報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

九章 破門はもん空言くうげん

地涌オリジナル風ロゴ

第313号

発行日:1991年11月9日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

解散勧告書で明らかになった法主と総監の教学力のなさ
法衣を着ているだけで尊いとは白衣を着た者はみな名医か

一昨日の十一月七日夜になって、日蓮正宗宗務院より各支院長宛にFAXが送られた。内容は次のとおり。

平成三年十一月七日

日蓮正宗宗務院

全国宗務支院長各位

お し ら せ

本日、午後六時二十三分、創価学会に対し『創価学会解散勧告書』を送達いたしました。なお、全国教師各位には明日この解散勧告書(写)を送付いたしますが、あらかじめ布教区管内の教師各位に御伝達願います。

以上取り急ぎお知らせいたします。

以上」

またも事後通達である。創価学会処分を求める署名捺印のように、日顕は自分の責任回避のためには宗内の者に協力を求めるが、それ以外はまったくの秘密主義。いったいこれからどうなるのか、宗内の者は誰も知らないのである。もちろん、相談もなければ、意見を聞く姿勢も見せない。

去る十月十七日には、「猿芝居」と後に酷評されることになる全国教師代表者会議を開いたが、発言者六名は宗務当局によって因果を含められた者で、集められたそのほかの者は、すべて操作対象でしかなかった。

いま日顕の心にあるのは、不信だけである。それだけに、規則と恐怖で宗内を律しようとのみ考えている。

十一月七日の夜になって、宗務院が急ごしらえとも思える「全国宗務支院長各位」宛のFAXを流したのは、おそらく『読売新聞』の夕刊、または『地涌』によって、「創価学会解散勧告書」が宗務院から創価学会側に送付されたことを知った末寺住職らからクレームをつけられることを恐れたからではあるまいか。

『読売新聞』が午後三時頃に報道し始めたことを、夜も八時を過ぎて宗務支院長に通達するとは、あまりに宗内を無視しすぎている。またも宗内に、宗務院の秘密主義に対する不満が鬱積することになった。

さて「創価学会解散勧告書」は「平成三年十一月七日」付で、「日蓮正宗管長 阿部日顕 日蓮正宗総監 藤本日潤」の連名をもって創価学会側に出された。

宛名は「創価学会名誉会長 SGI会長 池田大作殿、創価学会会長 SGI理事長 秋谷栄之助殿、創価学会代表役員 創価学会理事長 森田一哉殿」の三名となっている。

日顕は池田名誉会長宛に手紙を出すのであれば、まず丁重な謝罪をおこなうべきである。正本堂の意義づけに関して、なんの根拠もなく、単に日顕自身の勘違いで池田名誉会長を慢心と決めつけ、正本堂建立の一大功労者である池田名誉会長の名誉をいちじるしく毀損した。

まずは、それ以来の非礼を詫びるべきだ。それもしないとは、日顕という男は、どこまでも非常識な男である。しかも、創価学会に送りつけてきた文書は、「創価学会解散勧告書」である。なんの効果も期待できない、自慰行為にも等しい愚行だ。

同「勧告書」の冒頭は、次のように始まる。

「創価学会は、本来、唯授一人血脈付法の法主の指南、及び教導のもと、日蓮正宗を外護し、広宣流布へと挺身すべき本宗信徒の団体であります」

この文を書いた者は、書いている文章の意味がわかって書いたのだろうか。創価学会は寸分違わず、この冒頭に書いてある文のとおり「日蓮正宗を外護し、広宣流布へと挺身」してきた。その結果が、どうだったか。

僧侶は思い上がり、信徒を睥睨し、堕落しただけだった。女を囲い、高級クラブに通い、ゴルフに夢中になり、赤いスポーツカーを乗りまわす者など掃いて捨てるほどいる。僧侶や寺族は、折伏をしようなどという意欲もなければ、勤行すらしない。

僧侶夫人の中には、ゴルフに興じ、高級品を買い漁ることには一生懸命でも、子育てや食事の用意、洗濯をまったくといっていいほどしない者もいる。すべてお手伝いさん任せなのだ。

それでいながら、裏に回っては、寸暇を惜しんで広宣流布の指揮をとる池田名誉会長や、懸命に折伏行に励む創価学会員の悪口を言う。

それでは、僧の頂点に立つ日顕はどうかといえば、これがまた最悪なのだ。「唯授一人血脈付法の法主」として、宗開両祖を偲ばせるほどに人格の陶冶を目指さなければならない立場にあるにもかかわらず、日顕にはその自覚すらなく、野卑にして傲慢なる素顔は隠しようもない。

