報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十一章 虚言きょげん羅列られつ

地涌オリジナル風ロゴ

第388号

発行日:1992年2月29日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

江戸時代の大石寺は「受派」として謗施をもって生き延びた
創価学会出現以前の富士大石寺の歴史は卑怯未練の歴史だ
〈導師本尊シリーズ・第10回〉

古来より、天皇、貴族、将軍、大名などは、多くの僧を集め「千僧供養会」をおこなった。その法要をおこなうことは、施主本人の功徳善根を積むのみならず、先祖の菩提のためにも絶大の効用ありとされたのである。

豊臣秀吉は、その晩年にあって、文禄四(一五九五)年九月二十五日、方広寺大仏開眼のために千僧供養会をおこなった。この千僧供養会には、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗の僧が出席を要請された。

日蓮宗の京都所在の各派に出仕の命が下されたのは、供養会を二週間余にひかえたときだった。日蓮宗各派は、京都の本国寺(のち本圀寺)に集まり、その対応を話し合った。

このとき、妙覚寺の日奥は、たとえ国主であっても謗法からの供養を受けずと主張して譲らなかった。だが、日奥の主張は多数派に容れられず、他の者は千僧供養に参加。一方で不参加の日奥は、「法華宗諫状」を豊臣秀吉に差し出した。

日奥が豊臣秀吉宛にしたためた「法華宗諌状」

日奥が豊臣秀吉宛にしたためた「法華宗諌状」

「時すでに法華の代なり。国また法華の機なり。しかればすなはち天下を守る仏法は、独り法華宗に限るべし。仏法を助くる国主は、専ら法華経を崇め給ふべし。所以に仏法世法相応ぜば、聖代速に、唐堯虞舜の栄に越へ、正法正義を弘通せば、尊体久しく、不老不死の齢を保ち給はんか」

日奥は、千僧供養に参加しないのみならず、死を賭して秀吉へ帰伏を迫ったのであった。また翌年には、後陽成天皇に対し「法華宗奏状」をもって諫暁している。

以降、日蓮宗系の各派は、この日奥を中心とする不受派(謗法の者からの供養を受けない)と、受派(謗法の者からの供養を受ける)との、二つのグループに大きく分かれていく。(筆者注 不受不施として供養を受けず、謗法の者に施さない者と、その他の者との区分の仕方もあるが、本稿においては受派と不受派に区分し論を進めることにした。これは国家権力による仏法に違背した命令を受ける受けないの区分である)

不受不施派の領袖であった妙覚寺日奥が、権力者の迫害にあうのは、慶長四(一五九九)年十一月二十日、大坂城においてであった。慶長四年は、豊臣秀吉の死の翌年である。

豊臣秀頼の後見として、国家治世の権を握りつつあった徳川家康が、大坂城に日蓮宗の不受派と受派を呼び出し法論をさせたのである。もちろん、徳川家康は行司役とはいえ、権力者の側から見て御しやすい受派を擁護したのは、いうまでもない。日奥の負けは当初より決まっていたようなものだ。

法論の最後に徳川家康は、日奥を「法華宗の魔王」と決めつけ、厳罰に処することを命じた。日奥は、その場で役人たちに袈裟、衣をはがされ、念珠を奪われた。そして、日奥は半年後、対馬に流罪になった。日奥は以降、十三年にわたり対馬にて流人として生活する。

日奥が剥がされたとされる袈裟衣

日奥が剥がされたとされる袈裟衣

日奥の配流と並行して、日奥率いる不受派に対する徹底的な弾圧が加えられたことはいうまでもない。

このとき、富士大石寺の様子はどのようなものだったろう。日亨上人は、「大仏殿千僧供養の時は地方寺院に其の災波及せず従って富士に何等の文献も存在せず」と『富士宗学要集』(第八巻)において述べられている。当時、他宗派においてもそうだったが、各宗派の動きは京都中心であった。日蓮宗もまた例外ではなかった。

富士大石寺は地方にあったために、千僧供養会に発する日蓮宗各派の受不受の争いの外にいることができたのである。

だが、世は徳川の時代となり、江戸に幕府が移され、それに伴い幕府におもねる身延山久遠寺が力を持ちはじめる。身延は、不受派を弾圧する徳川幕府の威光を笠に着て、不受派の寺への圧迫を間断なくつづけた。

慶長十七(一六一二)年、対馬に流されていた日奥が赦免され京都に戻ると、不受派の者たちがにわかに勢いを増した。そのため、不受派と受派の対立は激しくなった。

寛永三(一六二六)年、二代将軍徳川秀忠夫人の弔いのとき、不受派の池上(日樹)は布施を受けず、受派の身延は布施を受けた。池上側は、謗法から布施を受けた身延を非難した。身延は、それに対抗するため幕府権力に池上を訴え出たのである。

