをお願いしたいんだ』というわけです。『これから言うことをそのまま伝えていただきたい、〈あの時はウソつきと言って悪かった。かんべんして下さい。〉このように伝えて下さい。梅沢さんは意味が分らなくてもいいんだ。こういう風に言えば山崎正友さんは理解できるはずです。ただしこのことは絶対に口外しないでいただきたい。私と梅沢さんの間だけにして絶対マスコミには特に言わないで頂きたい』ということでした。それで帰ってきまして、たしか六日の日に山崎正友さんに連絡をとりました。実はこれこれこういうわけでもって、その旨を伝えた。

山崎さんはいわゆるかつての上司ですから、私のことを梅沢さんといったことは一度もない。それが『梅沢さんそれは本当かね。本当ですか』と、ていねいな言葉で二度も言った、『わかった、どうもありがとう』と、はじめて、あの人がなんていうんですか部下に対する言葉でなくて、『ありがとう』と二度も言った。『意味は分りますね』このことづけをしたのはかつて大宣寺でもって一緒に机を並べた福田毅道さんという人です、福田毅道先生の電話番号を教えますからと言って教えてあげたといういきさつがあるんです。

このことは福田毅道さんとの約束がありますから、絶対言うつもりはなかったんですけれども、今まで『新雑誌X』に言ってきた通り、スパイあつかいされて、福田さんにも相当、僧侶にあるまじき罵言を浴びせられたわけです。そういうことがあって、敢えて公表したわけです」(『新雑誌21』平成三年八月号)

この後、日顕あるいは福田毅道と山崎との間に、どのような連絡、会話がなされたかは不明である。だが、日顕と山崎との間に福田毅道を介してのホットラインができあがったことだけは間違いない。

宗門内で孤立感を深めていた日顕は、謀略家・山崎の狡智を頼りにしたのである。この頃、日顕がどれほど胸中に不安を抱えていたかは、山崎宛の伝言を梅沢に託した日の翌日(一月六日)におこなわれた全国教師指導会で、

「これからもいろいろとひじょうに厳しいこと、大変なこと、そういうようなことが起こってくると思います。私はもう覚悟している。大聖人様のですね、こういうお言葉がありましたね。『所詮日蓮一人にて、日本国を流浪すべき身にて候』。私はもうこの御文を拝したときに涙がですね……(嗚咽)……しかし、私もまた、その覚悟をもっております……(嗚咽)……のでよろしく……(嗚咽)……私一人になっても、守ってまいります」

と嗚咽したことでも察することができる。日顕は、「C作戦」に基づく唐突なやり方に対し、宗内全体から反発されるのではないかと、実に心細い思いをしていたのである。

しかしながら、日顕が軍師と頼む山崎は、最高裁判所において上告棄却され恐喝罪で懲役三年の実刑が確定し、平成三年二月二十五日、収監された。山崎は獄につながれたため、日顕という玉を握って宗内を攪乱することは不可能となったのである。

獄中にあって山崎は、創価学会や日蓮正宗の動向をかすかに聞くにとどまる。山崎は自著『平成獄中見聞録』において、以下のように回顧している。

「私は、獄中にいても戦いつづけるために、反対勢力の人達と連絡をとり合う必要があったし、マスコミ関係の人達にも、何かと問い合わせたいこともあった。

身元引受人も妹も、特別なことをさせるわけにはいかない。かわりに、私とかかわりの深い人達と入所前に暗号みたいなものを打ち合わせておき、妹や引受人に私がたのんだ何でもない伝言のやりとりで会話が出来るようにしておいた。逆に先方からの何でもないメッセージの中に、いろいろな意味が込められていたわけである。その内容は、まだここに書くわけにはいかないが、今日の創価学会をめぐる諸状勢に深いかかわりを持っていたことは確かである。〈中略〉

