報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十三章 権威けんい瓦解がかい

地涌オリジナル風ロゴ

第781号

発行日:1994年7月27日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

二七八本の桜を切った殺生な坊主が花見と称しドンチャン騒ぎ
日顕は広宣流布より遊興が好きな父子一体の破戒僧

七月二十四日(日)、大石寺において「地涌六万大総会」が開かれた。この総会、日顕が平成二年夏におこなわれた法華講連合会第二十七回総会において開催を命じたもの。

一時に同一所に六万人を集め、日顕は自己満足にひたろうとしたのだが、炎暑の下に集められた法華講員こそ哀れ。しかも登壇した日顕の話もつまらなければ、法華講幹部の話も月並みなもの。参加者の大多数は、どうしてこのような無茶な結集をするのかと、おおいなる不満を抱いて下山することとなった。

だが一方、日顕はいたってご機嫌。独裁者である日顕は、自分の命令で人々が炎暑の下で苦役に服する姿が、なんとも心地よかったのだろう。参加者は、まったく日陰のない炎天下のパイプ椅子に座って開会を待った。なかには、一時間以上も待った者もいる。

そして、総会が約一時間にわたっておこなわれ、そのうえで順次退場した。参加者は、ほぼ二時間から三時間、真夏の強い陽射しにさらされつづけた。それでも、我慢して座っている法華講員の姿を見て、日顕は自分の支配力に自己陶酔していたのではあるまいか。

それでは、二十四日に大石寺に出現した灼熱地獄と、動員された法華講員の哀れな姿を一部紹介しておこう。

午前八時四十分。気温は32℃。真夏の太陽がジリジリと照りつける。医療センターは、この時点ですでにパンク状態。救護班は完全に手が回らなくなっていた。しかし、関係者には、「救急車は絶対に呼ばないように……」との徹底がなされた。命よりも、日顕の体面を考えているのだろうか。

メーン会場への入場がはじまり、座った婦人のなかには日傘をさす者もいた。しかし、役員から「邪魔になるから日傘はたたむように」との無情の注意。

午前九時五分。着山者数が、五万二六〇〇名であることが役員間で確認された。ところが、午前九時四十分になると、今度は五万七一七三名であると役員間に流された。しかし、どちらの数字であっても、六万には達していない。

しかも、この数字は各末寺の報告を基にしたものである。どの末寺にも、ある程度の欠席者がいる。欠席者は、遠方の寺ほど多かったようだ。各末寺の登山責任者らは、その事実を隠し、一〇〇パーセントの参加と報告している。

ということは、着山者数を積算する基礎になっている数字から違うのだ。とはいえ、その水増しされた数字を合計しても六万には及ばなかったのある。

午前九時四十分過ぎ、炎天下に並べられたパイプ椅子への誘導が終わった。が、そこには行かずに早々に木陰や売店に逃げ込んでいる者がいる。

法華講員の入場が済むのを見計らって、坊主六百四十三名が入場。坊主の席は屋根で覆われており、いかにも涼しげ。パタパタと扇子を使っている。炎天下の椅子席に座っている者から見れば、まるで別世界。

法華講員らは、頭にハンカチやタオルを乗せて直射日光をさえぎるのがやっとで、参加者は全員、汗みずく。シャツが身体に貼りついている。この両者の差を見れば、日顕宗のいうところの「僧俗和合」の趣旨が一目瞭然に理解される。

年寄りが次々と日陰に緊急避難している。前日より水を控えめにするようにとの注意が裏目にでて、身体の弱い老人に脱水症状が顕著に見られる。

午前十時。33℃。総坊の間にしつらえられたメーン会場の三門寄りに舞台がある。その上には、「踊躍! 広宣流布」の大きな垂れ幕。日顕の乗った車が、舞台横に着く。さっそく司会者が「ただいま、日顕上人猊下がお見えになりました」と紹介。