少しでも目下と思うと威丈高になり、「信徒の信心などどうなってもいいから、かましてやれ!」と末寺住職に向かって言う男が、人に従えと言えるような人格の持ち主だろうか。幼児期に相当ゆがんだ育てられ方をしたとしか思いようがない。

日顕夫妻は「寺院」と偽り、東京・目黒区に地下プール付き二十億円の豪邸建設を計画していた(本紙第71号、第75号、第198号などに詳述)。そればかりか、日顕の妻である政子ら宗門高僧の夫人たちは、一年半の間に京都で超高額の服を買ったり、超高級エステに通ったりして、二億円もの金を散財している。

自分の女房には放蕩三昧の生活をさせておきながら、寸暇を惜しんで日夜広宣流布に励む仏子らに、「法主の指南、及び教導」に従えと高圧的に言っても、誰もそんな法主の言うことなど聞くはずがない。まずは、「イメルダ」との異名をとる政子を、「指南」「教導」することだ。

そしてそれができたら、今度は日蓮正宗の僧侶と寺族が毎日、勤行をし、折伏に励むように「指南」「教導」する。僧侶が創価学会員の数倍、唱題し、数倍、折伏すれば、従えと言わなくても、信徒は自然に従う。

しかし、僧侶と寺族の現実はといえば、勤行はさぼる、折伏はしない、贅沢はする、威張る──そんな僧侶のどこを尊敬し、従えばいいのだろうか。

「指南」とか「教導」と言っている日顕ら宗門中枢および僧侶みずからが、まずその範を垂れるべきではないか。日蓮大聖人の仏法を、信徒を隷属させ、金を召し上げる道具にしてはならない。

「創価学会解散勧告書」は、紹介した冒頭の一文に続き、これまた同様に、みずからの姿を省みることもなく次のように記している。

「ところが、最近、創価学会は、自らの本分を忘れ、本宗信仰の命脈たる下種三宝義、並びに血脈相伝義をはじめとする本宗伝統の化法・化儀を、己儀をもって改変し、他宗教さながらの様相を呈しております。日蓮正宗としては、これまで慈悲の立場から、種々の指導・善導に努め、教誡等をもって反省懺悔を求めてきましたが、創価学会は、全くこれを無視し、かえってあらゆる手段をもって、法主・宗門に対して、誹謗・攻撃を加えつづけてきております」

日顕一派は、倒錯してしまっている。「自らの本分」を忘れているのは、自分たちだということに早く気がつくべきだ。広宣流布を主体的に進めてきた仏子らに言ってよい言葉ではない。日顕はみずからの幼少期の生活を思い起こすことだ。どれだけみじめな生活をしていたか忘れたわけではあるまい。

これほど総本山を発展させてきた仏子らに対し、法主としての「自らの本分」を思い起こし、慈愛をもって臨むべきだ。従わなければ「C作戦」を発動し、創価学会を解体しようとし、言うことを聞かなければ「かましてやれ!」では、「唯授一人血脈付法の法主」の行躰とはとても言えない。

いまの日顕では、「日蓮大聖人の嫡流である御法主上人猊下です」といって、人前に出せるものではない。言葉づかいも悪い、根性も悪い、品性もない、幼児期にさかのぼって、日顕が親からどんな教育や躾を受けたのかのぞいてみたくなる。

同「勧告書」の、「本宗信仰の命脈たる下種三宝義、並びに血脈相伝義をはじめとする本宗伝統の化法・化儀を、己儀をもって改変し、他宗教さながらの様相を呈しております」とは、まさに日顕率いる狂ったいまの日蓮正宗のことだ。

三宝破壊をしているのは、まぎれもなく日顕である。僧俗たちに自分のことを「大御本尊と不二の尊体」「現代における大聖人様」と呼ばせ、悦に入っているのは日顕ではないか。僧宝である日興上人をないがしろにし、みずからは仏宝である日蓮大聖人と同格になろうとしているのは、明らかな三宝破壊である。

日顕の慢心は、それだけにとどまらない。最近、伝えられるところによれば、本年八月の富士学林の講義において、「日顕が本、日蓮大聖人が迹」との邪義が非教師たちに教えられていた(『聖教新聞』平成三年十一月七日付)。それを日顕は、黙過している。

もっとも、みずからの犯した謗法を指摘されても改めもしない日顕に、他の者の謗法をとがめる資格などない。いわゆる「禅寺墓問題」では、日顕が禅寺に五百五十万円もかけて先祖代々の墓を建立し、その墓前で、父・日開上人の法要までしていた。

