報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十八章 現証げんしょう歴然れきぜん

地涌オリジナル風ロゴ

第666号

発行日:1993年6月8日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

戸田会長を逆恨む檀徒の亡霊が「通諜」を携えさまよってる
日顕宗がその怨霊にとりつかれ破滅の迷路に踏み込んだ

『慧妙』(平成五年六月一日付)が、「通諜」(正しくは通牒)なる文書の報道に、その第一面のほとんどを割いている。タイトルは、

「やはり学会文書『通諜』は実在した」

「返還された押収書類の中に約三十通」

「“真実無根説”総崩れ!! これが実物カラー写真だ」

というもので、いつもながらの『慧妙』らしいにぎにぎしさである。だが、それ以上にこの第一面を派手なものにしているのは、カラー写真の掲載である。カラー写真は四枚掲載されている。

上より一枚目の写真は、「通諜」なる文書が別紙で裏打ちされたもの。二枚目の写真は、ボロボロで裏打ちされていない「通諜」。三枚目の写真は、戦前の創価教育学会発行の『大善生活實證録』と題する書籍。四枚目の写真は、牧口創価学会初代会長が携行したとする『御書』の写真。

以上の四枚の写真が、『慧妙』第一面にカラー写真で掲載されている。この「通諜」と『大善生活實證録』と牧口会長が携行したとする『御書』、この三点のものをカラー写真で出したのは、この三点のものが一体であるとの印象づけをしようとするトリックである。では『慧妙』はどのようなトリックを弄しているのか。

いずれも戦中、特高警察に押収されたもので、戦後、一緒に牧口会長縁戚の稲葉荘のもとに返却されたものであるとの印象づけを狙ったものである。

だがこのカラー写真が、逆に「通諜」が押収文書でないことを証明する。これについては後半で論述するが、では、なぜ『慧妙』は事実に反し「通諜」が戦中の押収文書であると報ずるのであろうか。

その理由は、「通諜」の文面にある。この「通諜」は、「創価教育學會各理事各支部長」に宛てられたもので、文中には、「皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様……」などと指示されており、この「通諜」が戦中の本物であれば、創価学会も宗門同様、日蓮大聖人の教えに反し謗法を犯したことになるのである。

要するに『慧妙』の報道の目的は、“宗門は戦中において正法正義を貫いた”といったことを証明することにあるのではなく、創価学会も宗門同様、戦中は日蓮大聖人の教法に違背して、神札を受け取っていたと証明したいのである。

宗門は戦中、国家権力の弾圧を恐れ、一人の犠牲者も出ぬ前より屈服した。まことにもって日蓮大聖人の弟子を自称することもおこがましい臆病者ぶりであった。その象徴的な史実として挙げることのできるものは、昭和十六年九月二十九日付で日蓮正宗宗務院がおこなった日蓮大聖人の御書の一部抹殺である。

このとき宗門は、「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり、上一人より下万民に至るまで之を軽毀して刀杖を加え流罪に処するが故に梵と釈と日月・四天と隣国に仰せ付けて之を逼責するなり」(聖人知三世事)などの十四カ所の字句を御書より削除するよう宗内に徹底した。

その他、宗門は伊勢神宮の遥拝、神札の受領を宗内僧俗に命じ、総本山大石寺大書院にも軍部により神札を祀り込まれた。

すなわち『慧妙』は、「通諜」を戦中の本物とすることで、宗門と同様の教義違背者として創価学会を汚泥にまみれさせようと計っているのである。いやいや、戦中の宗門の為体を評するに、「汚泥」は穏当すぎる。宗門がまみれている同じ糞尿にまみれさせようとしている、あるいは宗門が全身嵌まり込んでいた野壺(肥だめ)に時代を遡って引きずり込もうとしているのが、『慧妙』の編集意図である。

その意図は「通諜」なる文書の文を読むことによってなおさらはっきりする。「通諜」のコピーを参考までに別掲(226ページ)しておいたが、読みにくいと思われるので以下に全文を掲載する。ただし、一部判読不明な文字、脱字があったので、それを編集部で推測し〈 〉内に示した。