汗だくでグッタリしている参加者は、ほとんど無気力状態で拍手はパラパラ。会場に設置された大型スクリーンに、日顕の姿がアップで映る。涼しそうな顔。

式次第は、

一、開会宣言

一、合唱「地涌讃徳」

一、 「折伏、広宣流布へ大前進」

         宣行寺支部講頭・岡田利一

一、 「果たせ、地涌六万の大使命」

         法華講連合会副委員長・石毛寅松

一、日顕の話

一、挨拶

         法華講連合会委員長・柳沢喜惣次

一、合唱「広布に生きる」「大法流布の時来る」

一、閉会宣言

の順であった。

開会時の「地涌讃徳」、閉会時の「広布に生きる」「大法流布の時来る」の合唱のとき、集められた法華講員のほとんどに、さしたる活動歴がないことが判明した。つまり、三つの歌をまともに歌えた者は一割にも満たなかったからである。

まさに“烏合の衆”だ。

登壇者は、日顕を含め四人。まず、「折伏、広宣流布へ大前進」と題して話したのは、宣行寺支部講頭の岡田。つづいて、法華講連合会副委員長の石毛寅松が、「果たせ、地涌六万の大使命」との演題で話した。

次に登壇したのが日顕。

日顕は、六百億遍の唱題行、六万塔建立について、「本年度、仏法興隆の第一の実証」であると意義づけ、「第二の実証」は広布坊の建立であると強調、「第三の実証」は新たな御書を七月十六日に刊行したことであるとした。

さらに、日顕は創価学会について、次のように事実経過を歪めて話した。

「末法の今日、池田創価学会の謗法は、仏法の中心、根本からまったく外れた大邪教と化し、もはや正法広布の資格なしとして、大聖人様が厳然と止められました。それが平成二年、すなわち総本山開創七百年の不思議な年に、池田学会より起こった宗門への恫喝と悪口、誹謗、それに対する御仏智による宗門の護法のための処置でありました」

平成二年三月、永代回向料、塔婆供養料などの倍額値上げを一方的に創価学会に通知、強権的に実行に移し、七月には「C作戦」を謀議し、池田名誉会長追放から創価学会破門に至る手順を検討し、十二月に「C作戦」を断行した。

その事実経過を見れば、日顕ら宗門側の一方的な「処置」だけが目立つ。問答無用の創価学会攻撃がおこなわれたのである。

衣の権威をもって在家を屈服させ、創価学会乗っ取りを謀った。創価学会の長年にわたる献身に対して仇をもって報いたのだ。

その強権発動の張本人が、宗門を被害者と見立てて、創価学会への「処置」を「御仏智」と言う。なんたる無惨、なんたるエゴ。頭を丸めていれば、どのような理不尽をおこなっても正義というのであろうか。

日顕は、言葉をつづける。

「したがって、この地涌六万の集会こそ、仏法の不思議の大因縁によるものであり、それは去る四月二十八日に建立された、あの六万塔の標示に明らかであります。すなわち、地涌の上首たる上行、無辺行、浄行、安立行の四大菩薩を一身に具現したもう下種本仏・日蓮大聖人の厳たる御命令により、その清浄なる弟子檀那としての因縁によって、我ら僧俗六万が今日ここに集まったのであります。

皆様、まさに最高の意義に基づく歓喜踊躍の大集合ではありませんか」

こう日顕は大見栄を切ったのだが、拍手はパラパラ。それにしても、平成二年夏に、みずからが六万結集を命じておきながら、それを「下種本仏・日蓮大聖人の厳たる御命令」と声を大にして叫ぶ日顕は、もう立派な新興宗教の教祖であるといえる。

自分の考えた謀略は「御仏智」と言い、自分の命じたことは「日蓮大聖人の厳たる御命令」と言ってはばからない。日顕は大傲慢の主、独裁者にして狂人。

増長した日顕は、八年後に向けて次のような目標を定めた。

「最後に申し上げたいことは、大法広布は御仏智を拝しつつ、一歩一歩、確実に進展することが大切と思います。その一つの目標として、宗門は、いまより八年後の、すなわち平成十四年の四月に宗旨建立七百五十年の佳節を迎えます。そのとき、今日の総会の六万人の五倍乃至それ以上の信心篤き地涌の友が輩出すれば、一日一万人の参詣として、一カ月以上にもわたるであろう大法要を修することが可能であります」