寛永七(一六三〇)年、江戸城において池上(不受派)と身延(受派)が、それぞれの代表六人を一列に並べ、対座させて法論をおこなった。このとき、大坂城での徳川家康にならい、幕府が受派を擁護したことはいうまでもない。

不受派は負け、後日、領袖たる日奥は再び袈裟をはがされ対馬への配流が決定した。だが、配流前に日奥が死んだので、その遺骨だけが対馬に送られた。幕府の不受派への弾圧は、たとえ死して骨になっても容赦なくおこなわれたのであった。池上の日樹も流罪となり、その他の高僧たちもことごとく追放された。

この「身池対論」の後、身延は幕府権力を背景に不受派の寺を屈服させ、次々と支配下に置いていくのである。この「身池対論」(寛永七年二月)の直後、身延は富士五山(富士大石寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、妙蓮寺)に対して、受派としての意志表明を七月に二度も迫っている。つづいて翌年にも二度(一月、七月)、身延は富士五山に対し、受派としての明確な意志表示を要求している。

身延の幕府権力を背景にしての富士五山に対する圧迫は、その後も数十年にわたってつづくのである。

富士大石寺は、「不受」の法義を捨てれば日蓮大聖人の教法に背くことになるので、身延側の罠にも似た難問の応酬にも態度を不明確にしてしのいだ時期もあった。

しかし、寛永十八(一六四一)年、徳川家光の代に大石寺は六十六石八斗五升余の朱印状をもらう。受派として、公権力より下される禄によって生活する道を選んだのだ。富士大石寺の法義の上での後退は、これだけにとどまらない。

寛文五(一六六五)年、幕府は、今後は寺領を供養として下附するとし、各寺に請書を提出するよう命じた。この要請に大石寺は、公儀に「受派」であるとの証文を差し出した。

大石寺は日蓮大聖人の弟子としての法義を捨て、国家権力の威迫の前に名実ともに屈服したのであった。日奥の率いる京都妙覚寺派などと比べるべくもない不甲斐なさであった。

そのとき、公儀に提出した証文は次のとおり。

「一、指上げ申す一札の事、御朱印頂戴仕り候儀は御供養と存じ奉り候、此の段不受不施方の所存とは格別にて御座候、仍つて件の如し。

 寛文五年巳八月廿一日本門寺、妙蓮寺、大石寺

 御奉行所」(『富士宗学要集』第八巻)

それ以降、大石寺は幕府より下される寺領などを御供養であるとし、謗施をもって生活することに甘んじたのであった。

いうまでもないが、この謗施は、寺社奉行の下で徳川幕府の民衆支配を忠実に代行することによって得たものである。徳川幕府は寺社奉行の下に、本寺(本山)→末寺→民衆という支配構造をつくり、徳川三百年の礎としたのだ。

正徳二(一七一二)年、総本山第二十五世日宥上人のとき、大石寺は三門造営のために、黄金千二百粒と、天領である富士山の材木七十本を幕府より受けた(『日蓮正宗富士年表』による)。

富士大石寺の入り口に偉容を誇る三門は、今日まで「富士の清流」の象徴とされてきたが、確固たる歴史から見れば、それは日蓮大聖人の法義を捨て、謗施を受けて命を永らえてきた大石寺の屈辱のモニュメントであったのだ。

ちなみに、不受派の妙覚寺日奥に対する受派の領袖は、本満寺(京都)日重であった。「閻魔法皇」「五道冥官」を書き込んだ導師本尊のルーツである「臨終曼荼羅」のうち、現存するもののなかで、もっとも多く認めることができる書き手は、受派の領袖であるこの本満寺日重である。

日顕宗が、日重の流れを汲むニセ曼荼羅の導師本尊に固執するのは、受派として徳川幕府に媚び、民衆を圧迫し栄華を極めたことが忘れられないからだろうか。仏子に隷属を強いる日顕らの言い分の多くは、日蓮大聖人の教法に背いた、この受派の時代のものである。

創価学会が出現する以前、大石寺のどこに「富士の清流」があったのか。日顕宗の言う「富士の清流」とは歴史的に無知の故の妄語にすぎない。

真実の「富士の清流」とは、日蓮大聖人と血脈を結ぶ、創価学会三代の師弟の絆に源を発している。これは、まぎれもなく事実にのっとった歴史認識である。

徳川家康の朱印状

徳川家康の朱印状

日蓮宗不受不施寺請禁止条目

日蓮宗不受不施寺請禁止条目

十一章 虚言羅列 終

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