「創價教育學會各理事

 仝  各支部長殿

                理事長 戸田城外

    通  諜
時局下、決戰体制の秋、創價教育學會員〈に〉於い〈て〉益々盡忠報國の念を強め、會員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戰ひ抜かんことを切望す。依つて各支部長は信心折伏について各會員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。
一、毎朝天拜(初座)に於いて御本山の御指示通り 皇祖天照大神皇宗神武天皇肇國以來御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し國運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと。
一、學會の精神たる天皇中心主義の原理を會得し、誤りなき指導をなすこと。
一、感情及利害を伴へる折伏はなさざること。
一、創價教育學會の指導は生活法學の指導たることを忘る可からざること。
一、皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれとを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること。

                       以上

  六月廿五日」

日顕宗の者らが、この「通諜」を戦中の本物として公表することは、これすなわち、戦中の宗門の教義違背を認めることである。創価学会を貶めんとして、みずからを貶めているのである。だが、日顕宗の者らは、創価学会憎さのあまり法義の正邪順逆すらも忘失しているのである。

というのも、徹底事項五項目の第一番目に注目していただきたい。そこには、「毎朝天拜(初座)に於いて御本山の御指示通り 皇祖天照大神皇宗神武天皇肇國以來御代々の鴻恩を謝し承り敬神の誠を致し國運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと」と書かれている。

『慧妙』がこの文章を本物というならば、「皇祖天照大神皇宗神武天皇」およびそれに連なる代々の天皇への報恩、そして神を敬い「國運の隆昌」「武運長久」を祈ることが、初座の祈願目的であると「御本山の御指示」が出ていたことを認めることになる。

これは、国家神道を支える皇国史観に額づくものである。宗門は明らかな謗法を犯していたことになる。

もっともそれは事実である。昭和十六年八月二十二日、日蓮正宗宗務院は、同趣旨に初座の観念文を変えている。無論、国家権力の弾圧を恐れてのことだ。

だが、「唯授一人血脈相承」の“法主”は、御本仏日蓮大聖人と同じ境界にあって絶対、過ちを犯さないとする、日顕宗の機関紙『慧妙』が、このような謗法の「御本山の御指示」が出ていたと認めるのであろうか。まず、こう『慧妙』に尋ねたいのである。

さて、そのうえで「通諜」の真贋論に入ろう――とは、少し皮肉な言い方であろうか。要は、創価学会を貶めることに夢中になり、日蓮正宗を貶めている『慧妙』を、筆者は笑い者にしているだけのことだ。

徹底項目の第五番目には、「皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれとを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること」と書かれているが、宗門が宗内僧俗にそれを徹底し、謗法にまみれていた史実と思いあわせると、『慧妙』が「通諜」を本物であると頑強に主張するほどに笑いが込み上げてくるのである。

『慧妙』にとって、戦中の日蓮正宗のことごとくの信徒が臆病風に吹かれ、神札を甘受していたとすることのほうが、すんなりと心に入るらしい。

どうして日蓮大聖人の末流に、謗法厳戒にして神札を峻拒した健気な信徒団体があったことを認めないのであろうか。あまつさえ、日蓮大聖人の弟子の範たる創価学会を、宗門と同じ糞尿にまみれさせることに懸命となり、『慧妙』第一面をカラー印刷にまでして騒ぐのであろうか。

よって立つべき聖なる地のない者は、他を穢すことのみを喜びとするのである。誇るべき信も行も学もない者の哀れな排泄行為である。

さて、ここまで卑しい『慧妙』が、浅知恵をもって「通諜」と『大善生活實證録』と牧口会長が携行したとする『御書』の三点を第一面にデカデカとカラー写真で出し、以下のように「通諜」の由来を主張する。

