報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十八章 現証げんしょう歴然れきぜん

地涌オリジナル風ロゴ

第663号

発行日:1993年5月31日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日蓮宗の創設した立正大学に学べば邪義に染まってしまう
立正大学出身の日顕がこの重要な“告白”を公式にした

日顕は、昭和十八年に立正大学を卒業している。立正大学といえば、衆知のように、日蓮宗(身延派)が宗学の興隆をはかるために創った学校である。

明治三十六年、日蓮宗は、現在の立正大学所在地である東京・品川区大崎に日蓮宗大学林を設立。翌三十七年、専門学校令により日蓮宗大学校と改め、明治四十年には日蓮宗大学と改称した。さらに大正十四年、日蓮宗大学を立正大学専門部と改称。昭和二十四年からは新制の大学として運営されている。

初代学長には、日蓮宗第十代管長の小林日董が就任。第二代学長には、同じく日蓮宗第十九代管長・小泉日慈が就任している。

仏教学部宗学科の教授陣も、大半が日蓮宗の僧籍にある者ばかり。とともに、学生も日蓮宗他派の子弟が多い。

大聖人の御書すら満足に読めず、教学を真剣に学んだことのない者が、このような大学で勉強すれば、日蓮宗の影響を受けることは否めない事実である。立正大学を通し、邪宗日蓮宗の影響が日蓮正宗に及んできたのである。

日顕がこれまで、異常なほど波木井実長を評価してきたのは、立正大学で日蓮宗宗学の影響を受けた結果であるとも考えられる。

日顕は波木井について、次のように話したことがある。

「まことに身延における御化導こそ大事な意義をもっております。それらを可能ならしめたところのものは、すなわちあの波木井実長氏の大聖人様に対する外護であり、心安く法華経を受持読誦遊ばされ、特にこの三大秘法整足の大業を、心豊かに何らの思いも煩いもなくこの目的を達成遊ばされた次第であります。ここに考えまするならば波木井実長の功績は、非常に大きなものがあるということを今日深く考える人は少ないようであります」(平成三年七月二十八日におこなわれた法華講連合会第二十八回総会での話)

その日顕が、身延派の立正大学に対抗するために富士学林大学科(法教院)を昭和六十三年四月に開設した。だがこれは、日蓮宗宗学の自宗への浸透を阻むというよりは、日顕の虚栄心の満足のために作られたきらいがある。

おそらく、日顕が対抗しようとしたのは立正大学ではなく、本音のところは創価大学であっただろう。

また日顕は、この富士学林大学科を興すことにより、将来、“中興の祖”と仰がれることを望んだものと思われる。

その日顕にしてみれば、富士学林大学科が宗内の機構上、最重要の役割を担ってくれなければ困るわけで、そのため同大学科卒業者を一年後に自動的に講師に叙するなどの特典を与えている。これは実に日顕らしいやり方である。規則や制度で権威を与え、ものごとを律しようとしているのである。

日顕は富士学林大学科に最高権威を与え、一般大学卒業者と決定的な差別をしている。一般大学卒業者は高校卒業者と変わらぬ扱いとし、ただ富士学林大学科卒業生のみ特別扱いをしているのだ。同大学科卒業生は一般大学卒業生に比べ、僧階の上がり方も断然早い。

日顕はこのようにして、富士学林大学科に無理やり権威づけをしようとしているのであるが、その内実たるやお粗末の限りである。

まず、教える側の教授のレベルが低い。創価大学を卒業し、富士学林大学科に学んだ者は、教授たちの教養のなさに呆れていた。世界宗教学などというたいそうな講義をすれば、イスラム教とキリスト教を混同して教えたり、法華経の講義では、肝心の寿量品を、時間がないといって五分で講義したりというありさまで、心ある者の失笑を買ってきた。

授業を受ける側も、もともと勉強する気などさらさらない。サングラスに金のネックレス、ラメの入ったスーツといったヤクザまがいの服装で講義を受けたり、居眠りしたりなど日常茶飯事。高僧の子供の中には、授業態度を注意されたことに腹を立て、大学科職員に殴る蹴るの暴力をふるう者までいる。富士学林大学科は、とても高等教育がおこなわれている雰囲気ではない。

