報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

五章 綺語きご誑惑おうわく

地涌オリジナル風ロゴ

第226号

発行日:1991年8月14日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

池田名誉会長を波木井実長に擬するまでの極論をいうなら
日蓮正宗僧侶は創価学会寄進の寺から退去して発言せよ

日蓮大聖人が身延に入られたのは、文永十一年のことであった。以来、弘安五年までの九年間、日蓮大聖人は身延に滞在された。しかしその間、身延を領地内におさめる地頭であった信者・波木井実長の外護の実績はあまりに少ない。

認められるのは、日蓮大聖人が身延に入られて八年目の弘安四年十月に十間四面の伽藍を寄進したこと、弘安五年秋、日蓮大聖人が身延から池上に旅されたとき、「きうだち(公達)」(波木井殿御報)をお供につけたくらいのことである。雪害、水害などで交通が遮断され、日蓮大聖人が飢えに直面されていても、地元の地頭である波木井が大聖人のお世話を申し上げていないことは、日蓮大聖人の御消息文からうかがい知れる。

日蓮大聖人居住の草庵にしてから、屋根も破れ、柱や壁がともに倒れても、波木井は救援していない(建治の頃)。自分の領地内のことである。実長本人が鎌倉に役目で出ていることが多かったにせよ、地頭職という立場であれば、家来の配備もしくは定期的なご機嫌うかがいも容易にでき得たであろうに……。

日蓮大聖人を飢えに直面させたり廃屋のような所に長年住まわせたりなど、地頭の波木井に、とてもではないが外護の精神など認めるわけにはいかない。

波木井が日蓮大聖人を外護したのは、弘安四年以降の一年あまり程度と思われる。その外護も、日蓮大聖人の予言された他国侵逼の難が逼迫してきたことによると思われる。弘安二年七月二十九日、鎌倉幕府は蒙古(元)よりの使者を九州・博多において斬首に処した。ために蒙古の来襲は必至とみられ、鎌倉武士団のあいだにも、以来ただならぬ不安と緊迫感が漂っていた。蒙古の来襲は、他国侵逼難をかねてから予言していた日蓮大聖人に対する鎌倉武士らの評価を変えるものとなった。

波木井が、日蓮大聖人に対する信仰の姿勢をいっそう深めたのは、このような時代変化、鎌倉の動揺した雰囲気があったものと思われる。もっとうがった見方をすれば、波木井は、幕府要人たちの日蓮大聖人への空気の変化を見届けたうえで、日蓮大聖人へのご奉公の姿勢を深めたとも思われるのである。

いずれにしても、弘安四年五月、再びの蒙古の来襲(弘安の役)があったことが、波木井の信仰に大きな影響を与えたことは想像に難くない。

さて日顕上人は、波木井実長に日蓮大聖人外護の多大な功績があるとする。そして、いかに功労者であろうとも、間違いを諫めて改めなければ、日興上人が身延を離山されたときのように、功労者との訣別も考えなければならないとしている。

なぜ日顕上人は、史実に反してまで波木井実長を功労者に仕立て上げなければならないのか。それは池田名誉会長を波木井になぞらえ、みずからを日興上人になぞらえることにより、大功労者である池田名誉会長への不当な中傷を正当化したいからだ。

大功労者の献身的な供養に長年甘んじてきながら、単に気に入らないということだけで池田名誉会長を追放しようとする己の理不尽な仕打ちを、宗内の僧俗に納得させるための、苦肉の策である。

しかし、この日顕上人の論は、波木井が外護の大功労者でないことから、その前提において破綻している。日顕上人は、創価学会解体を仕掛けた己の破和合僧の策動を正当化したいのである。

開創七百年後の現在と、大石寺を開創した身延離山の時期にオーバーラップさせ、みずからを日興上人に見立てて正当性を誇示したいのだろう。

だが、“瞬間湯沸器”との異名をとるほど、瞋恚の思いが人並みはずれて強い日顕上人が、開祖とまったく違う人格の持ち主であることは歴然としている。日顕上人には、信徒の幸せを願う慈愛など、とてもではないが認め難い。

したがって、池田名誉会長を波木井に擬することは史実に反するし、日顕上人を日興上人に見立てることもとうてい無理である。どう考えても、今を身延離山のときにオーバーラップさせることは不可能である。開創七百年にあたって身延離山をしのぶならば、日興上人のように、正邪をわきまえどのように行動すべきかを考える必要がある。身延離山を口実に信徒団体を攻撃するなどという愚かな試みはやめるべきだ。

とはいうものの、日顕上人を筆頭とする日蓮正宗中枢が、池田大作創価学会名誉会長を波木井実長に擬し、あくまで妄論をもって創価学会及び名誉会長を批判するのであれば、日顕上人らもみずからの論理を行動のうえにおいて貫徹すべきであろう。

日興上人は、地頭である波木井の謗法を誡められたが、波木井はそれに従わなかった。故に日興上人は、「地頭の不法ならん時は我も住むまじき由」(美作房御返事)との宗祖の御遺言に従われ、波木井の庇護を潔しとせず、身延を離山されたのである。

しかるに今日、日興上人の末流を自称する日蓮正宗中枢の者たちは、創価学会寄進の堂塔伽藍、寺院に住み、厚顔無恥にも創価学会を謗法呼ばわりするのである。大いなる論理の矛盾、行動の卑しさである。宗開両祖の末裔を自認し、いささかなりと自尊心を持ち合わせるなら、創価学会寄進の堂塔伽藍、寺院より退去して、その後に「池田名誉会長は波木井実長だ、創価学会は謗法である」と発言すべきであろう。

それにしても日興上人の身延離山という崇高なる事跡を、己の支配欲を正当化するためにいかにも安直に利用するとは、日顕上人は実に稀代の悪比丘である。日蓮正宗七百年の歴史において並ぶ者はいない。

池田名誉会長が昭和三十五年五月三日に創価学会会長に就任してより、昭和五十八年十二月末日までに創価学会が日蓮正宗に寄進した寺院の一覧を掲載した。別ページ に掲載した、昭和五十九年三月三十一日より今日に至るまでの百十一カ寺の寄進寺院一覧表とあわせて見ていただきたい。

昭和35年以降に創価学会が建立寄進した寺院

これらを見れば、創価学会が赤誠をもって日蓮正宗に寄進をしてきた実績のほどがわかろうというものだ。昭和三十五年五月三日の池田会長就任以降なされた、日蓮正宗に対する創価学会の三百十六カ寺におよぶ寄進の歴史的事実を見れば、十間四面の堂一宇を寄進した波木井実長と同一視することの不当さがはっきりしてくる。ちなみに、創価学会が今日まで日蓮正宗に寄進した寺院の総数は、三百五十二カ寺である。

繰り返すようだが、その寺院に住し、寄進した創価学会を謗法だと批判し、池田名誉会長を波木井実長と並び称することなどあってはならない。あくまでその妄論に固執するのであれば、創価学会から寄進を受けた寺院を退去してから批判してはいかがなものであろうか。それが、いささかたりとも自尊心を持つ者の節操と言うものであろう。

ここまで書かれても、創価学会寄進の寺院に住し池田名誉会長を批判する僧がいるなら、その者は乞食坊主だ。身延離山を語る資格などない。

五章 綺語誑惑 終

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