『我が愛する猫のチエさんは、元気でいるでしょうか。行儀よくしているでしょうか。飼主に聞いて下さい』

『毎晩、チエの夢を見ます』

『今日、チエの詩をつくりました』

手紙を書くたび、猫のことを書いた。

妹は、そのたび、飼主に伝え、先方からのメッセージや写真を送って来た。

ある時、妹は、飼主にいった。

『兄が、いろいろと御迷惑をおかけして。猫まで預かっていただいて……』

相手は一瞬キョトンとして、それから答えた。

『チエは、元々うちの飼猫なんですよ』

妹は、何が何やらわからなくなったらしい。秘密通信がバレそうになったのは、この時だけである」

ネコの「チエ」を創価学会に見立てての隠語にし、関係者から創価学会の動向を聞いたのだろう。創価学会が日蓮正宗に“破門”されたときには、「チエがついに飼主から捨てられた」とでも伝えられたのだろうか。

ともあれ、山崎は二年余に及ぶ獄中生活を終え、平成五年四月二十七日、栃木県の黒羽刑務所から仮出獄した。その山崎に対し、日顕→福田毅道→段勲→山崎正友のルートで、ふたたびパイプがつながれたと思われる。

以下に紹介する山崎の書簡は、そのルートを逆にたどり山崎から日顕に届けられたものと判断される。それでは、山崎の日顕宛ての密書を披露しよう。

「今日の状況を見るとき、入獄前との様変りの大きさに、今更目を見張る思いです。これひとえに御法主上人猊下の御力によるものであり、信者の一人として、感慨を深くする者であります。御法主上人猊下の御慈悲により、富士の清流がたもたれたことを、後世の僧俗方は、感謝されることでありましょう。

この間の、御法主上人の御苦労、御心労は、さぞかし大変なものであったことと、心よりお察し申し上げます。創価学会の卑劣さ低劣さ、そして、一度かゝわり合うと、表現のしようがない、あと味の悪さを残すいやらしさ等々、人格高潔な方ほど、苦痛を味わされるものです。御法主上人猊下も、幾度となく、これほどひどいものだったのか、との思いをされたことでありましょう。程度の差こそあれ、何百万、何千万という人達が、この団体のため、いやな思いをしてきているのであり、それが社*会的な拒否反応となっているのです。こうした団体に被護を与え、悪質なものを黙視*して来た宗門の戦後史にも責任はありますが、それを、我身を切り開いてえぐり出す行為をあえて行われた勇気と決断はどれほど価値があったことか、正に後世の厂史が示すことでありましょう」

創価学会が日蓮正宗から破門され両者の間に深刻な対立が生じていることを喜び、その「功績」(本当は大混乱)が日顕一人に帰するとして、それを称賛している。僧俗和合をはかるべき「法主」たる地位にある者を称賛するのに、なんと皮肉な言葉だろうか。

日顕がただ一人狂乱したことによって他の僧俗が大迷惑をこうむっているのに、山崎はその本質が見えていながら、増長した日顕にこれほどまでにゴマをすっているのである。

ことに、日顕について「人格高潔な方」といった表現をしているところが傑作である。シアトルで買春をし、ウソをつき放題ついている日顕に対して、稀代の女好きの山崎がこのような言葉を吐いていることがおもしろい。同病相憐むがゆえの美辞麗句とでも受け取っておこうか。

いずれにしても、かつて日顕に血脈がないとし、法主の地位にある日顕の存在自体を否定していた山崎が、ここまで豹変し、もみ手をしながらにじり寄る、そこに山崎の卑しい下心を見ることができる。

日淳上人、日達上人などによってつくられてきた僧俗和合の「宗門の戦後史」を全否定し、唯一人の狂気がそれまでの人々が営々とつくってきた和合の歴史を瞬時にして暗転させたことを、山崎は日顕におもねり全肯定しているのである。

この文脈をみれば、日顕の代において先師方の業績がことごとく破壊されたという認識が、山崎の前提に存在していることがわかる。

先師の法燈を真面目に引き継ごうとする者であるならば、このような山崎の文脈自体に、抜きがたい嫌悪を覚えるだろう。ところが増長した日顕には、山崎の文脈の前提となっている日顕が先師方の業績を一切破壊し、「宗門の戦後史」を塗り替えたとの認識が心地よく聞こえてくるのである。

日顕に宛てた山崎の書簡

日顕に宛てた山崎の書簡

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