報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十八章 現証げんしょう歴然れきぜん

地涌オリジナル風ロゴ

第681号

発行日:1993年7月17日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日恭の焼死は覚悟の死であったと宗門は横死を美化するが
客殿や大書院が焼ける前に自決を選んだ日恭はあわて者か

昭和二十年九月、妙光寺を訪れた日蓮正宗管長代務者・中島廣政は、彼岸会の説法の席で、昭和二十年六月十七日の客殿などを焼いた大石寺の火事の原因について、「一所化の失火」であることを認めており、このときの説法の内容は記録に残されている。

そのほか、当時の大石寺の状況にくわしい僧らも、懐古談の中に、「小僧の失火」と記している者もいる。なかには火を出した小僧の名として、「増田壌允」の名をあげている者もいる。

これらのことから、出火の原因が所化の失火であることは、火事直後の大石寺内においては定まった説であったことがうかがえる。事実、当時、大石寺にいたある僧侶は、「所化によるタバコの火の不始末」であったと明言している。

ところが、大石寺はいつの頃からか、この大火は日本軍将校に不満を持った朝鮮兵が、将校宿舎となっていた対面所に放火したことにより発生したと言いはじめた。内部の者による失火では体裁が悪いと考え、大火の責任を、なかば強制的に連行されてきた朝鮮兵に転嫁しようとしたのである。

このデマのもととなったのは、日蓮宗の坊主である安永弁哲が著した『板本尊偽作論』を破折するため、日蓮正宗側が出版した「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」である。この本の編集・発行者は「日蓮正宗布教会」、取扱所は「大日蓮編集室」で、昭和三十一年九月三十日に発行された。

この日蓮正宗の公式的な見解がまったくのウソであったため、以後、大火の責任が「朝鮮兵」になすりつけられることとなったのである。

「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」には、次のように出火の状況が書かれている。

「先づ其の出火から言えば、大石寺大奥の管長居室は二階建の座敷であつて、其の三間程距てた所に応接室の對面所という建物があつた。世界大戰も漸く苛烈になつて來て、陸軍では朝鮮の人達を悉く兵隊として、全国の各地に宿泊せしめて居たが、大石寺も其の宿舎となつた為め数百名の朝鮮人の兵隊が大石寺の客殿から書院に宿泊して居つた。そして此れを訓練する將校が二十数名も對面所に宿泊していたのである。丁度静岡市空襲の晩に此れ等の兵隊がガソリンを撒布して、將校室となつていた其の對面所の裏側の羽目に火を付けたのである。其の為め火は一瞬にして建物の全部に燃え上つたのである。其れが為めに將校は身の廻りの者を持つて僅か三尺の縁側の外に逃げるのが漸くであつたのである。火はやはり殆ど同時に管長室に燃え上つたのである。侍僧は階下に寝ていたが、反対側の窓を破つて、之れまた漸く逃れたのである。此時には一山の者が駆けつけたが、最早や、手の施し樣もなかつたのであつて、忽ちのうちに二階建は焼失して了つたのである。一同は其れよりも延焼を防ぐべく努力したが、遂に客殿、書院、土蔵を灰燼に帰せしめたのである」

以上の「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」の記事には、随所にウソの記述が散見されるのであるが、並んで建っている対面所と大奥が、たちまちのうちに火に包まれたという文章全体のトーンは正しいと思われる。

管長代務者の中島廣政も、先の妙光寺における彼岸会で、「出火の場所は御居間(二階)の階下に隣る押入で三尺の廊下を隔てた對面所には農耕隊の將校が寝て居たのでありますが火の廻はりが急なため身を以て逃れ軍服を取出す遑〈いとま〉さへなく」(〈 〉内、筆者加筆)と話したことが記録されている。

また日本軍将校が軍服のみならず、軍人の魂ともいえる軍刀を焼失したと懐古談に記している者もいる。これらのことからして、対面所とそれに隣接した大奥が、ほぼ同時に火に包まれたことは想像に難くない。

管長代務者・中島が「御居間」と話しているのは、大奥二階の管長室のことであろうと思われる。出火は、日恭の寝ていたすぐ下の方であったのだ。これでは日恭が逃げることができなかったのは無理からぬこと。

しかも日恭は、巨体(一説には百キログラムを超えていたと言われている)で、疝気と足腰が弱っていたため歩行困難であったという。また、この焼死をする昭和二十年六月十七日の九日前に日恭に会った信徒は、

「昭和二十年五月東京大空襲の時大久保の家が焼失し、その年の六月八日登山して上人にお目通りを願つたとき御短冊の寓意を御伺いしたら上人はいや別に意味はない思いついて書いて上げたのだと仰せられお耳がお惡かつたので質問を書いてお目にかけ御答を仰いだ。お目通りするなり『国諫のことか』と仰せられた。

それ程当時は国諫が宗内の問題になつていた。それは御遷化九日前のことである」(『唯信唯行』より一部抜粋)

と、当時、日恭の耳が聞こえなくなっていたことを記述している。火の廻りが速く、巨体の上に持病で歩行困難、そして耳が聞こえなかったため、日恭は焼死したのである。

宗門の出した「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」には、

「皆んな上人が戦場の如き大石寺に於て兵火の発するのを見て、遂に力の及ばざるを御考えなされて、寧ろ自決なされたと拝せられる。思えば一宗の管長とし立正安国の御聖訓を体して、国家の隆昌を祈り、国民の安泰を願い、日々夜々一宗を督励し祈願をこめ給いしに、遂に敗戦を眼前に控え、既*に力及ばず、老躰を焼いて国家の罪障を滅せんにはしかずとして、自決の道を選ばれたと拝せられる」

と書かれているが、これは日恭の死を美化しているだけのことである。日恭はただ逃げ遅れて死に、それも竈に嵌まり込み上半身は黒焦げとなり下半身と腹わたのみが残ったのである。

そもそも日恭が死んだのは、大奥である。先号の『地涌』(第680号)に大坊建物配置図を掲載しておいたのでそれを参考にしてもらいたいが、対面所と大奥はほぼ同時に焼け始め、その後、火は大書院から客殿へと延焼していった。

十七日午後十時半頃に出火し、翌朝四時頃まで約五時間半にわたり、燃えつづけたのである。日恭が焼け死んだときは、まだ対面所と大奥が燃えているだけで、日恭が死を思いつめるほどの段階ではない。

大奥から逃げおおせた日恭が、客殿の延焼を見て、客殿の火に身を投じ「自決」したというのならともかく、事実は火事がいくらも広がっていない出火初期に大奥で死んでいたというのだから、日恭はただ単に逃げることができず横死したと判断するのが妥当である。

もしこの段階で責任を感じ「自決」を覚悟したとなれば、日恭は相当なあわて者ということになる。

もっとも自決するのに竈に入る者などいない。

「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」に書かれている。

「灰燼の中から上人の御遺骸を見出したのであるが、それは御寝所の部屋でなく、御内仏安置の部屋であり、其の御内仏の前辺りにうつ伏せになつてをられたと思はれる姿勢が拝せられた」

などといった証言は、まったくの作り話。朝鮮兵が放火したという話と、同じ類いである。

日蓮大聖人曰く。

「聖人は横死せず」(神国王御書)

日恭は仏罰により、無残な焼死を遂げた。人は“法主”の地位にあるだけでは、聖人ではないのである。

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