報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十六章 宝珠ほうじゅ亡失ぼうしつ

地涌オリジナル風ロゴ

第567号

発行日:1992年12月6日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日蓮正宗が真に“正宗”であったのは学会との六十年間だけだ
邪宗となった“正宗”は“小宗”となり遂に“消宗”となる

先号で、日蓮正宗・大石寺の宗史が「日蓮宗勝劣派」「日蓮宗興門派」「本門宗」として邪宗・日蓮宗の各派と同調し「謗法同座」の汚れたものであったことを検証してきた。

大石寺は長い間、“謗法の管長”の支配下に置かれていた。ちなみに、明治二十二年、日応上人が第五十六世法主として登座した際の興門派の辞令は「駿河國富士郡上野村本山大石寺 住職申付 大石日応」(「興門大教院録事」より)となっている。いまで言うところの「法主」も、当時は“謗法の管長”によって「住職申付」られていたのだ。

それでは、大石寺が「日蓮宗富士派」と称して独立した当時、寺院、住職、信徒はどうだったか。寺院は八十七、そのうち住職は四十七人、檀信徒は約五万八千人程度であった。

これを日蓮宗各派の教勢と比較してみよう。明治三十七年、内務省の調査によると以下のとおりである。

明治37年、内務省の調査による日蓮宗各派の実勢

明治37年、内務省の調査による日蓮宗各派の実勢

この表で見ると富士派(現在の日蓮正宗)が、いかに弱小教団であったかが、ひと目でわかる。明治四十五年六月に富士派から「日蓮正宗」へと改称するわけだが、本来ならば「日蓮小宗」とすべきではなかったか。

否、いまからでも遅くはない。一千万信徒を破門にして一挙に明治時代と同じ程度の弱小教団になったのだから、「日蓮小宗」と改称すべきだと勧告しておく。それとも、この際、消えゆく将来の姿を見越して「日蓮消宗」とでも改称するのが妥当か。

日達上人は明治の中頃、東京には常泉寺、妙縁寺、常在寺、妙光寺の四カ寺しかなかったと言われている。この当時の、上野村の山寺・大石寺に登山する人などほとんどいなかった。

創価学会の登山会によって未曾有の七千万人が参詣したが、明治の頃は日顕流の表現で言うならば「チョボチョボ」にも満たない数であった。

たとえば、明治二十四年の虫払いには「六十有餘人々態々登山せられたる深信感ずべし」(『布教會報』第貮拾四號)とある。二大行事の一つである御虫払いに、わずか六十数人が登山すれば、特筆すべき出来事だったのだ。

また明治二十六年の御寶物虫拂會には「陸續登山せり其遠隔の地より登山せる人は東京常泉寺住職加藤氏外一名品川妙光寺住職富士本氏其他下山健治氏外三名……最も盛大なる法會にてありき」(『法王』第四拾七號)と記録されている。合計しても三十人そこそこの参加者なのに「最も盛大なる法會にてありき」なのである。創価学会の出現以前の総本山が、いかに衰微していたかがわかる。このとき、「登山講」の設立などを考える者もあったが、満足な成果は望めなかったようだ。

貧しさの故か「富士有志親睦道話會」の二百二十六名の人々に親睦会の会場を提供し、御開扉の後、酒宴を設けたり(『法王』第五拾五號)、日布上人が宗教学者の姉崎博士や国柱会の山川智応、長瀧智大らに御開扉をして、「佛祖*三寶も御滿悦のことゝ存ずる」と挨拶したり(『大日蓮』昭和十年三月号)、お金さえもらえば謗法の者に対する御開扉さえ何とも思っていなかったようだ。

横浜在留のアメリカ人に大石寺の古器物を見せて拝観料二円を貰った(『法王』第五拾五號)のも明治二十七年のことである。

後年、日亨上人が戸田会長に対して「戸田さん、あなたがいなかったら日蓮正宗はつぶれたよ」と言われた理由がうなづける。この「戸田さん」というのは「創価学会」と同義であろう。

この微弱で貧しく、お金のためなら謗法を犯すことも厭わぬ教団が明治三十三年、戸田会長の誕生を希求していたかのように「日蓮宗富士派」として、やっと独立するのである。だが、独立した教団になったからといって、“濁流”が急に“清流”に変わったわけではない。