このようなありさまでは、いくら日顕が宗門の中で富士学林大学科の振興を図ろうとしても、どだい無理な話である。

このような富士学林大学科の実態を知る末寺の親たちの間には、子供を通わせることをしぶる者が出る。一般大学に通わせたほうがマシだと考える者もいる。それが日顕には面白くないのである。

五月二十八日、大石寺大客殿でおこなわれた寺族同心会大会で、日顕は憤懣やるかたない思いを次のように語った。

「えー、今日、富士学林大学科ができました。これに対していろいろな、多少雑音が、陰で私の耳に入ってこない形であるようなことを聞いております。

もう、むしろそういうお考えがあるならば、やはりこの、これは一つは簡単に言うならば、富士学林大学科は、なんか、この、どういう理由か分かりませんが、それよりも他門の作った立正大学とか、その他の宗教大学に子弟をまずやって、そこで四年間勉強させた後、宗門の独立の、この大学としてのところに二年間ほど勉強させるような制度にしたらいいと、こういう意見があるように聞きました」

日顕はまずこう前置きをして、次のように富士学林大学科に学ぶ意義を述べるのであるが、日顕が邪宗日蓮宗の創った立正大学に学んだ事実を念頭に置き、その日顕の話の意味するところを考えると、日顕の狂いの本源が垣間見えるようで興味深いものがある。

「やはり、物をつかむ、受けるときは若いもんですから、何といっても一番最初に聞いたことが、かなりの影響をもってその人の心の中に深く入る場合があります。邪義邪宗が中心になっていろいろなことを教える他門の大学に入った場合に、やはりその一面が存するということは、ある程度考えられるのであります」

まるで、みずからが邪宗日蓮宗の影響をこうむっていることを告白しているかのような発言である。

日顕は言葉を続け、立正大学など邪宗系大学に日蓮正宗の僧が学んだために、多くの者が邪義に染まったことを述べている。

「正法の袈裟衣をまといながらも、本当の大聖人様の祖道の意義を拝しきり、受けきることのできなかった者たちがいたことも事実ではないでしょうか。

あの正信会へ行った百何十名の者たちの行動が、また今日のその者どもの姿が、まったくそれを証明しておると思います。

身延の学校で学んで、なんとなく肌の中に本当の日蓮正宗の下種三宝の教えが、疑いをもって、考え受けるような頃に、考え受けると言っては語弊がありますが、その疑いがいつまでも残っておれば、何らかの形において因縁が、あるときにそれが現れてくるということも、この前の実例が実証しておると思うのであります」

日顕に言わせれば、正信会の者たちは邪法邪義に染まった者で、その原因は邪宗系大学に学んだことによるとしている。

だが現在の日顕宗には、立正大学をはじめとする邪宗系大学出身者が多いし、正信会の残党も数多くいる。ということは、とりもなおさず、邪法邪義に染まった者が日蓮正宗内にはおびただしくおり、その最右翼は波木井実長礼讃者の日顕であるということになる。

その立正大学出身の日顕が、富士学林大学科の教壇に立ち講義をする。その他の教授陣にしても邪宗大学出身者が多い。日顕が富士学林大学科を権威づけ、意義を宣揚してみたところで、邪宗の大学で生半可に学んだことを受け売りしているに過ぎない。日蓮正宗内に浸透した邪義を根絶するどころか、再生産しているようなものである。

宗門は、日蓮正宗内に浸透した邪義の根を断ちたければ、創価学会の折伏精神に学ぶべきである。牧口常三郎創価学会初代会長の殉教、戸田城聖第二代会長の獄中の悟達を起点にしての大折伏、池田名誉会長の世界広布に向けての戦い。これら創価学会の三代会長を貫く日蓮大聖人に直結した信心に素直に学ばなければ、日蓮正宗は浄化されない。

仏意仏勅の不思議な団体である創価学会あったればこそ、日蓮正宗も、徐々にではあるが、“祖道の恢復”をなしてきたのである。その歴史的事実をまったく無視し、創価学会を“破門”した日顕が、いくら“祖道の恢復”を叫んでも、宗門の現実はそれに逆行するだけのことである。

“祖道の恢復”を目的とする富士学林大学科が、内実の伴わないまま権威化し、日顕の虚栄心を満足させるだけの道具に堕していることが、そのことを象徴的に示している。

家族友人葬のパイオニア報恩社