報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

七章 天魔てんま出来しゅったい

地涌オリジナル風ロゴ

第284号

発行日:1991年10月11日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

法主が禅寺に先祖代々の墓を建立して墓前で法要した
これだけ明らかな謗法を犯して懺悔しない日顕は一闡提だ

本日より、本紙は日顕に「上人」の尊称をつけないことにした。その理由は、法主の立場にありながら日蓮大聖人の仏法に背き、数々の大謗法を犯した罪による。本来ならば俗名・阿部信夫(あべのぶお)と呼ぶのが妥当だと思われるが、読者の方々への便宜上、「日顕」と呼称する。

かねてから、この考え方を持っていたが、日顕に一沫の懺悔の心が沸き起こることを期待して、本日まで呼び捨てにすることを避けてきた。また、感情的になりすぎて、みずからの犯している謗法を、謗法として認識するだけの判断力がなくなっているのではないかとも疑い、憐憫の情をもって事態を見守る気持ちもあった。

ところが、今回、邪宗の寺域に先祖の墓を建立し、墓前で法要をするという明らかな謗法を犯しても、日顕はその罪を認めず、懺悔滅罪も願わない。

それどころか開き直って、時局協議会を使いみずからの過ちを糊塗しようとしている。時局協議会のメンバーといえども、仏道を志した日蓮大聖人の弟子である。

己の謗法を言い逃れるため、目下の者を盾に使い、その者らに、懺悔してもぬぐいがたい謗法の罪を犯させるとは何事であろうか。

ここにいったって、日顕には改悛の情がないものと判断し、日蓮大聖人の仏法を誑惑する日顕を、今後は単に「日顕」と呼ぶことにした。また、日顕に「上人」の尊称をつけないことは、次に紹介する仏典によっても妥当と判断できる。

「夫れ人の世に処するに、過有りて能く自ら改むる者、斯れを上人と名く」(増一阿含経巻三十九)

過ちを犯して「自ら改むる者」を「上人」と呼ぶのだから、過ちを犯して改めない者は「上人」ではないことになる。したがって今後、日顕を呼ぶのに「上人」の尊称をつけることは好ましくないと判断したのだ。

ここに再度、明記しておきたい。日顕は、法主の座にありながら邪宗の寺に先祖代々の墓を建立し、その墓前で先祖供養をおこなった。それにもかかわらず懺悔しないので、それを契機に「日顕」と呼称されることになったのだ。

もっとも、これは一つの契機にすぎず、日顕が尊称をもって呼ばれない根本原因は日顕の犯した数知れない謗法による。

宗祖日蓮大聖人の仰せに曰く。

「智者聖人の一生が間に一悪をもつくらず人には仏のやうにをもはれ、我が身も又さながらに悪道にはよも堕ちじと思う程に、十悪・五逆の罪人よりも・つよく地獄に堕ちて阿鼻大城を栖として永く地獄をいでぬ事の候けるぞ」(妙法比丘尼御返事)

【通解】一生のあいだに一つの悪もつくらず、人からは仏のように思われ、我が身もまた、よもや悪道に堕ちることは有るまいと思っている智者・聖人が、十悪・五逆の悪人より以上に地獄に堕ちて、阿鼻大城をすみかとして永く地獄を出られないということがある。

まさに、これは日顕および日顕に従う日蓮正宗僧侶らのことである。自分が地獄に堕ちることはないと思っているが、謗法の故に堕ちるのである。

宗祖日蓮大聖人の仰せに曰く。

「天台智者大師の梵網経の疏に云く謗とは背なり等と云云、法に背くが謗法にてはあるか天親の仏性論に云く若し憎は背くなり等と云云、この文の心は正法を人に捨てさせるが謗法にてあるなり」(顕謗法抄)

【通解】天台智者大師の梵網経の疏に「謗とは背くことである」とある。法に背くことが謗法といえよう。天親の仏性論には「憎むとは背くことである」とある。その文の意は、正法を憎んで人に捨てさせることが謗法ということである。

これもまた、日顕および日顕に従う日蓮正宗僧侶らのことである。正法を持ち奉る者を憎み、法に背き、仏子らを迫害しているのだ。そして、多くの正信の者を退転させることすらはばからない。

