報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十七章 禿人とくにん遁走とんそう

地涌オリジナル風ロゴ

第621号

発行日:1993年3月20日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日興上人が追放すべしとされた実相寺院主も桜を切った
院主は日顕同様女を侍らせ魚鳥を食し酒と邪淫を好んだ

この季節ともなれば、総本山の春をいっそうあでやかなものとしたであろう、総坊前の桜はいまはもうない。日顕の命令により、平成四年十一月に百五十二本が間伐され、平成五年一月二十六日頃に六十六本、二月に六十本、総計二百七十八本の桜が切り倒されたからである。寒い冬を耐え、春を間近にしたある日、桜は花一輪も咲かせることなく、無残に切り倒されてしまった。

春だというのに、総坊前の空き地(もう庭ではない)には、二百余本の桜の切り株が、殺伐とした雰囲気の中であわれな姿をさらしている。総坊前は焦土と化した戦後の日本のようである。どこまでも見通せる空間が虚無の世界を作り出し、見る者を無力化する。日顕の修羅の生命は、人に破壊と絶望しか与えない。

桜を切る者は疎まれるべきである。まして、寺域に生えている大量の桜を伐採する僧ともなれば、大いに批判されるべきである。

日蓮大聖人を師と仰ぐ日興上人は、その青年時代、天台宗延暦寺系の寺院である実相寺を拠点に布教をしていた。実相寺は、静岡県富士市岩本に所在する。

実相寺の三代目院主は道暁であったが、あまりの堕落ぶりに反発した寺僧たちが訴え、やっとの思いで退かせた。ところが後任の四代目院主となった慈遍は、道暁にまさるとも劣らない堕落僧であった。

この四代目院主慈遍の傍若無人な振る舞いに悩んだ実相寺の僧たちは、鎌倉幕府に慈遍の解任を上申する。その堕落僧・慈遍を追放する動きの中心にあったのは、弱冠二十三歳の日興上人であった。

日興上人は、みずから筆を執り、慈遍の僧としてあるまじき五十一カ条の罪状を挙げて、幕府への訴状の草案を作った。その「実相寺大衆愁状」草案は、北山本門寺に現存する。実際に幕府に提出された訴状も、日興上人の清書になるものであったろうとされている。

さて、日興上人より院主として不適格、かつ僧にあるまじき行状の主として追放の対象とされた慈遍は、どのようなことをおこなっていたのだろうか。

『日興上人 日目上人正伝』(発行・大石寺)には次のように書かれている。

「慈遍はその最も清浄な坊に遊女を入れて管弦にふけり、酒を飲み魚鳥を食した。或いは世俗の婢を引き込んで、酒の相手をさせる一方、養蚕を営ませて利を得たという」

今様に言えば、芸者を侍らせ魚鳥を食し酒を飲み、邪淫を好み、金銭に執着する堕落坊主ということになろうか。いわずとしれた日顕ら一党の姿そのものである。日顕らは、日興上人より寺を追われるべき対象であるといえる。

「実相寺大衆愁状」を読めば、いちいちの罪状に、堕落僧・日顕の姿を彷彿とさせるものがある。

「偏に酒宴を事とし道場を穢さしめる事」(「実相寺大衆愁状」より引用)

この罪状を読めば、日顕が添書登山の謀計により創価学会を破壊できると考えていた平成三年四月十二日、正本堂裏手の桜林で宴会をしていたことが思い出される。そのとき、日顕は酒に酔い、身のほど知らずにも、「池田をそろそろ許してやるか」と、宴席に居並ぶ者に話した。

「女会遊宴の余り住僧を煩はしむる事」(同)

これも日顕宗のあさましい現状のままである。日顕の遊興癖のために、本来の仏道修行が阻害されている。

「寺中公私の仏事に酒宴を止められざる事」(同)

場所は移せど、日顕は丑寅勤行をさぼり、伊豆の超高級旅館に身近な坊主を呼び酒宴を設けていた。

日興上人が「実相寺大衆愁状」に認められた、慈遍の悪行と日顕との類似点を数えあげればきりがない。

ところで、本稿の主題は、桜であった。「実相寺大衆愁状」にも、桜に関する慈遍の罪状が挙げられている。

「寺中の桜を剪り取る事」(同)

慈遍も日顕と同じように、桜を切り倒していたのである。その慈遍の切り倒した桜が何本であるかは記述されていないが、日顕にまさることはあるまい。

日興上人の眼には、日顕は慈遍以上の極悪の堕落坊主と映ることだろう。日顕は大石寺から必ず追放されなければならない。

このたびの法難にあたり、日顕を果敢に糾弾し、いうなれば「大石寺大衆愁状」を書いた青年僧侶たちがいたことを、日興上人はどれほど喜ばれたことであろうか。

日顕がいかに桜を切り倒そうとも、正法正義のために潔く生きる者たちが絶えることはない。

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