報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

八章 仏子ぶっし哄笑こうしょう

地涌オリジナル風ロゴ

第293号

発行日:1991年10月20日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

侮蔑と差別と不信の産物が教師代表者会議という猿芝居だ
宗内操作と決めつけで信徒を処分することが富士の僧道か

十月十七日、総本山大石寺でおこなわれた全国教師代表者会議が、噴飯ものの茶番劇であったことは、先々号、先号で指摘したとおりである。

あらかじめ決められていた六名が、打ち合わせどおりに挙手し、指名されて発言し、創価学会の処分を要求したのだった。この会議の運営の仕方に、日顕ら日蓮正宗中枢の陰謀性と卑怯さが象徴されている。

日顕らは、権勢を維持し信徒を隷属させる目的を達成するためには、どのような策謀をもおこなうのである。その根底には、人々に対する基本的な侮蔑がある。

自分の僧階が一つでも上であれば、相手を虐げて当たり前と考えている。まして相手が信徒であれば、僧侶にぬかづくのは至極当然と思っている。こうした差別意識があるために、人に対するいかなる愚弄をも平気でおこない得るのである。

十月十七日の全国教師代表者会議もまた、そのような差別意識にのっとった愚民政策の一環としておこなわれた。

日顕は、役僧たちを腹の底では侮蔑しながらうまく使おうとし、役僧たちは六名の発言者を半ば疑いながらもうまく操ろうとし、六名の発言者は仲間内より抜きん出て意見を開陳することが、いっそう権勢に近づき得るものと思い、平気で仲間を操作対象とした。

これまた精神的には裏切りであり、友に先んじて「蜘蛛の糸」を少しでもたぐり、上に昇ろうとしているのだ。自分より下に位置する同胞が、糸が切れ奈落に転落することを望んでいるのは言うまでもない。芥川龍之介の描いた、人の心の暗部である。

侮蔑と差別と不信の産物が、10・17全国教師代表者会議であった。名称とは正反対に、そこに集う者を、これ以上、愚弄し侮蔑した会議はないだろう。いや、会議という名称を使うことすら恥ずかしい。

それでは猿芝居の主役を仰せつかった、エリート六名の発言内容の一部を紹介しよう。まず、このあらかじめ決められていた六名の発言は、次のような、司会の見えすいた呼びかけから始まった。

「それでは代表者の方々より御意見を賜りたいと存じます。マイクは通路の中央と前方両サイドに用意してございますので、司会が指名いたしましたら、そちらのマイクのほうでお願いしたいと思います。

なお、代表者以外の方の傍聴を許可しておりますが、傍聴席よりの御意見は今日は御遠慮いただきたいと思います。

それでは御意見のある方、どうぞ挙手をお願いいたします」

そこで何名かが挙手をしたが、司会者は決められた者を決められた順に、指名したのだった。

一番目に指名されたのは、青山聽瑩である。青山は広島県興福寺の住職で、本年(平成三年)五月十七日、興福寺の改築落慶法要をおこなったばかり。すっかり面倒を見てもらい、宗門中枢にまったく頭の上がらない男である。

青山は伽藍仏教の第一人者だ。大きな本堂を建てれば信徒が集まると考えている。信徒は僧侶の聖僧たる行躰を慕うのだという自明の理がわからないのだ。数年も経れば、大きな本堂にポツネンと青山が一人で座っていることだろう。

青山は発言の冒頭、去る九月十五日、件の興福寺本堂でおこなわれた法華講中国大会の三カ条の決議にふれた。

「その決議の三カ条とは、一つには、私たちは池田大作氏の三宝破壊を許すことはできません。二つには、私たちは池田大作氏の化儀化法の破壊、改変を許すことはできません。三つに、会員混乱の原因はすべて池田大作氏の名聞名利の慢心にあります」

ことごとく池田名誉会長に対する根拠なき中傷である。真実を見る目をもって、このペテンに満ちた決議の欺瞞を見抜かなければならない。

第一に、三宝破壊をしているのは日顕である。日顕はみずからを、「現代における大聖人様」「大御本尊と不二の尊体」などと機関誌や公式文書で呼ばせている。時の貫首が、僧宝である日興上人をも超えて仏宝である日蓮大聖人と肩を並べようとしているのだ。この破仏法を許してはならない。

第二に池田名誉会長が「化儀化法の破壊、改変」をおこなったとしているが、その根拠は示されていない。日顕が、波木井実長を称えるなどして富士の立義を根底から崩していることこそ問題にすべきだろう。

余談になるが、法類ごとに別々の「化儀化法」を立てている宗門の現状を反省し、宗門は、「化儀化法」の整足をおこなうべきだ。信徒に「破壊、改変」などと言っていないで、宗門みずからの混乱を正すべきだ。総本山塔中坊の根壇家の「化儀化法の無視」も正すべきだ。

第三に日顕が、昨年(平成二年)夏に「C作戦」(創価学会分離作戦)を立案し、腹蔵し、虎視眈々とその実行のチャンスを狙ってきたことを知らなければならない。いきなり闇討ちのように、昨年十二月二十七日に突如、池田総講頭を実質的に罷免にした。その張本人、日顕こそ、すべての混乱の原因である。

決めつけによるレッテル貼りで、これまでの功労を無視して、仇をもって報いることが僧道なのであろうか。青山の発言は、その前提からしておかしい。「三カ条の大会決議」といえばもっともらしいが、それ自体が事実を無視した欺瞞なのだ。

