報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

四章 邪智じゃち蠢動しゅんどう

地涌オリジナル風ロゴ

第176号

発行日:1991年6月25日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

昨年七月に「C作戦」を検討したことを猊下みずから認める
「C作戦」は日顕上人の出席した「御前会議」で練られた

日顕上人はこれまで、「C作戦」について公式の場で言及することを避けてきていた。だがこのたび、三月上旬に総本山において、複数の僧侶を前にして「C作戦」に関与していたことを認めていたことが判明した。そのときの状況は次のようなものであった。

複数の僧侶が日顕上人に、「昨年の夏の時点で『C作戦』をご存じだったのでしょうか」と聞いたところ、日顕上人はたちどころに、「知っていたよ。『C作戦』はあの野郎の首をカットするという意味だよ」と、やや気色ばんで話した。日顕上人がここでいう「あの野郎」とは、創価学会の池田名誉会長を指している。

同時に日顕上人は、「C作戦」の実行について、日顕上人出席の「御前会議」で検討されたことも披瀝した。「C作戦」について、日顕上人みずからが関与を認め、さらに昨夏、宗門において正式に検討されていた事実を認めたことは実に重大である。

これまで日蓮正宗では、昨年来の日蓮正宗と創価学会のあいだに生じた混乱の一切の責任は、11・16の池田名誉会長の発言に起因するとしてきた。ところが、このほど確認された日顕上人の「C作戦」に関する発言は、宗門側の言い分を根底からくつがえすことになる。

今日まで確認された事実を総合すると、大要次のような経過となる。

七月十七日、常泉寺における連絡会議において、秋谷創価学会会長および八尋頼雄副会長が、日顕上人の池田名誉会長への発言に言及した。その内容は、先に池田名誉会長が長期の海外布教より帰国後、すみやかに総本山に登り「お目通り」をした折り、日顕上人はねぎらいの言葉もおろそかにしたまま、池田名誉会長に寺院の工事の遅れなどを厳しく問い質した。これに対し秋谷会長と八尋副会長が、このような実務的な事柄はこの連絡会議で話し合いたい旨を述べた。

これは、未来永劫にわたる日蓮正宗と創価学会の和合のためにも、必要な知恵であった。猊下が海外布教より帰国した信徒の長に対し、ねぎらいの心を第一として臨めば、麗しき僧俗の関係を築くことができる。

それを、長駆、海外布教より帰ってきた大信者に、寺院の工事の遅れなどを問い詰めたのだ。常識を疑う行為であり、信徒に対する出家の側の傲りが露わになった事例である。ここにも日顕上人の貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)の三毒強盛なることを認めることができる。

この連絡会議における秋谷、八尋発言の報告を受けた日顕上人は激昂した。七月二十一日、池田名誉会長と秋谷会長が大奥対面所で「お目通り」した際、日顕上人は秋谷会長に対して、「法主の発言を封じた、きょう*慢だ! きょう*慢謗法だ」と怒鳴った。そして池田名誉会長に対しても、「あんたにもいっておきたいことがある。懲罰にかけるから」と言い放った。いまとなって見れば、このとき、すでに日顕上人の念頭には、「C作戦」の第一段階である総講頭罷免があったことも充分、考えられる。

七月十七日の連絡会議にあたっては、学会側は「赤いスポーツカーに乗る僧侶がいる」ことなどにも触れ、僧侶全般の金満化を憂い、綱紀自粛を宗門側に申し入れたが、これをも逆恨みしての創価学会首脳に対する罵倒であった。

日顕上人をはじめとする日蓮正宗中枢は、己の権威の前にひれ伏さない信徒に対し憤懣やるかたないものを感じたようだ。それのみが理由で、一挙に創価学会解体の奸計をめぐらすまでに感情を高ぶらせたのである。

日顕上人が、本年の三月上旬、関与の事実を認めた「C作戦」に関する「御前会議」を開いたのは、七月二十一日の「きょう*慢謗法」発言の前後、七月十七日より後で、七月末日より前のことと判断される。

また、この「御前会議」の直前と推測されるが、海外部書記(当時)の福田毅道が「C作戦」をワープロで打って清書した事実が本人によって公表されている(一月二日に福田より久野SGIアジア部長に対しFAXされた「宣戦布告書」に明らか)。

この「C作戦」作成の中心人物は、海外部主任の関快道(東京・狛江市仏寿寺住職)であった。この「C作戦」の作成書(正本)は宗務院海外部に保管されていた。副本は高橋公純らが持っていた。

「C作戦」を海外部主任の関快道が作成するにあたって、原案を作った者がいる。宗門中枢では「創価学会の副会長」「創価学会の首脳の一人」と思っている者もいるが、これは操作情報に乗せられたものだ。だが、いずれにしても、在家の者が関わっていることだけは確かのようである。

ここではこの「C作戦」が、山崎正友がかつて昭和五十三年当時に正信会の者を煽るために書いた「ある信者からの手紙」に酷似していることのみを指摘しておく。

さて、昨年八月に決行される予定であった「C作戦」は、結果的には延期された。福田は、延期の決定時期について、「七月の終わり頃」(福田毅道の「宣戦布告書」)と記述している。

延期の最終判断は、当然のことながら日顕上人が下した。延期の理由としては、創価学会と戦うためには、綱紀自粛をして、宗門内に戦いうる体質を作ることが先決と判断したことがあげられる。これについては、八月末、宗門は僧侶全般に対し、綱紀自粛を打ち出している。もうひとつの理由としては、九月、十月に大石寺開創七百年の諸行事を控えていたことを挙げることができる。

そして、十一月十六日の池田名誉会長の発言を口実に、宗門世論を反学会の方向に喚起した。そのうえで十二月二十七日、用意周到にも、信徒処分条項の「宗規改正」を名目にして、池田名誉会長を総講頭の地位より実質的に罷免したのであった。

この後、「C作戦」そのものの履行は、創価学会側の敏速な組織対応によって阻まれた。もし「C作戦」がそのまま電撃的に断行され、池田名誉会長をはじめとする創価学会首脳の破門、創価学会の絶縁がおこなわれていれば、創価学会側は相当な打撃を蒙っていただろう。

日顕上人は決して、「C作戦」の断行をあきらめてしまったのではない。二つの要因の推移をにらみながら、じっとそのチャンスをうかがっているのだ。一つは経済的要因であり、もう一つは法的要因である。

経済的要因とは、とりもなおさず創価学会組織を切り崩し、自活できるだけの檀徒を末寺が作り得るかどうかである。法的要因とは、創価学会側を挑発し、破門にしうる事由を、ある程度の年月をかけて学会内で既成事実化させることである。

ただしこの二つの要因が整わなくても、日顕上人が成否を度外視して勝負に出てくる可能性がある。つまり、追い詰められて創価学会破門の挙に出ることも考えられるのだ。それまでは、添書登山を利用しての檀徒作りに一縷の野望を託すことになるだろう。

いずれにしても、宗門の策謀を破ることができるのは、池田名誉会長を中心にした創価学会員の団結のみである。攻めるにしても守るにしても、整然として隊伍を乱さず戦うことである。日顕上人らの瞋りの生命に感応して、挑発に乗ったり勇み足をしたりしないことだ。

固く団結をし、一人ひとりが広宣流布への熱望を失わず、強く宗門の暴挙を破折していけば、状況は必ずや大きく転換する。そのときには、創価学会が仏意仏勅の団体であることが、ひときわ鮮やかに認識されることだろう。

四章 邪智蠢動 終

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