この日顕の“命令”に対し、会場は一瞬、静寂につつまれた。そして、しばらく間を置いて、まばらな拍手。御本仏気取りの“法主”が何を言い出したのかと、参加者一同とまどった様子だった。

日顕は、およそ二十分ほど話をしたが、そのあいだズーッと原稿の棒読み。参加者の反応は、ほぼゼロ。拍手はことのほか少なく、壇上に座った幹部連が会場の反応の弱さを気遣って、やたらと張り切った様子で拍手していたのが、実に滑稽に見えた。

日顕につづいて登壇した柳沢は、

「法華講は、八年後の宗旨建立七百五十年までには、みんな千所帯以上になっていく折伏であります! これは、けっしてむずかしいことではありません。まさに、正直な信心と時であります」

と話し、いっそう参加者をシラケさせた。ある講中の幹部は、「あまりに現場を知らなすぎる」と後刻、憤慨していた。

総会が終わり、日顕が車に乗って退場。参加者一同、「ヤレヤレやっと終わった」という思いで、先を争って席を立ち、総坊の日陰のほうへ移動しようとした。そこに突如、司会者が、「柳沢委員長が一言、挨拶したいので再度、着席を」と呼びかけた。これまで、日顕の呼びかけにも無反応だった参加者が、不満を露にした。

「さんざん話したのだから、いまでなくてもいいだろう」

「もう話はいいよ」

「どれほど暑いかわかっているのか」

不満を言う参加者の腕や首は赤く日焼けしており、いかにも痛々しい。参加者は聞く耳持たぬとゾロゾロと移動。会場は“流れ解散”の様相。

それにもかかわらず、柳沢は涙ぐみながら、「猊下は御満足の様子でした。みなさん、御苦労様でした」と話したが、それに対しても会場の後ろでは、「前の席の人たちは盛り上がったかも知れないが、こっちは早く涼しいところに行きたいのだ」と反発の声。

日顕が話の中で「歓喜踊躍の大集合」と称えた、この「地涌六万」の実態は、この一件に端的に示されているが、さらに、もう一歩踏み込み、この“烏合の衆”の有り様をレポートしておきたい。

灼熱の太陽に照らされたメーン会場には、開会時よりすでに主無きパイプ椅子が目立った。左右や後方のパイプ椅子は相当、空きが目立つ。中央部分もポツリ、ポツリと空き椅子が見える。

参加者が暑さに耐えかねて、日陰や売店、あるいは乗って来た乗用車に逃げ込んでしまったのだ。総坊の中にも参加者がいたが、クーラーが効かず、ここからも表に逃げ出した者がいた。

午前十時にはじまった総会は午前十一時に終わったが、一時間を我慢できず、逃走した者が多くいたことは、会場に「歓喜」も「踊躍」もなかったことを示している。

総会中、総坊売店は賑わっていた。二百名近くの法華講員が涼をとり、かき氷を食べ、ジュースを飲んだりしている。

喫茶店に入っていた四国から来た法華講員は、

「今日、六時に到着したが、畳の部屋に通してもらえず勤行する場所もなかった。だいたい六万人をいっぺんに集めること自体、無理がある。甲子園にいっぱい入っても六万人、何回かにわけるべきだった。会合に出ても意味ない。きょうは石和温泉に泊まる」

と大声で話して、はばからない。

それに同調して、ほかの者も、「おなかは減るし、ノドはカラカラ。総会に出てもしょうがない」「すごく暑いから脱走してきた。あそこに行くのはイヤだ」などと囃す。

広布坊の玄関脇では、寝転んで話を聞いている者などがいる。木蔭では、タバコを吸いながら遠くを見つめ、“我れ関せず”風の者もいる。

売店でジュースを飲んでいた婦人が、「台風が来なくてよかったね」と横の壮年に話しかけたところ、その壮年は、「逆だよ。台風が来れば、こんなところに来なくてすんだんだ」と、吐き捨てるように言った。