日顕は、去る八月二十九日に総本山においておこなわれた全国教師指導会において、ある住職に対し、激して次のように語った。

「(学会員の)信心がいやになろうが、なにしようがそんなことは関係ないんだ! 君にとっては! そんなこと、そんなくだらないこと言っておってはだめだってことを頭から少しかましてやればいいんだ、そんな者に対しては」

日蓮大聖人が天親の文を引かれて「憎は背くなり」と仰せになった謗法の姿そのものを、日顕は現じているのである。池田名誉会長を中心に結束する法華経の行者に対する憎しみのあまり、御本尊を護持する者が退転しようがどうしようがかまわないと怒鳴りつける。そのような狂乱した日顕は、姿は法主でも本質は謗法を犯す者である。

謗法を犯す者は、かならず地獄に堕ちる。しかも、懺悔しない謗法の罪はもっとも重い。

「此の経文の心は法華経の行者を悪口し及び杖を以て打擲せるもの其の後に懺悔せりといえども罪いまだ滅せずして千劫・阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ、懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし、故に法華経第二に云く『経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生れん、是くの如く展転して無数劫に至らん』等と云云」(顕謗法抄)

【通解】この経文の意味は、法華経の行者を悪口し杖でもって打ったりした者は、その後に後悔し懺悔したとはいっても、罪はいまだ消滅しないで千劫の間、阿鼻地獄に堕ちたということである。懺悔した謗法の罪ですら五逆罪に千倍する重さである。まして懺悔しない謗法においては、阿鼻地獄から出る時期は永遠に来ないであろう。ゆえに法華経第二の巻の譬喩品第三には「この法華経を読誦し、書写し、受持する者を見て、軽んじ、賤しめ、憎み、妬んで、恨みを懐くならば、乃至その人は命が終わって阿鼻地獄に堕ち、一劫が尽きてまた阿鼻地獄に生まれ、このように繰り返して無数劫に至るであろう」と説かれているのである。

日顕は、謗法の罪をいささかなりともまぬかれようとするならば、法華経の行者である創価学会員を迫害したことを懺悔しなければならない。それも真剣に心底から懺悔しなければならないのだ。

だが、日蓮大聖人の仰せによれば、どんなに懺悔しても、その罪は五逆罪に千倍するほど重いものなのだ。

宗祖日蓮大聖人の仰せに曰く。

「将た又謗法の罪は重く懺悔の力は弱くして阿闍世王・無垢論師等のごとく地獄にや堕ちにけん」(神国王御書)

【通解】それとも謗法の罪は重く、懺悔の力は弱いため、阿闍世王・無垢論師等のように地獄に堕ちたか、それは知らない。

懺悔の心が弱ければ、日顕は阿闍世王らのように地獄に堕ちることは、御聖訓に照らして明らかである。

さて、日顕および日顕に従う日蓮正宗僧侶らは、どうしてここまで仏法に対して素直になれないのであろうか。それは日顕らが、言葉ではどうであれ、根本的には僧侶以外の者が仏性を有していることを信じていないからだ。

そのことは、日顕らの言動を見ればわかる。腹の底では、自分たちが特別の者だと思っている。仏法の本質から見れば、僧侶も信徒もなんら区別はない。日顕らは、理論的に衆生がことごとく仏性を有していることを口にすることがあっても、実際の心の中では、それは認めがたいことだと思っているのだ。

僧侶と信徒のあいだに本源的な差別があると、生命の底では固く思っている。なおかつ、その差別観に基づき、信徒の上に祭祀特権階級として君臨することが正当であると思い上がっている。

とどのつまりは、法主に「信伏随従」することが日蓮大聖人の仏法であるとまで、日蓮正宗中枢は主張する。だが、それは日蓮大聖人の仏法にはなはだしく背くことである。

「御義口伝」に云く。

「信とは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり」

【通解】信伏随従の信とは無疑曰信〈疑いなきを信と曰う〉の信であり、伏とは法華経に帰伏することである。随とは心を法華経即御本尊に移すことであり、従とは身を御本尊に移すことである。

大御本尊様に帰命することが、真の「信伏随従」であると、宗祖日蓮大聖人は仰せになっているのに、法主に「信伏随従」しろとは、大変な謗法である。それを言わせて平然としている日顕は、類まれな大慢心の持ち主であり、大謗法の者でもある。