少々長くなるが、『慧妙』の該当箇所を引用する。

「昭和十八年七月六日、牧口会長・戸田理事長・矢島周平氏・稲葉伊之助氏らが逮捕された際、各人の家は特高警察の刑事達によって捜索され、関係資料の一切(この中には、なんと御本尊までが含まれていた)が押収されてしまった。

稲葉氏宅の場合、この押収資料が返還されることになったのは、ようやく戦後十年も経った昭和三十年頃のことであり、リヤカーを引いて資料の受け取りに行ったということである。

その折、伊之助氏の娘(荘氏の姉)が牧口氏の息子・洋三氏(戦死)に嫁いでいる、という縁戚関係があったことから、当局より、牧口氏の押収資料も一緒に引き渡され、稲葉荘氏はハトロン紙に包んだ返還資料を二人分(二個口)持ち帰ってきた。

そして、当時すでに二代会長に就任していた戸田会長に架電し、牧口氏の分の返還資料の処置について相談したところ、『それは荘君が保管していてくれ』との指示であった。

そこで稲葉氏宅では、いったん二個の包みを開き、その中味(ママ)を一緒に保管するところとなったのだが、昭和三十五年に池田が三代会長に就任して後、柏原ヤスを通じて、『保管されている牧口先生の分の資料を、記念品として学会に引き渡してほしい』旨、申し入れがなされた。

こうして、ほとんどの牧口氏の資料が学会に引き渡されたのだが、稲葉氏宅では、二個の包みをほどいて中味だけを一緒に保管していたため、牧口氏の携行用の小さな御書を含め若干の引き渡し洩れが生じたのであった。

そして――この引き渡し洩れの牧口氏の資料の中にあったか、あるいは稲葉氏の分の資料の中にあったか、定かに区分けすることはできないが、ともかく、そのとき稲葉氏宅に残った資料の中に、ワラ半紙にガリ版刷りの『通諜』があったのである。その数、およそ三十枚――。

稲葉氏宅では、この文書がそれほど重大な問題になるものとは夢にも思わず、他の資料と共に、再び地下室に収蔵したのであった。その後、湿気の多い地下室に長期収蔵されたため、同文書は多くが破損滅失し、残りは各関係先へ資料として寄贈された(幸いにして三通の『通諜』の現存が確認されている)。

以上が稲葉氏宅に『通諜』が伝わった経緯である」(平成五年六月一日付『慧妙』より一部抜粋)

これは、稲葉荘の「証言」に基づき記されたものである。だが、稲葉「証言」は信用できない。稲葉は、縁戚関係である牧口会長はともかくも、戸田会長には深い恨みを持っていた。

戦中の弾圧でもろくも崩れてしまった創価教育学会の理事・稲葉伊之助は、稲葉荘の実父である。その稲葉伊之助らに対し、戸田会長は公に厳しく評価を下している。

「投獄せられた者も、だんだんと退転してきた。いくじのない者どもである。勇なく、信が弱く、大聖人をご本仏と知らぬ悲しさである。

名誉ある法難にあい、御仏のおめがねにかないながら、名誉ある位置を自覚しない者どもは退転したのである。
大幹部たる野島辰次、稲葉伊之助、寺坂陽三、有村勝次、木下鹿次をはじめ、二十一名のうち十九名まで退転したのである」(戸田会長著「創価学会の歴史と確信」より引用)

戸田会長は、さらに稲葉について、

「狂人的警察官、不良の官吏、斎木という特高の巡査になぐられ、いじめられ、ついに死を覚悟して、取り調べのすきをうかがって二階から飛び降りたほど苦しんだ稲葉伊之助氏などは、四か年の刑をおそれて畜生界のすがたであった」(同)

とも書いている。

稲葉伊之助は法難のただ中にありながら、それを自覚せず、恐怖に囚われ精神に異常を来したのであった。

この「創価学会の歴史と確信」は、戸田会長が会長に就任した昭和二十六年五月三日のすぐ後、同年七月十日に書かれたものである。その稲葉伊之助に対する戸田会長の評価を、息子である稲葉荘は快く思わず、創価学会より離れ、砂町教会(のちの白蓮院)に依拠した。いうならば、稲葉荘は戦後の檀徒のはしりである。