売店にビールはないかと言ってくる者もいる。ある売店の従業員は、「総本山に三十年いるが、こんなだらしのない会合は初めて」と同僚に小声で話している。

この間も、暑気当たりで気分の悪くなった者、倒れる者、食当たりでもどす者などが続出。医療センターは満杯。医者は食事もせず、夕方まで救護にあたっていたという。しかも重症の者が出、近くの「フジヤマ病院」に入院する者が十人ほどいた。点滴を受けた者も二~三人いると役員が話していた。

その「フジヤマ病院」には、大坊内の秦慈登(七十歳)も運び込まれた。頭部のレントゲンを撮るなどして大騒ぎだったという。また本住坊の秋元意道が救急車でいずこかの病院に運ばれた。

再びメーン会場に目を転ずると、時間とともに後方と左右の椅子席はスカスカとなり、会場中央部にも三つ並び四つ並びの空席が目立つ。仲間同士連れ立って、日陰に移動したものと思える。真っ青な顔で同僚に助けられ、退席していく者もいる。

そんななか、日顕の抑揚のない、原稿の棒読みが相も変わらずつづいている。前にも触れたように、日顕が、八年後の三十万人以上の登山を呼びかけたところで、「勝手なことばかり言って……」と反発する婦人の大きな声。

しかし、周りの人はとがめもしない。日顕のために、こんな苦行を強いられていることを参加者は恨んでいるのだろうか。あるいは、暑さのあまり反応ができなくなったのか。

参加者の表情は呆然としたものが多く、なかには暑さに倍する疲れのためか、うつむいて居眠りしている壮年、あるいは子供を抱いたままコックリコックリと頭を傾げ、周囲をハラハラさせている婦人もいる。

そのような状態で総会は進行し、終わったのだが、これで法華講員が苦役から解放されたわけではなかった。

下山者が次々とバスターミナルに押し寄せたために、またたく間に大混乱。新幹線、列車の出発時刻に遅れるのではと気のあせっている団体もおり、あたりは異様な雰囲気になった。

「Aさんがまだ来ない」

「来ない人はいいから、あんたこのバスに乗りなさい」

最後まで人数が揃わず、見切り発車するバスが何台もある。

「バスに乗る前にトイレに行きたい」という老婆に、「だから水を飲んじゃダメだって言ったでしょ。我慢してバスに乗って」と婦人の大声。

「着いた時からはぐれたままで、出発なのに姿を見せない、無事かな」と心配げな壮年幹部も、「一人行方不明のまま帰る」と言い残して帰っていった。

そのような喧噪のバスターミナルで、北海道の大慈院支部の男子部員一人が倒れた。バスが来て仲間を置き去りにする者、バスがなかなか来ないので待つ者――最終的に、バスの到着を二時間以上待った者もいた。

日顕が命じた「地涌六万総登山」は、いったいどのような意義があったのだろうか。総会終了後、ある法華講員は総会の印象を「あっけなかった」の一言で評した。この言葉は、総会に参加しての充足感がまったくなかったことを率直に表現したものだろう。

寝不足で水も飲まず、疲労困憊して日射病寸前になりながら総会に参加したが、そこで聞いたのは日顕のメリハリのない話。その日顕が、八年後に三十万人以上の登山を命じたところで、法華講員にはやる気も起きはしない。日顕の自己満足のために苦しむのはまっぴらと、五体が拒否したことだろう。

総会終了後、売店に駆け込み、「ビールをくれ」と言った壮年に、売店従業員が「ビールはありません」とつれない返事。壮年は顔色を変えて、脇にいた婦人に「終わるまで座っていたら、いくら飲んでもいいと言ったじゃないか」と大声で怒鳴った。総会が終わるまでパイプ椅子にじっと座っていた者のなかには、このような思いをしていた者もいたのである。

まさしく、「地涌六万」は“烏合の衆”以外のなにものでもなかった。それも、年寄りと子供がやたらと目立つ“烏合の衆”であった。

二十三章 権威瓦解 終

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