さらに日顕は、広宣流布の一大功労者である池田名誉会長を傷つけたいばかりに、師たる日興上人に敵対した波木井実長の功績を、史実に反して過大評価した。

「日興上人は、波木井のような功労者であっても絶縁された。過去に功労のあった池田名誉会長であっても、いまが駄目なら処分してもよい」との論理を導き出すため、さしたる功績のない波木井をほめそやしたのだ。

法主が大謗法者の波木井の功績を力説するなど、富士門流始まって以来の妄説である。このほかにも、日顕の邪義、妄説、己義はあげればきりがない。

「己儀をもって改変し、他宗教さながらの様相を呈しております」のは、日顕一派率いる日蓮正宗のことである。しかもその謗法を、外護団体である創価学会がいくら指摘しても直そうとせず、逆恨みをして、権威・権力をもって創価学会を圧迫しようとしているのだ。

過ちを指摘されると攻撃的になる日顕は、相当に愛情に飢え、周りから蔑まれた幼児期を過ごしたのだろうか。そのように考えなければ、日顕の行動は理解できないものがある。

ともあれ、日顕一派は創価学会に対して逆恨みをして、「誹謗・攻撃を加えつづけてきております」。その狂った姿は、浅ましいの一語に尽きる。よって、もはやこれ以上、看過することはできず、ここに日蓮正宗に対し、解散を勧告せざるを得ない。ここまでで、「創価学会解散勧告書」の一ページ分の反論である。

日顕らは、同「勧告書」の二ページ目以降も、同様の威丈高な主張を繰り返しているだけだ。なんと、それは三十六ページに及んでいる。内容は、陳腐にして新鮮味なし。ただただ、僧侶と信徒のあいだには侵しがたい筋目があるのだという主張ばかり。まともに反論する気にもなれないので、以下、抜粋して紹介する。

「法主に対して違背するならば、(中略)師敵対の大謗法となるのであります」(同「勧告書」五ページより引用)

法主が謗法を犯しているとき、それに従えば与同罪となる。なにをもって強圧的な言葉を用いているのだろう。

「法主に信伏随従する一般僧侶は、法主の血脈に摂せられて、僧宝の一分に加わりますから、本宗の信徒は、所属寺院の住職・主管を、血脈法水への手続の師匠と心得なければなりません」(「同」六ページより引用)

僧侶が「手続の師匠」といえるだけの信心を確立することを、仏子ら全員が望んでいる。「手続の師匠」が堕落し、放蕩三昧ではどうにもならない。

「日寛上人は、法衣の功徳について、『戯に衣を着る功徳尚爾なり何に況や真実に着せんをや』と仰せですが、僧侶は、この本因下種の法衣を着するゆえに、身心ともに僧宝の一分に加わり、血脈法水への手続を努めるのであります」(「同」六ページより引用)

僧侶は衣の意義をよく噛みしめ、行躰を改めること。法衣を着た畜生と言われないようにすること。僧衣を着る者の自覚を高め、僧を誡めるために述べられている日寛上人の言葉をもって、信徒を圧迫する文証に使うとは、仏子はおろか日寛上人をも愚弄するものである。この論でいけば、白衣を着た医者はみな名医ということになる。

以下、三十六ページにわたり、愚にもつかない論が続くのだ。

このような文書を、法主と総監の連名で出すとは、両名とも傲慢になりすぎて、頭が相当におかしいのではあるまいか。教学レベルは最低。この程度の教学力の男たちが、日蓮正宗のナンバー1、ナンバー2というのだから驚く。ただし、威張り方はいずれも世界の十指に入る。

三十六ページにわたり、“自分に従わなければ地獄に堕ちる”と脅し続けているのだから、いまの時代にはあまり見られない、超珍奇な人間の類型に属する。人に尊敬されたければ、尊敬に値するだけの人間になることだ。

僧分にありながら、人間としての向上心に欠け、堕落と傲慢に浸っているのなら、即刻、日顕は退座するべきである。

〔余談になるが、十一月八日十六時十分より十六時四十分まで、総本山大石寺において日蓮正宗の記者会見があった。日蓮正宗宗務院の出席者は、渉外部主任・梅屋誠岳、同書記・阿部郭道の二名であった。総監、五部長は皆、逃げてしまった。世間にこれだけの一大騒動を巻き起こしていながら、責任者不在の記者会見を開いたのだ。その無責任ぶりには、マスコミ関係者もあきれていた〕

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