信徒を睥睨し、信徒に隷属を強いる日顕らは、法華経と相容れない差別観の持ち主である。すべての衆生が仏性を有しているという仏の教えが、どうしてもわからないのだ。

「闡提とは天竺の語此には不信と翻す不信とは一切衆生・悉有仏性を信ぜざるは闡提の人と見へたり」(顕謗法抄)

【通解】闡提とはインドの言葉であり、漢語では不信と訳する。不信とは「一切衆生にことごとく仏性がそなわっている」ということを信じないことであり、これを闡提の人というのである。

日顕らは闡提である。一闡提である。

これら一闡提に対しては、断じて施を止めなければならない。涅槃経に曰く。

「仏の言く唯だ一人を除いて余の一切に施さば皆讃歎す可し、純陀問うて言く云何なるをか名けて唯除一人と為す、仏の言く此の経の中に説く所の如きは破戒なり、純陀復た言く、我今未だ解せず唯願くば之を説きたまえ、仏純陀に語つて言く、破戒とは謂く一闡提なり其の余の在所一切に布施すれば皆讃歎すべく大果報を獲ん、純陀復た問いたてまつる、一闡提とは其の義何ん、仏言わく、純陀若し比丘及び比丘尼・優婆塞・優婆夷有つてそ*悪の言を発し正法を誹謗し是の重業を造つて永く改悔せず心に懺悔無らん、是くの如き等の人を名けて一闡提の道に趣向すと為す、若し四重を犯し五逆罪を作り自ら定めて是くの如き重事を犯すと知れども而も心に初めより怖畏懺悔無く肯て発露せず彼の正法に於て永く護惜建立の心無く毀呰・軽賤して言に過咎多からん、是くの如き等の人を亦た一闡提の道に趣向すと名く、唯此くの如き一闡提の輩を除いて其の余に施さば一切讃歎せん」

【通解】仏のいわく「ただ一人を除いて、他の一切の人に布施するならば、皆その布施行を讃歎するであろう」と。これに対して釈尊の弟子、純陀が質問することには「どういう人を名づけてただ一人を除くというのですか」と。仏のいわく「今ここで唯一人とは破戒の者である」。
 純陀がまた質問する。「自分にはどうしてもまだわかりません。もっと詳しく教えてください」。仏いわく「破戒の者とは一闡提のことである。一闡提以外の一切の人に布施すれば、皆讃歎すべきであり、しかも大果報を得るであろう」
 純陀が重ねて質問する。「一闡提とはどういうことですか」仏いわく「純陀よ、もし僧尼および俗男俗女が、粗悪な言葉をもって正法を誹謗し、そのような正法誹謗の重業をつくって、しかもそれを悔い改めようとせずに、こころに懺悔しようとしないであろう。そのような人を名づけて、一闡提の道に趣く者というのである。あるいはまた、殺、盗、淫、妄語等の四重罪を犯し、破和合僧などの五逆罪をつくり、しかも、自分でそのような重罪を犯すことを知りつつも、最初から心に恐れ慎んだり懺悔したりする心が少しもなく、また、かりにそのような心があったとしても、表面には少しもそれを示さず懺悔しない。そして正法を護り惜しみ建立する心など少しもなく、かえって正法を破り、悪口をいい、いやしんで、その言葉はあやまりだらけであろう。そのような人たちのことを、また一闡提の道におもむくものとなすのである。ただこのような一闡提の人たちを除いて、それ以外のものに布施するならば、一切が讃歎するであろう」と。

このように、涅槃経には、「一闡提」に対しては絶対に布施をおこなってはならないと説かれている。「一闡提」とは、現代においては法華経と相容れない差別観を有する日顕らのことである。

日顕らに施さないことは決して戦略・戦術だけではない、教義に基づく行動である。仏法上、日顕らに施してはならないのである。

宗祖日蓮大聖人の仰せに曰く。

「全く仏子を禁むるには非ず唯偏に謗法を悪むなり、夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む」(立正安国論)

【通解】まったく仏子を禁ずるものではない。ただひとえに謗法を悪むのである。いったい、釈尊以外の仏教においてはその罪を斬ったのであるが、釈尊以後の教説は、すなわちその布施を停止するのである。

謗法を犯しても懺悔することのない日顕らに、今後、御供養をしない者が増えていくのは、教義に照らして当然の傾向ではあるまいか。

七章 天魔出来 終

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