この砂町教会には、創価教育学会のかつての副理事長でありながら、獄に長く繋がれたのは牧口会長、戸田理事長(当時)のせいと恨み、創価学会を忌み嫌っていた野島辰次もいた。

野島や稲葉は、昭和二十七年四月の狸祭り事件の前後、砂町教会内に竜門講を結成し創価学会の組織切り崩しをおこなった。竜門講は、台頭する創価学会に反感を持つ坊主や法華講勢力を背景に、戦後第一次の檀徒活動をおこなったのである。稲葉は、その竜門講の中核メンバーであった。

これらの経緯から、稲葉「証言」は信憑性に欠けるのである。

だが、『慧妙』は、この信憑性に欠ける稲葉「証言」を鵜呑みにしたうえで、先の引用文につづいて、「このことから、さらに立ち入って考えてみると、『通諜』が入っていたのは、おそらく牧口氏宅から押収された資料の中、と考えて間違いない」と結論する。

以下その理由として、揣摩臆測を、『慧妙』は綿々と綴っているが、信用できない稲葉「証言」に基づき悪意による想像をめぐらしているだけなので、それに反論することはここで省く。

あえて『慧妙』に注文するならば、そのような信憑性のない「証言」やそれに基づく憶測をしていないで、宗門が保持しているであろう歴史史料にあたるべきである。

ことに、宗門が創価教育学会に神札を受けるよう申し付けたときの一件記録を公表してはどうかということである。

昭和十八年六月、日恭上人、日亨上人が立ち会い、ときの庶務部長・渡辺慈海が、牧口会長、戸田理事長ら創価学会幹部に神札甘受を命じた記録である。この記録は、後に予想された国家権力の弾圧から逃げる“証拠”として詳述され、かならず残されたはずである。

信徒を官憲の前に放り出し、宗門のみが身の安全を計るための記録である。この会談記録に前後して、貴重な記録が数多く大石寺にあるだろう。そしてそれらは無残なほどに宗門の裏切りを証明しているに違いない。

『慧妙』は、これら宗門に残された第一級の歴史史料を無視し、第一次檀徒活動の中核をなした者の信憑性の薄い話を我田引水に用いるべきではない。

さて、この記事の冒頭、「このカラー写真が、逆に『通諜』が押収文書でないことを証明する」と書いた。

そこで『慧妙』に聞きたい。「これも返還された押収資料の一部」と写真説明された『大善生活實證録 第五回總會報告』と題する創価教育学会発行の本の表紙には、「治安維持法違反事件 被疑者 稲葉伊之助 證第二號」との文字がクッキリと読める。『慧妙』が気張ってカラー印刷した効果は抜群である。ほかにも短冊様の小さな紙が貼られており、押証番号がかすかに読み取れる。

だがどうだ、肝心な「通諜」にはそれらのものはない。すなわち「通諜」は、戦中、押収されたものではなかったのである。

今回の『慧妙』同様、日顕宗時局協議会資料収集班一班が、「通諜」を本物と断定して、平成三年の三月と五月に、それぞれ「『神札問題』について」と「日蓮正宗の戦争責任」と題する文を宗内に配布した。

このとき、創価学会側は、谷川佳樹男子部長名で日顕宛に抗議文を送り、文中、

「すなわち、まず何よりも、『通諜』なる文書の筆跡は、戸田理事長の筆跡とは似ても似つかないほど全く異なるものであり、明らかに第三者の筆によるものであるということであります。しかも、私どもは単に戸田理事長の筆跡ではないというだけでなく、その筆跡が、戦後に入信し、戦前の創価教育学会とは何らの関係もない、ある特定の法華講員の筆跡であるとの確実な証拠を入手しております。

このことは、『通諜』なる文書が戦後に偽造された謀略文書であるということを、見事に証明して余りある事実であります」

と断じている。これは故なきことではない。このことを、日顕宗の者らは肝に銘ずるべきである。

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