一例を挙げると、明治三十七年の日露開戦に際して、時の法主・日応上人は「……義戦を起こし給ふ」等々と、率先して戦争促進の「訓諭」(二月十五日付)を出したり、「皇威宣揚征露戰勝祈*祷會」などをおこなった。

これに加えて、信徒の浄財を軍資金として献納したばかりか「戦勝守護の御本尊」一万幅を配布するという正法弘通の路線からの大脱線ぶりだった。「日蓮宗富士派」というのは“清流”どころか“泥沼”の様相を呈していたのである。

そして、同四十五年六月に「日蓮正宗」と公称したが、この頃から宗門は謗法、教義逸脱の最盛期へと向かう。

創刊したばかりの『大日蓮』には念仏、親鸞を賛嘆する論文が掲載(第一巻第二号)されたのをはじめとして『大日蓮』『白蓮華』などの機関誌の広告欄には「日蓮上人の御影」「日蓮上人御真筆御本尊織込純金襴」「祈*祷秘要録」「説教百座要集」「木魚」の宣伝文が氾濫。さらには浄土真宗、大谷派議制局、本派本願寺事務所が推薦する薬の広告などが数多く見受けられる。

無数ある謗法、教義逸脱のなかには打算的な利潤追求を目的とするものが目立つが、なかには当時の時代社会に対応しなければならない一面があったことも理解できないわけではない。だが、そうした条件を考慮しても、なおかつ、容認できない謗法が多すぎる。

牧口初代会長、戸田第二代会長が入信したのは昭和三年。謗法を糾弾して大聖人の仏法を復興させ、広宣流布していこうとの勇気ある決断であった。

この年には淫乱坊主・阿部日開が策略を巡らして猊座を盗み取り、その子供とされている天魔の落とし子・日顕(当時は信夫、昭和三十一年に信雄と変更。母は彦坂スマ)が得度した。

広宣流布の大指導者・池田名誉会長が誕生したのは、この年の一月二日であった。

日顕はつまらないことにはすぐに不思議の因縁を感じるようだが、戸田会長の誕生と日蓮宗富士派の独立、池田名誉会長の出生と法滅の妖怪・日開の登座、その子である魔僧・日顕の得度という不思議な符合、峻厳な事実を、なんとも感じないのだろうか。

牧口初代会長、戸田第二代会長は旧来の法華講では広宣流布はできないと判断し、昭和五年に創価教育学会を創設。

以来六十余年、軍部、国家権力の弾圧や競い起こるさまざまな広布妨害の策謀のなか、池田第三代会長を軸とする創価学会の不惜身命の戦いによって、広宣流布の大波は世界へと拡大され、百十五カ国・地域で一千万人の人々が活躍するまでに大発展を遂げた。日蓮大聖人の仏法は、ここに大復興を成し遂げ、前代未聞の隆盛をみせるまでになったのである。

大聖人の学会に対する絶大な称賛は間違いない。学会の正義と仏法運動は御本仏の照覧の下、さらに共感の輪を拡げながら、世界の人々に受け入れられていくことだろう。

それに対して、宗門は狂乱法主・日顕に引きづられて「日顕宗」に成り下がり、日亨上人の“学会がなかったら日蓮正宗はつぶれる”と心配された言葉が現実のものになろうとしている。

断末魔の日顕宗は、いまや広宣流布を妨害する存在になったばかりか、最近では頭破作七分の大謗法団体である顕正会という汚物まじりの濁流と合流しようと画策している向きもある。何ということか。

この顕正会こそ、先師・日達上人の御指南に逆らい、猊座を冒涜し、邪義を唱え、「流血の惨」の行動まで起こして、昭和四十九年八月に講中解散の処分を受けた仏敵の一派である。日顕は、どこまで先師に違背すれば気が済むのか。御本仏・日蓮大聖人のお嘆きの声が聞こえないのか。

第六天の魔王に魅入られた日顕によって日蓮正宗は邪教「日顕宗」に変わり果て、自滅の道を進んでいる。

過去の歴史も謗法、現在も、未来もまた謗法。日蓮正宗が真に“正宗”たりえたのは、学会と共に歩んだ六十年間のみであった。

家族友人葬のパイオニア報恩社