今回の大混乱の一切の原因は、日顕にある。日顕が三宝破壊をおこない、仏法を曲げ、その大謗法を懺悔せず、開き直って信徒団体である創価学会を処分しようとしている。これが今回の大混乱の真相である。

青山は、その日顕の罪悪に一切、目もくれず、なぜ信徒が日顕を批判しているかについて、一切の思考を停止している。そして、次のように青山は話している。

「秋谷会長の指導も、公然と宗門批判の声として『聖教』紙上に掲載せられてあります。しかも、御法主上人への非難というものは、もう極限にまで達し、一般公開の文書と言える『地涌』などには、御法主上人を否定して、お名前を呼び捨てにするなど、まことに信徒にあるまじき態度と信仰の姿であります」

この前まで、日蓮正宗僧侶の多くは、『地涌』は怪文書であるとしていた。末寺住職と創価学会員の問答において、創価学会員が『地涌』に書いてあったことを根拠に質問すると、「『怪文書』に書いてあったことなどに答えることはできない」と言って逃げていた。

であるのに青山は『地涌』が、「日顕」「日顕」「日顕」と呼び捨てにすることが、創価学会破門の理由の一つであるという。それも、「秋谷会長の指導」と併記して、創価学会の罪状の一つとして挙げているのだ。

念のために断っておくが、『地涌』の発行母体は「日蓮正宗自由通信同盟」である。憂宗護法の道念に燃えた日蓮正宗僧俗によって組織されている。

もし、『地涌』が「日顕」と呼び捨てにする責任を問うのであれば、日蓮正宗総監の藤本日潤が、宗内の不祥事として責任をとるのが妥当である。『地涌』は、まぎれもなく日蓮正宗内部の問題なのだ。

なお、「日顕」と呼び捨てにする理由は、本紙第284号に明記したとおりである。

すなわち日顕が、「三宝破壊」や「禅寺墓問題」などの謗法を犯していながら、その懺悔を潔くしないからである。仏典に従ったまでにすぎない。

「夫れ人の世間に処するに、過有りて能く自ら改むる者、斯れを上人と名く」(増一阿含経巻三十九)

謗法を犯してもそれを改めない日顕は、「上人」と呼ぶにふさわしい男ではない。仏典により判断し、「上人」号をはずしたのだ。

それをもって、創価学会に対する強硬措置の根拠とするなど、感情論以外の何ものでもない。責任を問うなら、総監の藤本あたりが適当。本質的には、日顕その人が、責任の「一番の元」である。青山は、このような感情論をもって、信徒の基本的権利である「御本尊御下附停止」を要望しているのだ。

この要望に続く青山の発言がふるっている。

「九月十五日の中国大会に集まった信徒からも、はっきりとした処置、処分を望む声がたくさん寄せられました。しかし、反面、学会としては、宗門からの処置が出るのを、首を長くして待っていることでもあろうと思います。

彼らは、広宣流布をこれだけやり、総本山にこれだけ尽くし、宗門末寺をこれだけ護ってきた。我々尊い仏子に対し、宗門本山はこのような処分をした。無慈悲、恩知らずこのうえないと会員向けのメッセージを用意して、首を長くしてその日を待っているのではないかと思います。

ならば宗門は、その学会の手の内に乗っても、学会の望みどおりの処置を取っていかれたらよいと思います」

実に傲慢な発言である。創価学会は、「C作戦」などという創価学会解体を目的とした謀略に抵抗しているだけだ。日顕が法主でありながら犯した大謗法の罪を責めているのである。何をもって、創価学会が「宗門からの処置が出るのを、首を長くして待っている」ということになるのだろうか。虐殺者の論理である。

自由と平等を希求して、ナチスの暴虐に生命を懸けて抵抗した人々。その人々を虐殺者たちは、「奴らは、死を望んでいるのだ。自由の殉教者になりたがっているのだ。であればそれに報いてやろう」と語り、無辜の人々を殺した。

青山の発言も、論理においてそれと同じである。この青山の発言に、高慢な生命に発する残虐さを見いだすものだ。

創価学会員がもっとも望まないことを、ことごとくおこなってきたのは宗門である。創価学会員の信仰心に基づく純真さを逆手にとって、和合僧団を破壊しようとしたのは、日顕ら宗門中枢である。

池田名誉会長を、総講頭職より、言語道断に引きずり降ろし、その権威・権力の前に、池田名誉会長以下の創価学会員すべてをぬかずかせようとした。それが「C作戦」のスタートであった。池田名誉会長の総講頭罷免を、創価学会員の誰が望んでいたというのであろうか。

日顕ら宗門中枢は、創価学会および会員のもっともいやがることをおこない、信仰心を逆手にとって屈服させようとしたのだ。

添書登山にしてもしかりである。日顕らに屈服しなければ戒壇の大御本尊様にお目通りできないとした。創価学会員がもっとも嫌うことをおこない、屈服させることにより魂を抜こうとしているのだ。そして今、創価学会は「破門」を望んでいるという。

そのようなことを誰が望んでいようか。ただ、謗法をおこないながら懺悔もせず、己の慢心を充たすためであれば三宝も平然と破壊し、日淳上人が霊山会の儀式に由来するとまで称讃された和合僧団・創価学会を殲滅しようとする、そのような暴虐非道をおこなう日顕に、絶対に屈服したくないだけだ。

謗法者に屈服してしまったら、宗開両祖にどのように申し開きができようか。

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